三、家族に尽くすことは、国に尽くすことよりも尊い
幸い、エーヴァの命に別状はなかった。数日もすれば起きてこられるようになる。医者はそう断言した。
ひとまず家族は胸を撫でおろした。しかし、その安堵もすぐに拭って捨てられた。
エーヴァが数日も動けなくなるのは、由々しき問題だ。農奴はその貧しさに反して、山のような仕事をこなさければならない。
アレクセイとボリースが、それを代わってやるのはとても無理なのだ。領主の我儘は日毎にエスカレートし、今では賦役が週の五日を占めるようになってしまったから。かと言って、幼いエレーナに多忙な農婦の仕事をまっとうしろというのも無理がある……。
「ぅぅ、う、うあぁ! うわあああああああ……っ!」
家族の嘆きは、ドモヴォーイの嘆きでもあった。
夜の闇のなか、彼は声を限りに泣いた。
慈悲深い隣人に、あるいは天上の神にまで届くことを願いながら。
けれど、どの家も閉ざされた門は固く。
天地の距離はあまりにも遠い。
そればかりか、地に堕とされた妖精の泣き声は呪いを招き寄せてしまう。ドモヴォーイの泣き声は、死神の好物なのだ。
ところが、死神が狙いを定めたのは、床に臥せたエーヴァではなかった。彼女は衰弱するどころか、驚異の回復を見せた。翌日早朝。台所に立ったエーヴァの姿は、家族をたいそう驚かせたのである。
死神の愛撫を受けたのはボリースだった。
そして、死神に代わって家族が目にしたのは、唇をへの字にひん曲げた兵士だった。彼はその唇で、ボリースに兵役の任を報せたのだ。
――
ボリースの旅立ちが告げられた、その夜もドモヴォーイは泣いた。まだ現実を受けとめきれない家族の分まで。胸が張り裂けそうな、その痛みを吐き出し続けた。
心の裂け目から、思い出がしみ出してくる。
幼い頃のボリースの姿が、ふと脳裏を過ぎる。
今でこそ好青年然としているボリースも、昔はやんちゃだった。目が合えばエレーナをいじめ、村の子どもたちとケンカし、家畜にはイタズラばかりしていた。叱られる度にアレクセイから拳骨を貰っていたおかげで、今も頭のてっぺんがへこんでいるほど。手の付けられない子どもだった。
傍若無人のふるまいを見かねて、行動を起こしたのはドモヴォーイだった。ボリース驚かせてやることにしたのだ。エレーナを抓った分だけボリースの肌も抓り、村の子どもたちを殴った分だけ物を壊し、家畜の毛をむしった分だけ髪の毛をむしるといった具合に。
最初のうち、ボリースは虚勢を張っていた。
ケンカをしてできた傷だ。たまたま壺が割れただけだ。袋が粗くて毛が絡まったんだと。
しかし、そんなことが一月も続くと、さすがの強がりも恐怖に負けた。
ボリースは母に泣きついて助けを乞うた。エーヴァは仕事の手をとめ、口許を綻ばせた。そして、優しくこう諭した。見るに見かねたおじいさんがあなたを叱りつけているのよ、と。
ボリースは、母の話に熱心に耳を傾けた。中には恐ろしい話もあった。
けれどボリースは、恐怖よりむしろ敬意をもってドモヴォーイと接した。暖炉の前にパン屑を撒いて、ごめんなさい、いい子にします、と真摯に頭を下げたのだ。
「ぼくじゃなくて、みんなに謝っておいで」
ドモヴォーイはボリースの素直さに感心して、やさしく囁いた。その声が聞こえていたかどうかはわからない。おそらく聞こえていなかっただろう。よしんば聞こえていたとしても正しくは伝わらなかったはずだ。
しかしその翌日。
ボリースは村の子どもたちみんなに頭を下げ、一緒に遊んで欲しいと嘆願した。拙いながらも仲直りの歌まで作って皆の前で披露した。夜にはエレーナの小さな身体を抱いて、暖炉の前にパン屑を撒いた。そして、その日一日の出来事をおじいさんに語りかけるのだった――。
しかし運命は、残酷にもボリースを連れていってしまう。
兵役に就くことは死を受け入れるのにも等しい。軍のしごきやいじめの苛烈さは有名だ。身ぐるみを剥がされ、極寒のなかに放置されることもあるという。酷薄な領主の許で搾取されるのとは、別の苦しみが待っているだろう……。
「おじいさん、どこにいるの?」
泣き声が大きすぎたかもしれない、エレーナが起きてきた。ドモヴォーイは目許をこすり、暖炉の中から這いだした。ごしごしと目許をぬぐう少女を見て、彼女も泣いていたのだと気付いた。
ドモヴォーイはエレーナを抱きしめようとした。
けれど触れる寸前、身を引いた。
温かければ幸福が、冷たければ不幸が――。
彼女にこれ以上、悲しい思いをさせたくなかった。
「おじいさん、いないの? お兄ちゃんがいなくなっちゃうのに、おじいさんまで……?」
エレーナのまなじりに涙が膨れあがった。間もなく嗚咽がはじまった。
ドモヴォーイは虚空に指をさまよわせ、やはりその指を握りこんだ。肩を震わせ、零れ落ちていく自分の涙を見下ろした。涙は床に触れたとたん蒸発して消えた。
ぼくなんて、いてもいなくても同じだ。
ドモヴォーイは、くるりと身を翻した。暖炉の寝床へ戻ることにした。
その時だった。
彼の背を引きとめるかのように、声がしたのは。
「おじいさんは、ちゃんといるよ」
少年らしさをかすかに残した、それはボリースの声だった。
ふり返ると、ちょうどボリースがエレーナの頭に手をのせたところだった。
「おれだってここにいる。誰もいなくなったりしない」
ボリースは妹の前に屈んで、今度は両肩をぽんぽんと叩いた。小さな額にキスをすれば、ニカっと笑った。いつかのガキ大将の頃のように。
「ホントに、誰もいなくならない?」
「当然だろ。母さん、すぐに起きてきたじゃないか。おじいさんだって、ちょっと疲れて休んでいるんだろうさ」
「でも、お兄ちゃんは?」
「おれはしばらく家をでて、もしかしたらスウェーデン人と戦ったりするかもしれない。だけど、必ずまた会えるよ。お兄ちゃんは強いんだ。知ってるだろ?」
そう言って、ボリースは妹の頬をつねった。
エレーナは熱いものでも押し当てられたようにきゅっと目を瞑った。けれど、痛みがないのに気付いて目を開けた。頬に手をあて兄を見上げた。穏やかな笑みが、そこに待っていた。エレーナはこっくりと頷いた。
「いい子だ、
ボリースはもう一度、妹の額に口づけた。そして、小さな背中を押した。
「さあ、もう行こう。夜更かしはよくない」
「うん」
ふたりが寝床へ去って行くのを、ドモヴォーイはじっと眺めていた。彼の求めるものが、そこにはあった。
やがて、ボリースがひとり戻ってきた。ドモヴォーイは訝しんだ。すると、ボリースはまっすぐに彼を見つめた。
「こんばんは、おじいさん」
「ええっ!?」
ドモヴォーイは吃驚仰天して跳びあがった。
ボリースは申し訳なさそうに苦笑した。
「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったんだ」
「ぼくが、見えるのかい?」
「見えるよ。晴天の月のようにはっきりとね」
ドモヴォーイは絶句した。言葉まで通じていた。驚きのあまりくずれ落ちるその身体を、ボリースは慌てて支えてくれた。
「どうしたの、おじいさん!」
「だって、だって……」
ドモヴォーイは顔を覆って泣きだした。
ボリースは静かに、彼の隣に腰かけた。
「おれのことなら心配いらないよ」
「でも、だけど」
「おじいさんの姿を見てしまうのは、不幸の兆しらしいね」
「そうだよ……」
ドモヴォーイは恐るおそるボリースの顔を見上げた。ボリースは小窓の向こうにぶらさがった月を見ていた。
「確かに、おれはもう帰って来られないかもしれない」
「……」
「家族と離れるのは嫌だ。母さんも倒れたばかりだし。家のことだって心配さ。藁袋を濡らすレーノチカの姿なんか目に見えるようだよ」
でも、とボリースはドモヴォーイの目を覗きこむ。
「おれにとっての不幸は、これからやって来る、自分が経験すること以外にはない。おじいさんの姿を見られたことは、全然不幸なことなんかじゃない。むしろ、嬉しいことさ」
「嬉しい……?」
「とてもね。おじいさんに叱られる前のおれは、悪い子どもだったろう? 逞しい父さんの背中を見て、強い男にならなくちゃって焦ってたんだ。だから、たくさんケンカをしたし、レーノチカや家畜をいじめてた」
けれど、ボリースは変わった。
「でも、強い男っていうのは、そんなものじゃなかった。友達と仲直りして、弱いものを慈しむようになって、それがわかったよ。誰かに優しくすると、そのために自分はいくらでも強くなれるんだって」
ボリースはドモヴォーイの肩を抱いて、ウインクをした。
「そのきっかけをおじいさん、あなたが教えてくれた。おれはずっと、夜になると傍にいてくれる、あなたの温もりを感じていたよ」
「え……」
「パンを撒く役目は、もうすっかりレーノチカに譲ってしまったけどね」
ドモヴォーイはしばらくの間、ボリースを見つめていた。涙を拭うと、まなじりからまた一滴の涙がこぼれ落ちた。だが、もう嗚咽することはなかった。ドモヴォーイはボリースの手をとって額に押し当てた。
「ありがとう、
「お礼を言うのは、おれの方なんだけどなぁ」
額を押しつけたまま、ドモヴォーイはぶんぶんと頭を振った。
「じゃあ、ひとつお願いをしてもいいかな?」
「なに?」
「あっちへ行く前におじいさんの毛が一束ほしい」
「え、ぼくの毛がほしいの?」
「あっちじゃきっと知ってる奴なんていないだろ。それじゃ寂しいからさ」
顔をあげると、縋るような眼差しがそこにあった。
ボリースはまだ十六歳の子どもだ。徴兵は原則二十歳と決められているのに、法律など言葉ばかりだ。現実は、ボリースのような少年も容赦なく連れ去っていく。未知なる土地へ。知己なき孤独へ。
「……ボーレチカ」
ドモヴォーイは背筋を伸ばし、少しへこんだ頭を撫でた。そして、自分の腕の毛を一束むしり、それを握らせるようにボリースの手をとった。
「どこに行っても、なにをしていても、ぼくたちは家族だ。いつまでも、ぼくたちがきみの居場所だよ」
その時、ボリースの瞳が煌めいた。月明かりを弾いて、しずくが頬を流れ落ちた。エーヴァに泣きついて以来、見ることのなかった涙に、胸の奥がじんと痺れた。
「ありがとう。おれの大切なひと。大好きな
ドモヴォーイは、立ちあがるボリースの横顔を見上げた。綻んだ口許は、いつかのガキ大将のそれではなかった。覚悟を決めた、悲哀の笑みだった。
「父さんと母さんを、そしてレーノチカを頼みます」
それがボリースとの最後の会話になった。
以降、ボリースがドモヴォーイを感じることはなくなってしまったから。
それでも出立のときがやって来るまで、ドモヴォーイはボリースに寄り添いつづけた。
村の少年たちが招かれ、ささやかな宴が開かれたときも。
旅立ちの
最後の晩餐を終え眠っている間にさえ、片時も。
けれど、残された時間はまたたく間に消えて。
「それじゃ、ちょっと行ってくるよ」
ボリースは旅立っていった。
そして、二度と帰ってくることはなかった。
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