中編

 夏休み、いつものように庭を覗き込むと、彼が雑草を抜いていた。これはチャンス! と話しかける。


「おはようございます!」

「……おはよう。暑いね」

「大変そうですね」

「まあね」

「お手伝いしましょうか」


 少し驚いて、顔を上げた彼は思案気に首を傾げた。


「楽しくないよ」

「暇なんです」


 半分嘘だ。まだまだ課題は残ってる。


「じゃあ……アイスクリームで、どうかな」

「喜んで!」


 ご褒美がつくとは思ってなかった。心からそう言って門をくぐったけれど、もしかしてお駄賃を期待したと思われたのかもしれない。それに気づいたのは、夜になってからだった。

 母には変な噂にならないかと心配されたけど、彼は周辺のマダムにも好印象のようで、逆にマダムたちと庭の話で盛り上がる機会が増えた。寄せ植えにお薦めの花とか、肥料の与え方、組み合わせ。植え替えにちょうどいい季節。住宅街の一角に花が増えた。

 私が一緒に作業するときも近すぎず、あるいは別の場所でが常だった。周囲から見えない場所の作業はさせてもらえない。薄着で行ったときは作業着を着せられた。


 世間体的にも正しい接し方なのだろう。

 だけど、夏休みが終わるころには私はそれに不満を抱いていた。大げさだなって。誰も気にしてないよって。もっと彼と話したかった。

 東屋で一休みするときも彼は一緒に座らない。日陰に立って花々をチェックしている。

 だから、私は冗談に紛れさせて、けれど思い切って言ってみたのだ。


「座りませんか? 疲れるでしょう?」

「いや。いいんだ」

「誰かに何か言われますか?」

「そういうわけでは、ないんだけど」

「何もないんだから、堂々としてればいいんですよ。何か疑われたら、私、本当にお嫁に行ってもいいですから」


 あはは、と朗らかに笑って、彼は空を見上げた。


「ありがとう。でも、私はもうすぐ結婚するから」

「え!? あ……そ、そうなんだ。へー! おめでとうございます! ここに、一緒に?」

「……いいや」


 女性の影なんて見たことも感じたこともなかったのに。

 じゃあ、どこに、とか、もうここには来ないのか、とか、聞きたいことがぐるぐるして、でも彼もそれ以上は押し黙ったままで……妙な沈黙が続いてしまった。どうしよう。どうしてこんなに落ち着かないんだろう。

 彼はふっと笑って、組んでいた腕を下ろした。


「たくさん手伝ってくれてありがとう。夏休みの間はもう作業できる時間はなさそうだから、今日までだね。課題、終わった? 頑張ってね」

「あ……ハイ」


 その日のデザートはスイカで。でも、味が全く分からなくて。

 とぼとぼ家に帰って夜通し泣いてから、ようやく名前さえも知らない彼に完膚なきまでに失恋したのだと悟ったのだった。



 * * *



 言葉通り、彼の姿はぱったりと見えなくなった。

 学校が始まり、日常が戻ってくる。ひと夏の恋は友達の誰にもバレることはなかった。

 その年の文化祭に隣のクラスの男子に告白されて、付き合ったり、別れたり、また別の人と付き合ったりと、それなりの学生生活を楽しんだ。


 毎日目に入る庭は、だんだんと元の姿に戻っていき、最低限の秩序だけが保たれていた。

 最初は忘れてやるんだと目を逸らしていたけれど、だんだんと腹が立ってきた。ちゃんと世話をしないのなら、私に任せてくれればいいのに、と。覚えたあれこれが、彼の声と共に蘇る。最初は庭が目当てだったのだから――

 意地だったのかもしれない。そこを保てれば、いつか彼が帰ってくるかもしれないと。それがたとえ幸せな家族の姿だったとしても。

 それで、進路は決まった。

 庭師になるのだ。


 造園科のある大学を選び、1年の留学。4年でガーデナーの卵になれた。

 マンションや施設の花壇の植え替えなどを請け負う中堅会社に就職もできて、毎日がむしゃらに働いていた。もちろん、あの庭に入れるチャンスはなかったけど。

 梅雨の季節。ようやく慣れてきたところで仕事の延期が増えた。机に座って書類仕事をするのは気が進まない。

 その日も早く切り上げて、家へと帰るところだった。


 バスを降りると、薄暗い中に緩やかなグラデーションが見える。私は傘を少し高く上げて、紫陽花がよく見えるようにした。彼がいた時のように鮮やかなグラデーションじゃないのは、ピンクの色が年々青色に寄っているからだ。

 それが完全に青色になってしまえば、彼の記憶も消えてしまうような気がしていた。

 ゆっくりと歩を進める目の端、毎日舐めるように見ているからこその違和感。

 私は少し戻って、目を凝らしてよく見る。

 薄暗がりの中、闇に溶け込むようにうつむき座り込む人の頭。


 私は駆け戻って、不法侵入だということを承知しながら門をくぐった。

 心臓が早鐘を打つ。

 私が近づいても、その人は微動だにしなかった。少しこけた頬と無精髭。彼じゃないかもしれない。

 距離を取って、一度深く息を吸い込む。傘を持ち直し、ゆっくりとその人にさしかけた。


「……お兄さん。風邪をひきますよ」

「いいんだ」


 落ち着いた低めの声は、間違いなく私の知っているものだった。

 暗い色のスーツは雨を吸ってさらに暗い色に沈み込んでいる。細身のスラックスなど、ぬかるみに浸かり、まだら模様を描いていた。


「『お家は近所ですか? 雨宿りしていきますか?』」


 家の敷地内でかけられる言葉として違和感があったのだろう、彼はのろのろと顔を上げ私を見ると、少しだけ目を見張った。


「きみ、は」


 けれど、すぐにその瞳から光は失われ、また紫陽花の根元へと視線を落とす。


「若い娘さんが、こんなところにいてはいけませんよ」

「どうしてですか」

「自棄になった狼に……いや、駄犬に襲われるかもしれないからです」

「襲う元気もなさそうですが」


 彼は短く喉の奥で笑って、深々と息を吐きだした。


「そうですね。いつも、その勇気が足りないのかも……母にも、会社にも、妻にも……」

「……えっと……なにか、お辛いことがあったのですね? 庭師は、辞められたんですか?」

「庭師?」


 眉をひそめて、こちらは見なかったけど、彼は顔を上げた。


「ニュースをご覧になってないのですか?」

「え? ニュースになるほど大きな会社だったのですか? ごめんなさい。ここのところ忙しかったし、元々テレビも週刊誌も興味ないので……」


 彼ははじけたように笑い出した。今までに聞いたことがないほど可笑しそうに。


「そうか。なるほど。どうしよう。そうか……私はね、母に捨てられ、会社に人身御供に差し出され、事実上妻の会社に事業を乗っ取られて、その妻にも浮気されて、その上その罪をなすり付けられて捨てられたんだ。本当のことを話しても、誰も私の言葉に耳を貸さなかったよ。いいや。知っていて知らんふりをしたんだ。その方が都合がいいから。親族も、部下も、友人も、くれたのは慰めの言葉だけ。運が悪かったなって……どこで足掻けばよかったんだろう。足掻けるタイミングがあったんだろうか。狭められていく道を、どうにもできなかった。私が少し我慢すれば、きっと母は、会社は、妻は、幸せになれるはずだと思ったのに」


 一度堰を切った言葉の濁流は止まらないようだった。

 彼のうちこごり、溜まっていたものが堰を切ってあふれてくる。よく知らない人間にだからこそ、さらけ出せる本音だったのか、あるいは、聞かせるためのものではないのか。


「地位も財産も取り上げられ、追い打ちのように母が亡くなったと知らせが入り、父が拒否した死体を引き受けに行って、彼女のつつましやかな生活を見た。母は浮気した男と出て行ったと聞いていた。誰も否定しなかった。母の好きだったこの庭も、色を変える紫陽花に例えて『移り気の庭』と揶揄された。私も疑わなかった。捨てられた子と哀しむだけだった。父は再婚し、けれど、母はずっとひとりで、黙って懸命に生きていた。唯一、母のものだったこの家と庭を守るのに遠くから必死だった。紫陽花が色を変えるのは、土の成分のためだ。この色が見たいと手を加えればその通りに変わる。母が、移り気だったのではなく……それを弱いと嘲る権利が誰にある? 売り払えばよかったのに。私に残されても、きっとまた取り上げられる……母が守れたものを、私は……私では……!」


 一見静かな慟哭に、冷たいしずくに交じって熱を持った水滴が零れ落ちる。

 泥と水にまみれたその姿が、どうしようもなく胸を騒がせて。


 私は傘を手放すと、雨の中、もういいよと彼の唇を塞いだ。




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