岬にて
海野しぃる
2020-07-31
今日のT岬はよく晴れていて、対岸にある青森までも見渡せるほどだった。
本格的な夏を前に木の葉は青々と茂り、平日なので人も殆ど居ない。
フェンスのせいで立ち入ることができない岩場には、いくども波が打ち寄せていて白く泡を立てている。
少し沖の方には岩礁がある。そして奇妙なことに、その上にはまるで腕を広げた人間のような奇妙な影が――
「お兄さん、何を見てるの」
そうやってフェンスによりかかりながら海を眺めていると、透き通った高い声がして、僕は振り返った。
白い帽子を被ったなにやら楽しそうな表情の少女が立っていた。
地元の人間という感じはしなかった。色白で、訛りが無い。青いワンピースのデザインも、妙に垢抜けていて、色々と“らしくない”感じがした。
「ああ、あの岩礁のあたりがね。変な形をしているなあと思って。人に見えない?」
そう言って、先程人影が見えたあたりを指差す。
「あー、あのおっきな岩ね!」
少女はころころと笑う。
「なにか知っているのかい?」
「あそこだとお魚がよく釣れるんだよ。たまにこっそり釣りに行く人がいるの」
「地元の子かい?」
「まあね。このあたりに住んでるの」
そうなると妙だ。
「君、学校は?」
「開校記念日でお休み。ちょっと遊びに来たの。お兄さんこそ仕事は?」
「少し病気をしてしまって、お休みもらってるんだ。治療の合間にちょっとドライブしにきたの」
「へぇ……それでボーッと海を見てたんだ。ねえ、お兄さん」
なんとなく奇妙だった。
会話が滑らかすぎる。相手が理路整然と話しすぎていて、言葉が作り物のように感じられた。同じ内容を聞かれ慣れているような、そういう感じ。まあ一々掘り下げても良いことなんて無いから黙るけど。
「なんだい?」
「それって重い病気?」
「急だね……まあ結構な重病だったね」
僕はそう言って近くのベンチに腰掛けた。まだ抗がん剤の影響が残っていて、立ち続けるのも辛い。座ってから岩礁をもう一度見る。先程と同じ、人のような形の奇妙な影が乗っかったままだ。あれはああいう形の岩なのだろう。
「そっか……あのねお兄さん。実はここ、自殺の名所なんだよ」
なんだろうこの子は、まさか、僕を心配しているのだろうか。
「ありがとう。けど大丈夫。別にこんな昼日中から自殺しに来る訳ないだろう? ここにはただ……ツブ串を食べに来ただけなんだ。名物だろ?」
「ああ、ツブ貝、美味しいもんね」
少女は安心したような顔を見せる。可愛いものだ。
「そうだ。今日はまだツブ串まだ食べてないんだ。話に付き合ってもらったお礼に君も一本どうだい?」
「えぇ? 知らない人から何か貰ったら怒られるよ」
「じゃあ僕が二本買ってくるよ。こっそりどこかで食べたらバレないだろうし。串は自分でどこかに捨ててきてもいいし、僕が捨てておいてもいい」
「ふぅん……じゃあ貰っちゃおうかな」
そう言って少女はイタズラっぽく笑った。
*
もちもちとした歯ごたえで、噛む度に塩味と出汁の味が滲んでくる。押し付けがましくない潮の香りが鼻腔へとゆっくり上っていって、貝そのものは喉の中へと滑り落ちていく。昆布を使って仕込んでいるのだろう。塩だけで最低限の味付けをして、あとは素材の味をそのまま味わえる。
くっついたツブの殻(蓋のような部分がある)が邪魔だが、この美味しさの前には些細なことと言っても良い。
「お兄さん、さっき、あの岩を見てたけどさ。あんまり見つめるのはやめておいたほうがいいよ」
「どうして?」
「たまにおっかない人がこっそり集まってたりするの」
「港町だからね。そういうこともあるよね」
「そう、そういうこと」
少女はコクコクと頷く。
「けどね。それだけじゃないんだよ。海は呼ぶから」
「呼ぶ」
「昔はね、今みたいにフェンスも無かったし、道だって無かったから、よく出くわしちゃったんだって」
「出くわしたって、何に?」
「それは……分からない」
与太話だろうと思って笑い飛ばすには、随分と深刻な顔をしていた。
「誰かが飛び降りたり、人殺しが起きたり、他の人には見えないものが見えたり、不幸に見舞われたり……あとあっちの山の中には道路の真ん中に木があるでしょう?」
「登山道の真ん中に生えている木かい?」
確かに彼女の言う通り、この岬の近くには夜景が有名な山がある。
そしてその登山道の中には急に一本だけ木が生えている。道路の真ん中に生えているものだから目立つのだが、心霊スポットにありがちな「!」の標識一つあるだけで説明は他になかった。
「そうそう、呪いの木なんだよ。切り倒そうとした人が皆怪我しちゃったんだって。うちのお父さんも蹴りを入れた帰りに転んで骨折っちゃったの」
「ほう、あれがね……そういうことだったのか」
「あとねあとね。すぐ近くに墓場があったり、昔の軍の基地があったり、お侍さんが一杯死んじゃった場所があって、昔あった海水浴場だって……」
「それは見たな。ここに来るまでの道が墓地だからね。文豪の墓なんて言っていると観光名所っぽいから騙されるけど、あれはなかなか面白いよね」
「面白くないんだから。本当にひどい事件もたくさん起きてるのに。このあたり、そういうことが沢山あるんだよ」
少女はムスッとした表情を浮かべた。
「詳しいね」
「……このあたりに住んでいると色々聞くの。警察も来るし。だからお兄さんも変な事考えちゃダメだよ」
「分かった。ありがとう」
何気なく時計を見ると、もう十一時を過ぎていた。昼飯は何にしたものか。ツブ串だけでは昼飯には不足だ。
「さて、良い時間だし帰るかな。色々話してくれてありがとう。面白かったよ」
「いいよ、私も面白かったから」
顔を上げると少女は居なかった。
見回してみても、周囲にあの年齢の女の子はいない。白い帽子も青いワンピースも見つからない。
「面白かった、か……」
それまでになかった濃い潮の香りがする。彼女が座っていた場所が水でべちゃべちゃになっていた。そして彼女の居た場所には丁寧に串が置いてあった。捨てておいてあげよう。串を拾い上げて、僕は面白いことに気づき笑ってしまう。
「……蓋ごと食ったのか、固くて食えたものじゃないだろうに」
ドボン、と大きな音が海からした。音の方を見ると、ちょうど水柱があがって、それが波の中に消えていったところだった。周りに居た観光客は誰も音に気づく様子が無い。僕は何を見ているのだろうか。
あるいは、あれが女の子だったのかも、怪しいものだ。
あの奇妙な形の岩礁をもう一度見ようとしたが、それらしきものは見つからなかった。僕は安堵のため息を吐いた。
「ごちそうさまでした」
串を売店のゴミ箱に捨てて車に乗り込む。
そうだ。岩礁など見つからなくて当たり前だ。
この岬に遊びに来たことはあるが、あんな岩礁があった記憶は無い。
「久しぶりに来てみてどうだった?」
車で一緒に来ていた彼女が笑う。そういえばこの時、なぜか車から出てこなかったんだっけか。
「やっぱり変だよここは」
助手席で笑っている彼女も、話しかけてきた子供も、あの観光客の中にも、ツブ串を売ってくれたおじさんも、海と山の狭間から海岸線沿いの街と遠い土地の浜辺を見ることのできる美しい風景にも、確かなものなんて一つも無い。
助手席に座っている彼女がある日突然現れた妄想の産物じゃない保証はない。あの子供が何か名状できぬ海から来た存在じゃない保証は無い。あの服装も思い出せないような観光客が本当に姿のあるものだったかは分からない。売店のおじさんがこの場所で何を見てきたのかなんて分かったものではない。
それでも、僕の目に映る全てが、僕の脳の中で、僕の知る世界に折り合いをつけながら振る舞っている。驚きも怯えも深入りもせずに受け入れてしまった方が楽だ。
だからきっと、今日あったこういう変な話も、たとえ小説という形にせよ書き残すべきではなかったのだけど、まあ僕に関しては手遅れという奴だ。手遅れだから書き残すのか、書き残したから手遅れになるのか、まあ鶏と卵というやつかもしれない。
白日の下、よく見えているからなんだというのだ。
岬にて 海野しぃる @hibiki
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