四、灼熱の中でさえ、愛はなお
ボリースが村を去って、八年。
物憂げな月明かりが見下ろす家中は、無残な姿になり果てていた。
丸太の壁の隙間から、はみだした苔が水を垂れ流していた。
人気もまたなかった。
アレクセイの帰りは年々遅くなっていたし、母娘も日が落ちるまで働いた末、木の実やきのこを採りに出かけなければ、日々の飢えを凌げないほど貧窮していたからだ。
にもかかわらず、みすぼらしい暖炉の前には、今日も欠かさずパン屑が撒かれている。ドモヴォーイだけが、疲れることも、痩せることもなく独り佇んでいる。血涙を滲ませたような赤い目で。神棚の
「家畜が代を替えるか替えないかの短い間に、家族は散り散りになってしまいました。ぼくらが地上に堕とされたのは、貴方のお慈悲だと信じてきました。楽園から追放された人々を慰めるのが、ぼくらの役割だと。ですが……違ったのですね」
ドモヴォーイは目を伏せ、パン屑を摘まみ上げようとした。だが、その指先はパン屑をすり抜けた。かれは自嘲的に口端を歪ませ、手を組んだ。そして、いつかアレクセイが、神棚の下で譫言のように呟いていた言葉を諳んじた。
「嗚呼、われらが神よ。汝の天界に臥床を与え給え。汝はわれらが造物主なれば、あわれな者どもに、只一つ死をこそ給え」
それができぬなら、と今度は自らの言葉で訴えかけた。
「せめて憐れな家族に、お慈悲を。彼らの胸に住まう、唯一の主人にのみ鞭を振るわせ給え……」
無論、かつての主人から返ってくる言葉は何一つとしてなかった。
窓をノックするのは、冬の気配を伴った寒風だ。
ギィと玄関のドアが、それを迎え入れた。一緒にエレーナが入ってくる。棒のような腕をさすりながら。
「さむい……」
背中の籠を下ろす彼女の隣に、ドモヴォーイはぺたぺたと歩み寄った。
ほとんど同じだった目線は、いまやすっかり彼女のほうが上だった。
しかしその背丈に反して、肉は削ぎ落とされたように薄く、骨ばかりが厚かった。
かつては黄金に艶めいていた髪も、今では古い藁のように見えた。
なによりも変わってしまったのは、目だった。
いつか抱き合ったあのとき。
彼女を満たしていたものは、もうそこになかった。
疲れた足取りで暖炉へ向かう背中に、ドモヴォーイは役立たずの腕を伸ばした。
その時、胸に開いた空虚な穴が、ひょうと音をたてた。エレーナの双眸にも似たそれが、なにか大切なものを吸いこんでいった。
体毛がざわめき、伸長した。割れた床を這って、徐々にじょじょにエレーナをとり巻きはじめた。
いっそのこと――。
細い背中を見つめ、ドモヴォーイは目を細めた。
神に願ったことを、この手で果たすほうが。
呪い殺してやるほうが、エレーナのためになるかもしれない。
「……だ、だめだっ」
そう思うのに、体毛が彼女の首に巻きつくと、ドモヴォーイは呪いの力を維持できなくなった。白い毛が解け、蒸発するように消えていく。ドモヴォーイは両手で顔を覆った。
「できないよ……」
けれど、このまま何もしなければ、ずっと同じだ。
家族は苦しみ続ける。むしろ、苦しみは増していくだろう。
ドモヴォーイはうんうんと唸った。血が滲むほど頭を掻きむしった。
悩みに悩んだ挙句、彼はひとつの閃きを得た。そして、背中の皮が一気にちぢみ張り裂けてしまうような恐怖を味わった。
「さむい……」
それもエレーナの丸まった背中を見ているうち、波のような悲哀へと変わった。波の飛沫は、二度とかえってくる事のない無数の思い出によって形作られていた。ボリースの腕のなかで眠る、幼いエレーナが鼻を鳴らした。家族みんなの笑い声が聞こえてきた――。
ドモヴォーイはひとり頷き、玄関に向きなおった。そっとドアを開けると、ふたたび体毛がざわめいた。一度はエレーナの命を奪おうとした呪いの力で、食料の蓄えられた壺や樽を表階段へと運んでいった。
荷物を出し終えると彼は、エレーナの隣に立った。その横顔をじっと見つめ、懺悔した。
「ごめんよ、レヌーシュカ。ぼくは、きみたち家族の温かな明かりにはなれなかった」
暖炉に燻ぶる炎に手をかざす。彼は、
「えっ、火事っ!?」
突如、上がった火の手にエレーナが気付いた。襤褸じみた上着を脱いで、火を消そうとして――突然、手を止めた。
「おじいさん……?」
ドモヴォーイはびくりと肩を震わせた。炎まで驚いたように火の手を拡げた。毛むくじゃらの脹脛を呑みこみ、床材にまで燃え移ったのだ。
「おじいさんッ!」
呟きが金切り声に変わった。今度こそ上着を水に浸したエレーナは、それを炎目がけパンパンと叩きつけた。しかし、あっという間に成長した炎は、消えるどころか弱まる様子さえない。むしろドモヴォーイの太ももまで呑みこんで、より傲然と膨れあがっていった。
「なんだ、どうして食料がここに?」
「それより家が!」
そこに男女の声が飛びこんできた。玄関がたたき開けられ、アレクセイとエーヴァが慄きもあらわに駆け込んでくる。ふたりもまたドモヴォーイに目を留めた。
「まさか……」
「おじいさま……?」
凝然とするふたりに、エレーナが叫んだ。
「お父さん、お母さん! お願い、火を止めてぇ!」
娘の必死な声で、父母は我に返った。
すでに炎は、手の付けられないほどに膨れあがっていた。壁を伝い、天井まで焼き始めていた。床もまばらに燃えあがり、ドモヴォーイの半身もまた炎と化している。それでも果然と、アレクセイとエーヴァは燃える床を蹴った。
「「うわあ!」」
ところがその時、ふたりの眼前に燃えた梁が落下した。煙と火の粉が飛び散り、ふたりの行く手を遮った。
「逃げてって言ったじゃないか、レヌーシュカ」
朽ちた屋根を一瞥し、ドモヴォーイは呟いた。
エレーナは、もはやその場にくずおれて、駄々をこねる子どものようにかぶりを振った。
「そんなの、無理よ……。おじいさんを置いて、いけないわ」
彼女のまなじりに浮かんだ涙は、すぐに蒸発して消えた。ドモヴォーイは、まだ燃えていない手で、愛おしい少女の目許をぬぐってやった。
「ぼくのことなんて気にしなくていい。それに、この場所には、きっともう幸せはやって来ないんだ。わかるだろう? ぼくの手は、ほら、冷たいだろう?」
ドモヴォーイは、浮かんでは消える涙を何度でも拭った。その度に、エレーナは赤ん坊がいやいやをするように
「冷たくなんかないわ」
「そんなはずないよ」
「冷たくなんかない、ちっとも」
「じゃあ、きっと燃えているせいさ」
「そんなことない」
頑ななドモヴォーイの言葉を、エレーナもまた頑なに否定した。
何度も何度も、なんどでも――。
やがて返る声がなくなると、彼女は諭すようにこう言った。
「寒くて凍える夜はね、家族みんなで身を寄せ合って眠るの。でも、お父さんもお母さんも寝相が悪いから、すぐわたしから離れていっちゃう。ふと目が覚めて、それがわかるの。でも、ふたりが近くにいなくてもね、寒くて寂しい夜なんて一度もなかった」
エレーナはそこで一旦言葉を切って、伏せていた目を上げた。濡れた瞳がまっすぐにドモヴォーイを見つめた。それは炎を照りかえして、ドモヴォーイの真っ赤な双眸に似た色彩を宿した。
「それって、おじいさんが、ずっと一緒にいてくれたからでしょう? あなたの身体が、ずっと温かかったからでしょう? わたしはね、あなたと共にいられることが、お父さんやお母さん、そして兄さんといられたときと同じように幸せだった」
ドモヴォーイの耳もとでジッと音が鳴った。
彼自身の流した涙が蒸発する音だった。
ずっと無力だと思っていた。
自分の目に家族は見えても、家族の目に自分は見えないから。言葉を交わすことも、触れることもできないから。
けれど、違ったのだ。
盲目だったのは、ドモヴォーイのほうだった。
いつか去り際にボリースが告げてくれたように。
エレーナも、アレクセイも、エーヴァも。
期待などせず、ただ愛してくれていたのだ。
ドモヴォーイ自身、ただ愛したくて、彼らを愛してきたのに。
いつしか家族を助けることが、愛される条件だと思いこむようになってしまっていた。
「わたしたち死んじゃうね」
無邪気な口調でエレーナが言った。
ドモヴォーイは微笑んだ。
「……死んじゃうね。でも、きみのことは死なせないさ」
愛するものの頬から手を離しながら。
たちまち、その手に炎が燃え移った。ついに全身が炎に呑まれた。
にもかかわらず、その姿は、不思議と炎の苛烈さより、秋にみる森のような深甚なる侘しさに包まれた。
「今までありがとう。大好きだよ、レヌーシュカ。でも、もうお別れだ」
「なにそれ。それって、どういう――」
愕然と返されたエレーナの声は、窓の割れる音にかき消された。直後、家全体が傾いだ。燃える天井が落ちてきた。
「きゃあああ!」
エレーナは絶叫し、燃え盛るドモヴォーイを抱きしめようとした。しかし、その指先は虚空をかいた。身体がぐんと宙に舞ったのだ。視野が反転し、全身に燃える塵芥が吹きつけた。紅蓮の空が足許に吹き流され、星のない夜空が視野を覆った。
「おじいさんっ!」
宙に投げだされたまま、エレーナは崩れゆく我が家に手を伸ばした。ドモヴォーイの姿は、火の粉と煙のなかに間もなく消えた。そして、エレーナを野外に放りだした白い毛の塊も、地面に叩きつけられる衝撃を一身に受け止めると蒸発していった。冬の訪れを告げる夜風が吹きつけた。身体の芯まで沁みつくようにキンと。
「「レーノチカ!」」
そこに、煤で真っ黒になった父母が駆け寄ってきた。ふたりは娘を抱きしめた。様々な感情が湧き上がり、エレーナは嗚咽もなく静かに泣いた。
「大変だぁ!」
「燃えてるぞ!」
人が集まってきた。
「行こう」
アレクセイが言った。エレーナは両親に抱えあげられるように、立ちあがった。そして、炎の明かりが届かぬ闇へと駆け出して行った。何度も、そう何度も、灰に帰していく我が家をふり返りながら。
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