高縄原
四谷軒
高縄原の戦い
1
冬の武蔵野。
枯草が風なびく中、その一軍は進んでいく。
整然と、だが勢いよく進むさまは、見ていて心地よいほどだ。
旗指物には、三つの鱗が見えた。
俗に北条鱗と呼ばれる家紋である。
「相州の兵、意気
軍勢を遠巻きに眺めていた一騎の武者がひとりごちた。
当時、相模は伊勢宗瑞が苦難の末に攻略し、伊勢家は駿河半国、伊豆、相模を治める大名へと成長した。
そして現在、伊勢家は二代目の氏綱が継ぎ、家名を「北条」と改めたところである。
騎乗の武者は、馬首をめぐらして駆け去っていった。
武者の名は、太田資高。
現在、武蔵を支配する扇谷上杉朝興の家臣である。資高の祖父は太田道灌といい、戦乱の武蔵野に平安をもたらした名将であったが、主君である扇谷家に抹殺されてしまった。しかし今、孫である資高の主君は扇谷朝興であり、その主君に対し、北条家の武蔵野侵入を、報告する必要があった。
2
「……それで、その兵数はいかほどか」
扇谷朝興は大儀そうに扇子をもてあそびながら、資高の話を聞いていた。まるで話を聞いていない風にも見える。
「二万くらいかと」
「二万?」
さすがに朝興は目を剥く。
「他国の逆徒め。その全軍で来た、ということか」
「は」
「……してその方、書状を預かってきたということだが?」
「これに」
資高は懐から封書を取り出す。封書の向きを変え、朝興に差し出した。
「……殿?」
が、朝興はいっかな書状を受け取ろうとしなかった。
「……余が聞きたいのはそういうことではない。何故書状を受け取ったのか、ということじゃ。余が命じたのは物見であって、使いではないわ」
朝興は激昂した。資高は主君の言い条が理解できず、黙って頭を下げることしかできなかった。朝興の激昂は治まらず、ついに扇子を資高の下げた頭に叩き付けた。
「この、うつけが。北条などという名乗り、これがどういうことか分からんのか!」
「は、いえ……古の鎌倉の幕府の執権の家で……相模を治めるには都合の良い名乗りからだと……」
「それがうつけだと云うのじゃ!」
資高が不分明であるという顔つきを変えないので、朝興は呆れたように座に戻り、脇息に肘をつきながら、説明した。
「その方の云うとおり、彼奴が鎌倉の幕府の執権の家であるとするならばだ……。彼奴は、その幕府を倒して、足利の御家の幕府を樹てた我らはどうなる?」
「仇、ということに相成りまするか……」
「甘い」
朝興はつづけた。執権北条であるならば、足利幕府は無かったものと扱う。つまり、足利幕府の名門である上杉は当然、存立を許されない……そういう解釈になる。
「それは考えすぎでは?」
「ならば何故堀越公方は殺された? 彼の逆徒が……不逞にも程があるわ! さような者からの書状など……受け取れぬわ!」
朝興は勢いよく立ち上がった。
「どちらへ?」
「馬引けい! 当然のこと……逆徒の討伐に出陣する!」
「いくさを仕掛けるので? 左様なことをせずとも……城に
この江戸城は、資高の祖父・太田道灌が築城した城である。城作りの名人とうたわれた道灌の城ならば、北条軍は退けられよう、という資高の計算だった。
「あほうか、うぬは」
朝興は呆れた表情をして、云った。
北条軍は堂々たる合戦で打ち破ってこそ、
「北条でも伊勢でも構いませぬが、相手をせずに城に籠るというのも、ひとつの策では?」
「だからあほうなのだ……北条相手に恐れおののいた、と言われたいのか? もうよい、そなたは城代である江戸城で後詰じゃ。いくさに臆病者はいらん!」
叩き付けるような主君の物言いに、資高はさすがに怒りを覚えたが、さっさと乗馬に向かった朝興には気づかれなかった。
資高は馬上の人となった朝興を見送りながらつぶやいた。
「……愚かな。好きにするがいい……家宰の太田家抜きで、どこまで合戦がやれるのか、見せてもらおうではないか」
やがて資高も江戸城の守りを固めるために場を去った。
3
冬の武蔵野は、芒や萩といた枯草の野原だ。ところどころにある残雪が、目にまぶしい。
北条軍の先頭を行く騎馬武者が、連銭葦毛の愛馬を巧みに操って、軍勢を導いていく。
「……どこまで行っても江戸城どころか、敵影すら見つからぬ。広いな、武蔵野は」
「殿。左様に先に行かれては危のうございます。ご自重を」
先頭の騎馬武者は伊勢氏綱改め北条氏綱となった壮年の武将であり、その後ろから、重臣である遠山直景が声をかけたところであった。
氏綱は面頬を外すと、しばし寒風に顔をさらした。
「したが直景、早う征かぬと、策に乗った上杉に地の利を取られるぞ。策士、策に溺れるとはこのことじゃ」
「その際は、退かれ、追ってこさせれば良いではござりませぬか。当方の有利な地形まで」
「多摩川の川原まで何も無かったぞ? いっそ背水の陣と行くか?」
「御冗談を……」
直景は氏綱を信頼しているが、時折途方もない賭けにでるところが不安である。
今回の北条襲名もそうだ。こんなことをしたら、足利、上杉の連中を敵に回すこと請け合いである。何故、そのようなことをするのか。
「どちらにせよ、敵に回すことになるからだ」氏綱の回答は明快だった。「堀越公方を討った時点で、我らの敵対は明白。なら、思い切って北条と名乗れば、ほれ、躍起になってかかってくるであろう?」
「『かかってくるであろう?』ではございませぬ」
直景は反駁しつつも、氏綱の意図を理解した。どうせ敵対するのなら、敵自らが出てくるぐらい、派手に敵対してやれば良いのだ……堅城に籠らず、野戦を挑んでくるくらいに。
「江戸城への仕込み……活きると良いですな」
「いやいや、野戦になった時点で……いや、道灌入道を弑した時点で、もう上杉はいかぬよ……」
4
高縄原。
今日では、港区高輪として知られる地域である。その名のごとく、縄のようなまっすぐな道が、高台を通っているところだと云われている。
この高台において、北条軍と上杉軍は対峙した。
「我が名は曾我神四郎。上杉の一番槍ぞ!」
神四郎は大槍を振るって、北条の陣へ飛び込んだ。目指すは、連銭葦毛の馬の将、北条氏綱である。
「通すか!」
氏綱の横合いから直景が出て、朱槍を薙いで応戦する。
神四郎と直景の槍が交差し、高音を発す。二人に負けじと、上杉勢と北条勢はそれぞれ吶喊し、突撃した。
「おう、あれに見えるは扇谷朝興か、勝負を所望!」
氏綱は大胆にも、朝興を見るや単騎で駆け寄っていった。
「他国の逆徒が! 武蔵まで食指を伸ばしおって!」
激する朝興は刀を抜いて氏綱と戦おうとする。
「殿を止めよ! 敵将を討て!」
上杉勢の重臣たちが口々に叫ぶ。それを後目に氏綱はあっさりと朝興の眼前にまで出現した。
それを見た神四郎は慌てて引き返し、かろうじて届いた槍で、氏綱の乗馬の尻を叩いた。
「ぬうっ!」
連銭葦毛は氏綱を守ろうとして、その場を離れ、走り出した。そして、やはり近づいていた直景は主人を諫めつつ、本陣へと送り出す。
「短兵急にも程がありますぞ」
「すまぬ」
このあたりから両軍混戦の模様を示し、突撃し合うこと、七合にも及んだ。
5
「……直景、直景!」
激突が八度目に及ぼうとするとき、氏綱は直景に声をかけた。
「かねてからの手筈どおり、一隊を預ける故、江戸城を目指せ」
「仰せ、承りました」
直景は片手をあげると、彼に従う兵たちは頷き、隊列を組み直す。
「我らこれより北側から上杉を攻撃す! ついてまいれ!」
直景は自ら三つ鱗の旗を掲げると、現在で言う麻布方面へと向かった。
驚いたのは上杉軍である。
「何だ、あれは」
「互角の兵数だというのに、二手に分かれたぞ」
「挟み撃ちか?」
口々に思いつきを言う兵たちを前に、朝興はうろたえるなと叫ぼうとした。
そこへ、その流言が飛び込んできた。
「太田殿、裏切り!」
「江戸城に三つ鱗の旗が!」
それが事実かどうかはさておき、その衝撃はあっという間に全軍へと伝わった。
神四郎は取るものもとりあえず、主君の前に急いだ。
「殿、太田殿のこと、まことでござるか?」
「し……知らぬ!」
こちらが聞きたいくらいだ、と朝興は叫ぶのをこらえた。だが、ありうることだ、というのは理解していた。太田資高は、祖父・道灌を上杉家に上意打ちされ、父親も始末された。その上今日、北条軍接近を注進に及んだところ、つれない対応をされた。裏切るのに十分すぎる状況証拠があり、それは上杉家の皆が知っていた。
「やはり、返り忠」
「でなければ、あの相模勢の動き、合点がいかぬ」
兵どころか諸将の間にも動揺が広がっていく。
「江戸城は相模の手に落ちた!」
「このままでは挟み撃ちどころか、後ろからも討たれるぞ!」
馬鹿な、と朝興は否定しようとしたところに、上杉軍の中の流言飛語がどっと沸いたように、満ちた。
そしてその動揺を、氏綱は正確に看破した。
「押し合いの振りは仕舞じゃ、かかれ!」
同様に直景の部隊も、横合いから突撃する。
「このまま敵中を突破する! 目指すは江戸!」
6
上杉軍は潰走し、江戸城まで逃げたが、その城門は固く閉じられたまま、開くことはなかった。
「資高、きさま」
「祖父といい、父といい、上杉家に尽くしたのに、殺された。俺は、そうはならん!」
にべもない資高の対応に、朝興は馬首をめぐらすしかなく、武蔵野を彷徨することになった。
程なくして氏綱率いる北条軍も江戸城へ到着した。
「太田殿、苦労」
「何の……では、城に入りますか?」
「いや……」
氏綱は面頬をつけ直し、兜の緒を締めた。
「もうひとあたりする。この機に乗じて、扇谷を討つ」
出撃する氏綱を見送り、資高は、今日までの主君・朝興の云うとおりになったな、と思った。
北条という名は、足利を否定する。足利に類するものを無かったことにする。
実際、この後、北条家は関東を制し、その過程で足利家、山内、扇谷の両上杉家は駆逐されることとなった。
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます