二、人も家畜も身勝手な主人に振り回される

 十八世紀。

 ピョートル1世がみずから〈皇帝インペラトール〉を名乗り、ロシア・ツァーリ国がロシア帝国に改められた頃。


 農民の生活は、貧窮を極めつつあった。彼らは農奴として蔑まれ、行動の自由をもたず、人格的な権利を有するものなど皆無にも等しかった。


 領主やその代官の気まぐれで鞭打たれ死ぬ者があった。法に準じておらずとも構わず売買され、土地や家族からひき離される者があった。負担に耐えかねて自由人カザークの許に逃れる者があった――。


 だからこそ、チューストヴァ村の領主にあたるロスティスラーフ・エフモヴィチ・アバカロフは、同階級のものからは狂人、農奴からは神と評されていた。


 かれは領民に必要以上の干渉は行わず、過度な租税を課すこともなかった。しばしば賦役を行わせはしたものの、その程度は甚だ易しく、十分に貢租を納めているものに対しては分有地の賃料減額、あるいは免除さえした。土木工事に従事させる際には安全管理を徹底、万が一怪我人が出たり、提供された家畜が損なわれたりした場合は真摯に謝罪し、賠償することまであったという。


 領民は、感謝していた。替えの利く労働力ではなく、肉をもった道具でもなく、かけがえのない家族の一員として生きられることに。


 だが、そんな幸運な日々も、ついに終わりを迎えるときが来たのだ。

 偉大なる領主ロスティスラーフは、この世を旅立った。

 雪の轍のうえに橇ごと横たわり、氷像のごとく固まっていたという。


 残されたものたちは聖像イコンの前で再三の祈りを捧げた。

 歌うたいの女は寒風よりも胸に沁みる哀歌プラーチをうたった。


 しかし如何なる祈りも、切願の歌も、きっと外には届くまい。

 この国は、雪と氷と、そして搾取の悪念によって、閉ざされているのだから。

 



――



 ドモヴォーイは外を眺めていた。小さな窓の視界にも収まってしまうくらい、小さな歯抜けの麦畑。雪は積もっておらず、氷も張ってはいなかった。どころか背の低い麦の穂先からは陽炎が立ち昇っている。夏だ。冬よりもずっと短い季節。額に浮いた珠の汗をぬぐいながら、エーヴァがひとり雑草を刈っていた。


 そう、ひとりだ。アレクセイやボリースの姿はない。

 人頭税を徴収する目的で、チューストヴァ村にも軍隊が配備された。ふたりは、その兵営宿舎の修繕に駆り出されていた。


 エレーナもまたここにはいなかった。彼女はまだ八つになったばかり。賦役にやられることこそないものの、疲れ切った母を支えるために、遊んでいるわけにはいかなかった。


 ゆえに、ドモヴォーイもまた独りである。

 元々、夏や秋といった実りの季節は、ひとりになるのが常ではあった。農民からすれば最も忙しい時季なのだから無理もない。承知しているつもりだった。


 けれど、ここ数年は孤独がつらい。寂しさに耐えられないのではない。家族のひき離される時間の長さに、胸が痛むのだ。


 かつては小窓を覗けば、清々しい顔つきで穀物を刈るアレクセイがいた。水汲みからエーヴァが戻ってくると、何度目かの食事の支度がはじまった。家畜小屋からは、はしゃぐ兄妹の声が聞こえてきた。家族はいつも一緒だった――。


 なのに、いま。


 アレクセイの姿はなく、兄妹の笑い声も聞こえてはこない。

 エーヴァのうつむいた横顔には生気がない。服は泥まみれだ。解れた糸がそこここからとび出して、どこから湧いて出たのか血の色まで付いている。美しかった白皙の肌も、ほんの数年で、乾いてささくれた古木のようになってしまった。


 領主が代わり三年、村の生活は一変してしまった。


 不干渉の壁はたちまち壊され、新たな領主は駒でも動かすように、領民同士に婚姻を結ばせた。女が家族からひき離される悲しみに涙しようと、互いが憎み合うもの同士であろうと構わず。賃料の取りたても厳しくなった。人頭税で導入されたにもかかわらず。賦役は甚だ過酷なものとなった。村人が怠惰であるか否かにかかわらず、気まぐれに鞭が振るわれた――。


「どうして、こうなっちゃったんだ……」


 ドモヴォーイは窓にぺたりと手をあてた。

 だが、その手は、畑に屈んだエーヴァにさえ届きはしない。


 彼は神ではない。人ですらない。家を守る妖精に過ぎないのだ。土地に縛られ、加護の力も、呪いの力も、家の外にまでは及ばない。家事を手伝うしか能がない。ドモヴォーイは胸の毛を鷲掴み、窓から目を背けた。


 玄関のドアが軋んだのは、それとほぼ同時だった。

 重そうにドアを押し開け、痩せた女の子が入ってきた。背中に籠、腕にいっぱいの荷物を抱えながら。


「おかえり、レヌーシュカ!」


 ドモヴォーイは、エレーナに駆け寄った。ふらつく彼女の代わりに、荷物を持ってやろうとした。けれど、その手は荷物をすり抜けてしまう。家事をするときは、一度だって皿を落としたことなどないのに。


「ごめんよ……」


 疲れた横顔に声をかけた。なんの反応も返ってこなかった。

 エレーナは台所に荷物を置くと、暖炉の前に屈んだ。そこには暖炉と一体化した竈が設けられている。食事の支度をするのだろう。ドモヴォーイはそう思ったが、彼女の手には湿ったパンがひとつ握られているだけだった。エレーナはそれを千切ってあたりに撒きはじめた。


「おじいさん……上等なものじゃなくて、ごめんね……」

「ああっ! そんなことしなくていいよ……!」


 ドモヴォーイは慌てて、パンを掴もうとした。しかし彼の手は、やはりパンからすり抜けてしまった。エレーナの手を掴もうとしたが、それもダメだった。


「ぼくは食べなくてもいいんだ……。そんなことしてもらわなくても、ぼくはみんなのこと大好きなんだ……なのに」


 どうせ止められないのなら、他になにかできる事はないか。ドモヴォーイは思案した結果、エレーナの頬に毛むくじゃらの手を伸ばした。せめて、そこに伝った汗だけでも拭ってやりたいと思ったのだ。


「あ」


 その時、ドモヴォーイの手が彼女の頬に触れた。とうとう触れた。白い毛の塊が汗を吸った。

 エレーナはぴくりと肩を震わせた。そして、か細い声で、こう呟いた。


「……冷たい」


 ドモヴォーイは目を見開いた。

 汗の拭われた頬に、涙が流れ落ちていった。


「冷たいよ……」


 ドモヴォーイは後退った。

 真っ白な、雪のような、己の手を見下ろした。

 恨むような目つきで、見下ろした。


 彼は家守りの妖精。

 であると同時に、予言者でもあった。


 ドモヴォーイの身体に触れ、温かく感じられたときには幸運があるという。

 しかし、冷たく感じられたときには不幸がやって来るというのだ。


 この三年の間に、様々なことがあった。

 ボリースが鞭に打たれ、アレクセイが足をだめにして、領主に貸し出した馬は死んでしまった。

 にもかかわらず、ドモヴォーイを冷たいと言ったものはなかった。


 では、これからどんな不幸が待ち受けているというのか?


 ドモヴォーイは頭を掻きむしって暖炉のなかに逃げこんだ。膝を三角に折ると、神棚を恨めしく見つめた。空は晴れ、氷も融けたというのに、あのお方の目にはまだ苦しむ家族の姿が見えないのか、と。


 それが却って神の逆鱗に触れたのかもしれない。


 俄かに外が騒がしくなった。

 エレーナがぴんと首を伸ばして、小窓から外を覗きこんで、次の瞬間、家をとび出していった。


 まさか?


 ドモヴォーイは肩を抱き、目をつむった。そうやって嫌な想像を追い出そうとした。けれど、彼の耳に飛び込んでくるのは避けようのない現実だった。少女が喉のすり切れるような声をあげていた。お母さん、お母さんと。何度もなんども。

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