その小犬胡乱に付き(3)

 綺羅さまは言った。

「御政事の間の若い詰衆で火の点検を行うのは昔からのお役目。蝋燭や油、炭の補充なども昔からの決まり事。あなたが提灯を持ち歩いていても、誰もなんとも思わない。提灯を持ってあなたは猫田に連れられて、新築の飼育小屋に行った。きっとそこには警固の御歩行おかちなどがいて、高張提灯も掲げてあったのだと思う」

 綺羅さまはそう言って、珍しく立ち上がった。黒い髪がさらさらと揺れる。夏雪さんはそれをまぶしそうに見つめた。

 綺羅さまは縁側の隅っこに重ねて放置してあった、古びた大きな提灯の一つを手に取った。それからそれを丸い形に戻した。提灯には、「御用」と記されていた。

「そうです。シロは小犬だったから、これくらいの大きさの高張提灯にもすっぽりおさまった。人に聞かれたら、提灯が一つ壊れたから取り換えるとか言っておけば、誰も怪しまない」

 それはスイカくらいの提灯だった。

「そこが抜けぬよう板を張って、シロに待てと言いました。それからわたしは白昼堂々、その提灯をぶらさげて、奥御殿と表をつなぐ広縁を通りました。お城で一番警固が多い場所です。それは緊張しましたよ。ようやく表御殿にきて、大廊下を通りました。お殿様が政務を執られる書院の間につながる廊下です。だから重臣方と多くすれ違い、立ち止まっていちいち頭を下げてお通りになるのを待たなければならない。ドキドキしました」

 ひょえ~、聞いてるだけで緊張するよ。

「やっと玄関の御式台まで行きましたが、その脇には、若い近習たちの控えの間があるのです。だから顔見知りの者たちが話しかけてきたり、ふざけて突っかかってきたりしました。それらをかわしながら冷や汗がでましたよ。外にやっと出て、次にお濠の橋を渡ります。御存じだろうが、あの二層櫓門がある」

 それは城下の町からもよく見える、お城で一番高くそびえ立つ立派な門だ。

「そこも警固の者がうじゃうじゃといます。そこで、門衛詰所の提灯を取り換えに参ると言って通りました。なんで畳んで持っていかないのだ?と聞かれないか、ドキドキしましたが聞かれませんでした」

「シロはあなたの犬でもあるから、吠えもせずおとなしく提灯の中にいたのだろう」

「そう、シロは賢い犬です。わたしが待てと言ったら、御城外に出るまで静かにできる犬なのです。それからご連枝様の御殿がある二の丸を通り過ぎて、やっと西大手門外に出ました」

「公事場や藩校がある辺りか」

「そうです。門衛詰所に用があるふりをしてその脇に入り、提灯を畳んで、シロを泥で汚して、そこから鈴風の屋敷は目と鼻の先なので、いっしょに家に帰りました。祖母が、真っ黒なシロを見ていったいどこで遊んできたのだと呆れていました。わたしの苦労も知らずに」

 広之進さまが、叔父はガンコで無鉄砲なところがあるって言ってたのを、わたしは思い出した。

 それに、無精ひげを生やして内職をするしょぼくれた父の姿しか知らないわたしには、なかなか興味深い話だった。……なんてことを思いながら、わたしは綺羅さまが広げた丸くて大きい提灯を抱えた。何気なく、ふと、提灯の中をのぞき込むと――。

 なんとそこに、先日見た白い小犬がいつの間にもぐりこんだのか、つぶらな瞳でわたしを見上げているではないか。


                ☆


 タカが提灯をのぞきこんで「シロ!」と声を挙げたとき、綺羅之丞は嫌な予感がした。

「クゥーン」と甘えるような声、ごそごそと小さな何かが動き回る気配。

 提灯から、小さなかわいらしい白い犬の頭と耳らしきものがのぞく。

 ありえない、とにかくありえない、と綺羅之丞はめまいとともにその光景に見入った。

「いつの間に、シロ?かわいい!」

 タカがうれしそうに華やいだ声を挙げる。きっと、十代のころから冷静な人柄だったに違いない夏雪進ノ介がひどく狼狽して、自分をガン見しているのが分かった。説明を求められているのを感じ、綺羅之丞はぶんぶんと首を横に振った。

「お、俺は分からん、知らん」

 綺羅之丞はとにかくその場から逃げようとした。だが腰が抜けて動けなかった。

 ありえない、犬などぜったいにいなかった。でも提灯の中に何かいる。ありえないことが起きている。そしてタカはついに、提灯の空洞の中から白い犬を抱き上げた。先日はタカにしか見えなかった白い犬の幽霊。なぜ今日は自分も見えるのだろうか。夏雪の昔話のせいか?それともなにか他の要因が?と、綺羅之丞は何らかの法則を見出そうとしたが止めた。無意味だからである。

 シロは小さなしっぽを嬉しそうに振っている。甘えるようにクンクン鼻を鳴らす。

「ほんとにシロだ……」

 半信半疑といった体で、それでも夏雪は楽し気に「ああ、シロ。おまえはあいかわらず小さいな」とつぶやいた。そして茫然としながらも、タカからシロを受け取った。

「よしよし」

 そう言って小さな頭をわしわしと撫でる。シロはぺろぺろ、夏雪のあごをなめた。うれしくてたまらないといった様子で尻尾をちぎれんばかりに振る。

 そして、ふいっと飼い主の大きな手から飛び降りて……消えてしまった。

「あっ、シロ!行っちゃった。いつの間に来たのかなあ」

 声が出せないまま、綺羅之丞はタカを凝視した。タカは笑った。

「なんですか?綺羅さま。あんなちっちゃい犬、怖いんでしょう」

「ちっ、違う。怖くなんかない!」

 夏雪の方を見ると、無言で茫然として固まっていた。しかし、うなるように言った。

「わたしは、わたしは……江戸に行っていた際なので、シロに別れを言えなかった」

「たいへん。まだその辺にいますよ。わたし、探してきます」

 やっぱりタカはアホだ、と綺羅之丞はあきれた。「別れ」というのはシロの死に目に会えなかったという意味だろう。夏雪は居住まいをただした。そして床に手をつき深々と頭を下げた。

「綺羅之丞さま、ありがとうございました」

「礼など、言われなくてよい。俺はいま、とっても、ものすごく動揺しているのだ」

 タカは庭に降りて、花菖蒲の茂みをかきわけて、いるはずのないシロを探している。

「タカはこうして時々、幽霊をおびき出してしまう。しかも当人はよく分かっていない。礼ならタカに言われたらよい」

「いったいどういう不思議なのでしょうか」

 夏雪はつぶやく。

「タカはこの一狭間家中では死んでいるのと同じだから」

 そう綺羅之丞は考えた。でもそれは言わなかった。

「猫田家は一族、海流しの荒波村にいるはずです。どうしてタカさんだけがここにいるのですか?」

「タカが十三のとき、流刑地から出したいと猫田が願い許されたのだ。名目は母方の実家で耕作の手伝いをするためだ。タカの母の家はお百姓なのでな。しかし本当は、タカ本人が俺に会いたいと言ったらしいのだ。どうやら俺の本当の父母がどこかにいるらしく、タカはある者からそれを俺に言付され、伝えに来た」

 夏雪は驚いて言った。

「まことでございますか」

「さあな。それを俺はタカと調べている」

「わたしに話されてよろしいのですか」

「あなたが子どもの頃とはいえ、本丸御殿から小犬を盗んだと知れたら謹慎は長引くかもしれない。もちろん俺は誰にも言う気は無い」

「なるほど。ではわたしも誰にも言いません」

 夏雪は言った。タカは「シロいなかった~」と言って、戻って来た。なぜか白い花菖蒲ばかりを抱えていた。紫の花菖蒲も咲いているのに。

 夏雪はしばらく無言で考えていたが、思い出したように言った。

「猫田さんは、シロを取り返したわたしに言われました。今回は取り戻すことができたけれど、今後も白い犬を差し出せと、其方は何度も命じられる。その時其方はどうするのかと」

「……?」

「自分も何度も何度も白い小犬を差し出せと言われてきた。そのたびどうしたらよいのか、いまだに答えが出ないのだと」

 どういう意味だろう。綺羅之丞は思わずタカと顔を見合わせた。

 夏雪は言った。

「綺羅之丞さま、あなたは亡くなられた瑠那るな姫様にたいへんよく似ておいでです。お殿様の妹姫さまです。たぶんお殿様たちはフォトガラヒーで、それを知った」

 瑠那姫は、とても病弱で、どこかの大名家に輿入れするはずだったがけっきょく若くしてこの一狭間の地で亡くなった人だ、と夏雪は言った。

「一度ご法要で偶然お顔を拝したことがあります。本当によく似ておられますよ」

 そこへバタバタと、用人の綾野がやってきた。手に文を持って嬉しそうにしている。

「やっと京からお返事がきましたよ。おや、お客さまでしたか、これは失礼いたしました」

 綾野はそつなく笑顔で夏雪にあいさつをする。綾野は京の公家に和歌を習っているというのだった。文で歌を送り、添削して返してくれるのだそうだ。文を持った綾野を見て、夏雪は言った。

「わたしも、広之進と文くらいはやりとりしようと思います」

 そして、夏雪は辞去した。タカは何本か、白い花菖蒲を反故に包み夏雪に渡した。

 綺羅之丞は顔を上げた。

 御鷹屋敷を囲む土塀の向こう、広大な沼地が見えた。初夏の日差しを受けて、沼沢が銀色に光った。無数の、様々な種類の鳥が羽ばたいた。若緑の柳葉や青葦が、風に揺れる。

 

                ☆


 暑い、暑い、暑い~。

 夏雪さんの訪問から、数日後。あの後なぜか、夏雪さんからたいへん丁重なお礼状をいただいたりして、びっくりだった。そして暑い。梅雨入りしたらしくて、今日も朝から雨が降ったり止んだり。稲が育つにはグーなのだが、蒸し暑いったらない。

 「グー」というのは、えげれすの言葉で「良い」という意味なのだそうだ。綾野さんから教えてもらった。江戸から来た人はほんとに物知りだよね。私がそう言うと、なぜか綺羅さまはほんの一瞬だけ、そのつややかな唇を歪めた。

 そして本日は久々の来客である。御目付の大海原さまがいらしていた。

「蒸し暑い日に暑苦しいヤツが」と、ブツブツ綺羅さまが言う。

 大海原さまは、お殿さま用の上段の間の脇の間の上座にいた。この席が大のお気に入りで、この御離れに来るといつもそこに座る。なにしろこの人は大御目付様と胡乱改役の連絡役なのだそうだ。若くておしゃべりな方で、二千石の上士の五男、いや六男だったかな、まあどっちでもいいか。父である大海原福右衛門さまは城代家老だし、母上さまは鷺坂家という「ご連枝御一門」の人だそうな。

 家柄、見た目もとても良い美男子なのだが……。「惜しむらくはバカだ」と綺羅さまは言うんだよね。「胡乱改役は別に仕事なんて無い。その連絡役なんて、どうでもいい仕事に決まってる」と綺羅さまは言うのだが。

「大海原求馬は、大御目付の間の詰め衆なのだ。つまり、十代の時の夏雪と同じ役職に二十五になってもまだ就けられているのだ。要するに無能ということだ」

 綺羅さまはほんとに意地悪い。

 上等な着物を着てふんぞり返っている大海原さまに対し、綺羅さまは下座に、牡丹の花のように静かに座っている。

「瑠那姫さまかあ」とわたしはつぶやいた。もちろん、心の中で。

 夏雪さんが言った通り、綺羅さまとその姫君様が似てるってことは、叔母上さまに似たってことになるよね。となると、綺羅さまはやっぱりほんとうは御前さまのご子息、若様なんじゃないのだろうか?だとすると、大海原さまと立場が逆転するのになあ。けどこの件に関しては綺羅さまが、「分かっていることが少なすぎるので何も言えない」としか言わない。

 で、大海原さまだが。わたしの観察するところ、綺羅さまが「分からない」、「知らない」と言うとすっごく喜んで、饒舌になる。

 今日も、「綺羅、おまえが知らない、分からないと書いてよこしたから、こうして教えに来てやったのだ」というようなことをひとしきり大海原さまは述べた。どうやら綺羅さまは夏雪さんのことを大海原さまに聞いたみたい。もちろんシロの話は省いたらしい。

「夏雪進ノ介、謹慎前は鈴風壱右衛門。たしかに留守居役様の配下の一人として江戸詰めをしてた。その後、信濃一狭間領の郡奉行になったのだ」

「信濃一狭間領。越後一狭間領と並び飛び地だらけの我がご家中では広く米も多くとれるところ。御譜代松平様、飛騨天領と境を接する」

 綺羅さまがつぶやく。

「そうなのだ、とっても気が張る場所なのだぞ。一狭間で出世するヤツはたいてい若い時そこの郡奉行を仰せ付けられる。それなのにご政道を批判する上書じょうしょなんてするから。これだから己の才のみを頼む者はいかん」

「上書の内容はなんだったのですか?ああ、さすがのあなたもご存じありませんか」

 淡々と綺羅さまが聞くと、クククと、大海原さまは変な笑いをその男前な顔に浮かべた。

「知ってるぞ。聞きたいか。でも言ってはいけないんだよなあ、どうしようかなあ」

「では聞かないことにいたします」

 綺羅さまが無表情にそう言うと、大海原さまはものすごーく残念そうな顔をした。綾野さんがすました顔でお茶を出す。

 数刻の後、「おおまかに言うとだな」と大海原さまは問われてもないのに話し出した。

「上書で郡奉行の非を鳴らしたのだ。奉行は二人いて夏雪は若年なので副頭だったのだ。信州一狭間領が大水害で不作となってな、年貢減免ということで大庄屋たちと相談がついたのだが、実はそれはその場をいったん納めるための口約束だった。減免と認めてしまうと、百姓どもはゆるんで良い気になり耕作に励まなくなるからな。そしてその後、いつも通りの年貢を納めよという触を奉行名で出したので、一揆が起きそうになったのだ」

「よく分かりませんが、そもそも口約束がだめだったのでは」

「ふふん。よく分かってない者の言う言葉だな、それは。御頭さま、ダメなのでございますよ」

 どうも大海原さま、話を聞いてるとむかつくんだよね。言葉が軽いっていうかね?でも上士だから我慢しなきゃね。

「お触れは重きもの、撤回など有りえない。で、一揆は起きそうになるし、年貢は未納が多いし、大庄屋たちが管理不行き届きということで罰せられたのだ。ところが夏雪のやつ、これは自分たち奉行側が悪いと上書したのだ」

「よく知らないのだが、だめなのですか」

「奉行側が悪いというのは、すなわち殿様がまちがっていたと言うことになるではないか。だめに決まってるだろう」

 綾野さんがわたしに、「タカさん。申し訳ないですが、大海原さまにお菓子を持っていってください」とお盆を手渡した。言われるままに進み出ると……。

「あっ!猫田の娘!」

 大海原さまはぎょっとした顔でそう言って、わたしの方を見ないようにカクカクと妙な動きで立ち上がった。いつもいつも、大海原さまはわたしを見るとこんな調子なのだ。まともにごあいさつができたためしがない。

「帰る」と言って大海原さまは帰ってしまった。

「大海原さまはいつも、タカさんを無視しようとするあまり変な動きになりますよね」

 綾野さんはそう言ってほほ笑んだ。

 綺羅さまはお菓子を持って無言で縁側に行き、ゴロゴロといつも通り書見しはじめた。

 大海原さまが話してた夏雪さんの話、なんだか難しい話だった。お殿さま、いつか夏雪さんをお許しにならないだろうか。

「そう、いつか」

 綺羅さまがつぶやいた。

 綺羅さまはいつも、わたしが何を考えているのか分かってしまうみたい。

 その言葉の続きを聞くために、わたしは今日も綺羅さまの横で耳を澄ます。


                               (終わり)

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キラホリック1 摩頂みなみ @minahori

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