後編
「……やめなさい」
我に返って、大人ぶる彼の頭を胸に抱え込み、私はその耳元に囁きかける。
「私、もう高校生じゃないんです。誰にも、何にも、文句は言わせません。あなたの家で……雨宿りさせてください」
体温を彼に預け、彼が観念するのを待つ。雨は静かに降り続き、すぐに私もずぶ濡れになった。
こんな状況でなければ、彼は力ずくで私を引き離しただろう。けれど、今は。
……やがて、冷え切った両腕が、おずおずと私を抱きしめた。
お互いを温めあった後、彼がコーヒーを入れてくれた。インスタントだったけど。
着替えはまだ洗濯機の中だ。
乱れたベッドで、流石に少し気恥ずかしくなって布団を引き寄せた。
彼はバスタオル一枚腰に巻いたまま、ベッドに腰掛ける。
「名前を、教えてくれないか」
「母が、名乗りませんでしたか?」
「下の、名前……いや、ごめん。憶えてない」
それもそうかと、一口コーヒーをすする。
「
「あげは」
ふふ、と笑いを含む声にくすぐったい気持ちになる。特にこの先を期待しての行動ではなかったのに。
「なるほど。花に寄せられるはずだ。ありがとう……慰めてくれて。今は、何を? 差し支えなければ」
「庭師をしています。と、いっても、まだペーペーですけど。私、この庭に手を入れたくて庭師になったんです。まだ、ここをどこの業者が管理してるのかもわかってませんけど」
見つめる瞳に驚きを乗せて、彼は苦笑した。
「本当に? じゃあ……いや……どうしよう……これ以上は……もう、充分甘えさせてもらったのに」
「なんですか? 今日のうちなら、聞きますよ」
わざわざ時計を指さして期限を切ったのは、自分のためでもあり、彼のためでもあった。きっとこういう関係は彼は続けたがらない。その時計はもう止まっていたから、本心では未練たっぷりだったけど。
彼はコーヒーをサイドテーブルに置くと、慎重に私を抱き寄せた。
「いっとき、私の婚約者になりませんか。久我……いえ、もう旧姓に戻すので
今度は私が驚いた。別れありきの無味乾燥なプロポーズにもだが、久我や崋山院は街中の看板でも、ウェブ広告でも嫌と言うほど見る名前だ。
「か……崋山院!?」
「本当に知らなかったのですね。怖気づきましたか? あげはさんにはチャンスでしょう? 私が持っていても、たかってくる有象無象が増えるだけです。でも、あなたなら……この庭を酷いようにはしないでしょう? 私があげられるのはもうこの家と庭くらいしかないので、結納金としてなら誰も文句を言えないはずです」
「ままま、待って。私は、その跡取りを誘惑したの?」
「正確には跡取りの一人だった、です。もう競争からは弾かれましたから」
『稀代の悪女!』などという週刊誌の見出しが頭の中に乱舞した。くらくらしてくる。
「いや、私、知らなくて……ここが欲しかったわけでもなくて……」
「はい。驚きました。有名だなどと、うぬぼれていて恥ずかしい。やはり、荷が重いですか? ……そうですよね」
諦めきった笑顔が、まだ付け入る隙があるのだと知らせて、悪女でもいいかと思わせる。言いたい奴には言わせておけばいいのだ。
「なんの理由もなく婚約解消はできませんよ。どうするつもりです?」
「まあ、手っ取り早く、女性スキャンダルでも起こせば、あとは簡単ではないですか? こう言ってはなんですが、落ちぶれても寄ってくる人はいるので」
そこまで解っていて、どうしてうまく立ち回れないのだろう。
「許しません」
「え?」
「婚約指輪代わりにこの家を私に譲ったら、あなたは会社を辞めてください」
いっそ、得心したというように頷いて、彼は唇の端を引き上げた。
「……そうですね……若いあなたの経歴に傷をつけるのですから……そのくらい必要ですね」
「そして、造園業にかかわって、私と一緒に資格を取ってください。なんなら、ほとぼりが冷めるまで外国で勉強するのもありですね」
「……どういう?」
困惑で瞳が揺れる。
「『緑の指』を埋もれさせるなんてしませんよ」
「緑の指?」
彼は、不思議そうに自分の手を見下ろした。
「植物を育てる才能のある人のことですよ。あなたがいた間、この庭がどんなに素敵だったか」
「あの時は……ただ、無心になりたくて……」
私は頷いた。
「才能ですから、そこに努力もくそもありません。それを、私にください。いつか、あなたと共に私は独り立ちします」
マダムたちに好印象だったのだ。ギスギスと人を蹴落とすような仕事より、絶対に彼に合っている。
どうしてか、確信があった。
「私には何もなくなるばかりか、煩わしいことばかり残るのに……こんな、おじさんで……」
「私から見れば、最初から何もありませんでしたよ? ああ、アルマーニのスーツくらい? あと、人の好みにケチをつけないでください」
むぅっと分かりやすく膨れてみせると、彼はパチパチと瞬いて、さっと頬に朱を乗せた。
「……どうしよう……君は、本当に……飴玉一つ出せない私なんかが? いまさら……何もかも諦めたのに……あの夏が戻ると?」
絡む視線の奥で彼の瞳に温度が戻る。
「夏は、これから来るんですよ。気に入った花には綺麗に咲いてほしいじゃないですか。そうしたらきっと、甘い蜜も吸えますから」
私は彼の首に腕を回して微笑むと、ゆっくりと目を閉じた。
* おわり *
移り気の庭 ながる @nagal
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