患者失格「太宰治さま、ご免なさい」

雨 杜和(あめ とわ)

『患者失格』・・太宰治さま、ご免なさい

 

 もう、何年になりましょうか……


 私は武蔵野の、三鷹の、玉川上水の、タバコ屋をちょっと右に入った横丁の長屋に住み、3年も過ぎた頃でしょうか。


 朝、いつものように目覚め、それから、スウプをひとさじ、すっと掬い、「あ」と、叫び声をあげたのでございます。


 親知らずが、スウプの熱でひどく痛みました。まるで地獄で焼かれるかのような痛みなのです。


 この一週間というもの、私は歯の痛みを存外に無視することができたのですが、今朝のスウプで、これはもう、これ以上は無理と限界というものを思い知りました。


 こうなっては仕方がございません。

 観念するしかありません。


 私は三鷹近くに昔からある歯科医院へ徒刑者のごとく向かったのでございます。


 そうして、歯科医の診察台で、私は笑顔を浮かべていたのです。

 その顔を見みて、


「かわいい人ですね」


 と、いい加減なお世辞を言っても、まんざら空お世辞には聞こえないくらいの、いわば通俗の「かわいらしさ」みたいな影も、私の笑顔にないわけではないのですが。


 まったく、私の笑顔には、よく見れば見るほど、何ともしれず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられます。


 どだい、それは笑顔ではありません。

 私は少しも笑ってはいないのです。その証拠には、私は両方のこぶしを固く握ってすわっています。


 人間は、こぶしを固く握りながら笑えるものではないのであります。


 ジョーカーの笑顔でございます。顔に張り付いたジョーカーの笑顔。口元を左右に押し上げ、ただ、顔に醜いシワをよせているだけなのであります。


「じゃあ、お口を開けていただけますか」


 年老いた歯科医が柔らかい声で告げました。


 私の歯科医への恐怖は、それは以前に勝るとも劣らぬくらいはげしく胸の奥で蠕動ぜんどうしていましたが、しかし、演技としての態度は、実にのびのびとしていて、もはや、自分の恐怖を完全に隠蔽いんぺいし得たのではあるまいか、とさえ思っておりました。


「さあ、お口を」


 老医師は曖昧あいまいな微笑を口元に浮かべながら、一向に口を開けない私を持て余すかのように、あるいは、こうしたことは日常かのように、麻酔注射器を手に待っております。


「怖くはありませんよ」


 その言葉を聞いて、私は震撼しんかんしました。


 よもや歯科医が怖いなどと、人もあろうに、その歯科医自身に見破られようとは全く思いもかけないことだったからです。


 私の世界は一瞬にして地獄の業火ごうかに包まれ燃え上がるのを眼前で見るような心地がして、わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。


 生真面目きまじめに告白すれば、歯科医の言葉に私は不安でたまりませんでした。


 ふっと思わず重苦しいため息がもれ、何をしたって、結局、歯科医の思うとおりになると思うと、額にじっとりと油汗がわき、狂人みたいに妙な目つきで歯科医をにらんでいたのです。


 私は俗にいう「わがままもの」なのか、またはその反対に、「気が弱すぎる」のか。自分でも訳がわからないのですが、ともかく、口を開けることができず、罪悪のかたまりと化しておりました。


 歯科医は目を見張き、私の決して開かぬ口元を凝視しております。


 驚愕の色も嫌悪の色もなく、ほとんど救いを求めるような、慕うような色があらわれておりました。

 ああ、この人もきっと不幸な人なのだ。不幸な人は、ひとの不幸に敏感なものなのだと思ったとき、私は観念して、口を開きました。


「じゃあ、少し痛みますからね」

「はぐっ」


 その痛みは少しどろこではなく、脳天を突き刺す痛み。それは想像以上のものがあったのです。あながち、私の恐怖は間違ってはいなかったのです。


 歯科医は容赦ありません。

 柔らかな態度の奥にトラを飼っていたのです。


 麻酔がきいた頃合いに、歯科医は異様に頑丈そうで、太い先端を持ったペンチを取りあげました。心なしか微笑みさえ浮かべ、私の口に向かって入ろうとしています。


 地獄。


 この地獄から逃れる最後の手段、これが失敗したら、あとはもうない、という神の存在をかけるほどの決意をもって、私は歯科医に向かって、自分の気持ち、いっさいを訴えました。


「先生、もう少しだけ、もう少しだけ。気持ちが、歯を抜くための覚悟のために、猶予をお願いできませんでしょうか」

「猶予と申しましても、待ちすぎて逆に麻酔が切れでもしたら、薬の量が増えるばかりで良いことはありませんよ」

「そこをなんとかごまかして、頼みます、先生。キスしてあげます」


 歯科医は顔を赤らめ、それから、怒ったような表情を浮かべました。


「いいですか。待っても同じことです。さあ、もう一度、大きくお口を開けてください」


 死にたい、いっそ、死にたい。死ななければならない。生きているのが罪の種なのだ、などと思いつめても、歯科医はただそこにおります。


 大きなペンチ状の器具を掴むとまるで運命のように向かって来ます。


 神に問う。信頼とはなんぞや。


 このような状況で、歯科医を信じられるほど、私は恥の多い人生を送ってはいません。


 先生、助けてくれえ、と叫びそうになりました。


 私は死ぬのは平気なんだけど、痛みや、まして出血するなど、まっぴらごめんのほうですので、先生に向かって、ひたすら、「痛い、痛い」と訴えました。


「まだ、なにもしていませんよ、ほら」と、歯科医は器具を眼前にぶら下げました。

「大丈夫です。麻酔がきいていますから、痛いはずはありませんよ」


 神に問う。抵抗は罪なりや?


 判断も抵抗もわすれて、私は歯を、ほとんど残骸になった親知らずを抜かれようとしています。


 歯科医は申しました。麻酔で痛みはないと。なんという滑稽、なんという欺瞞。

 私は筆舌に尽くしがたい痛みを感じているのです。


 そのとき、天啓のように私は悟りました。歯医者は道化です。それも、嘘つきの道化です。

 麻酔がきいて痛みはないなど、それは道化の言葉でしかありませんでした。


 痛みは、もう我慢の限度をはるかに超えております。私はついに最後の抵抗を試みました。


「もう少しですから、隣の小学生の坊やでも耐えられたんです、がんばってください。もう少しです」


 私は歯科医の腕を持って、やめさせようとしていたのです。


「危険です。手を離して」


 相手の心にも自分の心にも、永遠の修繕し得ない白々しいひび割れができるような、そんな恐怖に私はおびやかされていました。


 この歯科医も、隣で治療後の小学生も、幸福なんだ。


 私は座席から立ち上がり合掌したい気持ちでした。この苦難から逃がれることができない、そんな追い詰められた気持ちでした。


 その時、自分を襲った感情は、怒りでもなく、嫌悪でもなく、また、悲しみでもなく、純粋な痛みに対する恐怖でした。


 涙目になりながらイヤイヤをする、その姿は、もはや完全に、人間ではなくなっていたのです。


 歯科医にとって、これほどの抵抗を試みた患者はなく、私は狂人の烙印を押されました。ついには狂人となりました。


「ああ、死ぬところでした」

「そんな大げさな」


 すべてが終わったとき、私の口から思わず言葉が漏れていました。


 そして、いまの自分には、幸福も不幸もありません。


 ただ、いっさいは過ぎていきます。


 私が阿鼻叫喚あびきょうかんで行った歯科医は、いわゆる「人間」が行くところであり、私のようなものが行くところではなかったのです。


 その歯科医の1日で、私の髪には白いものがめっきり増えました。


 家族から、急に10歳は老けたと言われております。


 『患者失格』


 それが、私に下された神からの烙印なのです。

 (了)


 ・・・・・・・・・・・・・


(太宰治ファンの皆様。不快な、および失礼がございましたら、ひらにひらにご容赦ください。私も太宰ファンとして、長年、彼の小説および彼について書かれた評論等、すべて読んで参ったファンです。どうぞ、ご寛大なお心でお許しくださいませ)

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患者失格「太宰治さま、ご免なさい」 雨 杜和(あめ とわ) @amelish

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