腐った実が陥ちる

猫村まぬる

腐った実が陥ちる

 歩道に立ちどまって、大統領府にひるがえる黄色い旗をしばらく眺めた。

 これで見納めかもしれない。忠誠心も愛国心も無いつもりだけど、赤い旗が好きなわけでもない。

 どんよりした眼の衛兵が、ライフルをぶらぶらさせながらこっちをじっと見ていた。僕は首を振って、夜の大通りを歩き出した。大荷物を積んだリヤカーや、政府軍の敗走兵を乗せた軍用トラックがひしめき合う道を、行き交う人の肩に何度もぶつかりながら、酔いのせいでひどくおぼつかない足取りで。

 高級ブランドや貴金属を扱う店はもう全てシャッターを下ろして店じまいしていた。懐かしい店ばかりだ。どの店を見ても、何か買ったことがあるような気がする。

 そうだ、そこの角の、エクリュだかブリュだかというフランス語の名前の店で、誰かに指輪を買ってやったような記憶がある。アオザイを着た女の子に。あれは誰だっただろう。忘れてしまった。どこかの店の、何とかという名前の女の子だ。いくつかの顔が重なり合いながら脳裏をよぎったが、誰がどの店の誰なのか、結びつけるものは僕の頭の中にはもう残っていなかった。

 彼女たちはどこへ行ったのだろう。どこかから航空券をせしめて国を出て行っただろうか。ヘリに拾われて、いまごろは沖の軍艦の船倉に詰め込まれているのだろうか。それとも、とっくの昔にデルタかどこかの田舎町にでも帰ったのだろうか。分からない。Where have all the flowers gone? この先知ることもないだろうな。

 洗いざらしの擦り切れたシャツに身を包み、なけなしの財産を詰めたスーツケースをかかえて、不安な面持ちでさまよう下町の住民たち。はじめから失う物などない物乞いの少年たち。ウイスキーのボトルを手に交差点につっ立っている野戦警官。おろしたての白い麻のスーツにネクタイ姿の僕は、人波の中でひどく目立っていただろう。どこからか僕を冷やかすような声が聞こえた気もしたが、酔った意識には届かなかった。ポケットに財布が残っているかどうかすら、どうでもよかった。何百ドル持っていたところで、明日にも使えなくなるかもしれないのだ。

 今日はひどく蒸し暑い。どこかで子供が泣いている。テレビでミン大統領が何かしゃべっている。怒鳴りあっている連中がいる。市の連中がゴミの回収をやめてしまったせいで、蝿や蚊や、ついでにアメ公のヘリもぶんぶんとうるさい。しかし、なによりも砲声がうるさくて、たまったものじゃない。ぼんやりとした頭をかき乱す。腹の底から響いて来る。

 もはやそれは首都を四方から取り囲んでおり、しかもその輪が次第に狭まりつつあることは、兵役を経験していない僕の耳でも分かった。ダナンが落ちてから一ヶ月しか経っていないというのに、僕の祖国はもはやその小さな輪の中にしか存在しなくなっていた。

 急に怒りが込み上げてきて、僕は口に出して毒づいた。畜生。薄汚れた政治屋どもめ、愛国者面をして反共だ自由だと吠えていたくせに、修羅場をミンひとりに押しつけて尻尾を巻いて逃げやがった。こんなどうしようもない国から搾り取れるだけ搾り取って。ツケぐらい払ってから消えろってんだ。この僕だって、酒場のツケを払わなかったことは今まで一度も無いんだ。

 また砲声が続いた。何発かは遠くない場所に着弾したようだった。いっそのこと、今すぐここに落ちやがれ。蝿や、蚊や、泣いてる子供もろとも、僕を吹き飛ばしてくれ。

 河岸のほうで上がった数発の照明弾の光が、通りを染めた。照明弾の数だけ、重なり合って僕の影ができる。昼間と同じ街並みが青白く浮かび上がる。ほんの数週間前までこの通りを満たしていた洗練された雰囲気の、その亡霊が現れたように思えた。家並みの間から見えるカトリック聖堂の塔がやけに白い。

 そのとき僕の目に、ホテル・ヴィル・ヌーヴの看板が入ってきた。

 そうだ。たしかあそこには、最上階から街を見下ろせる涼しいバーがあったはずだ。こんな蒸し暑い、虫どもがうるさい夜に、よく冷えたカクテルを飲むというのは悪くない思い付きだった。今夜なら、ひとつの共和国の滅亡という世紀のショーまでおまけについてくるかもしれない。南ベトナム最後の夜。こいつはそうそう見られるものじゃない。

 思いがけないことに――いや、酔った頭ではさほど意外でもなかったのだが――ホテルのドアは簡単に開いた。ロビーの明かりもついていた。いつもの初老のドアボーイが僕に一礼した。

「いらっしゃいませ、ムッシュー・グエン」

「やあ、バーは開いてるかい?」

「申し訳ございませんが」ドアボーイは眉を曇らせた。「エレベーターが止まっておりますので、バーまでは階段をご利用いただけますでしょうか」

「じゃあ飲めるんだね」

「当ホテルのバーに休業日はございません、ムッシュー。ただ、エレベーターのことではご不便をおかけしまして申し訳ありません」

「気にするなよ。酔いざましにはちょうどいい」僕はドアボーイの肩を叩いた。「君にまた会えてうれしいよ」

「わたくしも――」と言いかけて、ドアボーイは急に泣きそうな顔になった。「――ふたたびお目にかかれるとは思いませんでした」

 僕はドアボーイに手を振って、フロントの横の階段を上がっていった。階段の明かりはすべて消えていた。踊り場の窓から、照明弾の光が強まったり弱まったりしながら、サーチライトみたいに下から上へ古びた壁を照らし出していた。何度か、建物全体を揺るがすような砲声が響き、僕はそのたびに階段を踏み外しそうになって舌打ちした。

 五階にたどりつくまでに、ずいぶん汗をかいた。実際いくらか酔いがさめてしまったようだ。これは飲みなおさなきゃ。そう思いながら僕はバーのドアを押した。

 暖かく、控えめな色の照明。天井でゆったりと回る扇風機。レコードプレイヤーからはチン・コン・ソンか何かの甘ったるいメロディー。バーは二か月前に来た時と何も変わっていなかった。僕が足を踏み入れた瞬間に、遠くで着弾したロケット砲の火球が店内を明るくした。客は一人もいなかった。まあ、この時間なら珍しいことじゃない。

「いらっしゃいませ、ムッシュー」若いバーテンダーがぼくに微笑んだ。「いつもの席になさいますか?」

「今日は景色が見たいな」と僕は言った。「窓の近くのテーブルに行くよ。飲み物はいつものでいい」

「申し訳ありません、あいにく、ライムを切らしておりまして……」

「何が出来るのか、って聞いた方が早いのかな」

「恐れ入りますムッシュー。ビールならご用意できますが」

「仕方ないね。腹がふくれるから嫌なんだが」

 僕は大きな窓のそばの椅子に座って、外を眺めた。対空射撃の曳光弾が暗い空に幾筋も飛び交っていた。政府軍だって何もしていないわけじゃないらしい。そりゃあまあ、そうだろう。アメリカさんからあれだけお餞別をもらったんだ。多少の悪あがきをする程度の貯金はあるはずだ。まったく、持つべきものは良き友だね。

「お待たせしました」

 瓶とグラスを持ってきたのはバーテンじゃなかった。白いアオザイに身を包んだトランだった。それで僕は、自分が誰よりも会いたかったのは彼女だったのだと思い出した。本当にそうなのか分からないけど、そう決めることにした。そう思ってるほうが楽しいじゃないか。今となってはどっちでも同じだ。

「トラン、君も飲むといいよ。一緒に夜景を楽しもう」

「ありがとう。機嫌がいいのね」

 トランは一旦カウンターに戻り、もう一本のビールとグラスを持って来た。そして僕の向かいに座った。

「乾杯しよう」と僕は言った。「ベトナム共和国に!」

「……ベトナム共和国に」

 そして僕らはグラスを合わせた。ぬるいビールだった。こんな夜だ。まあ、ぜいたくは言うまい。

「もう来ないと思ってたわ」とトランが言った。

「プレゼントのことで言い合いをしたからかい? よせよトラン、僕はそんなに心の狭い人間じゃ……」

「バカね。冗談言ってる場合?」

 トランの眼が真剣だったので、僕はちょっと酔いがさめてしまった。

「そんな顔するなよ。可愛くないな。おふくろみたいだ」

「とっくに飛行機に乗ったと思ってたわ。あなたなら航空券なんて簡単に……」

「見ろよ、空港がまだ燃えてる。石油の高いご時世だってのに、もったいないな、まったく」

 ぼくはタンソンニャットの方向を指差して言った。うす赤い光が見える。本当にそれが燃えている空港なのかどうかは分からない。でも空港が陥落したことは誰でも知っている。

「アメリカ大使館へ行かなかったの? グエン上院議員と一緒なら、空母にだって乗せてもらえるかもしれない」

「親父なら、もうおふくろや兄貴たちとロスアンゼルスに着いてるころさ。僕が見つからないからって、探しに戻るような人たちじゃないからね」

 僕はビールをぐいと喉に落として、グラスを置いた。

「話を変えてもいいかい、トラン? そんな話じゃビールがおいしくないよ」

「いいわ」トランはため息をついた。「何の話をしたいの?」

「海へ行きたいね」と僕は言った。「ニャトランでも――ニャトランはもう北軍に取られたんだっけ? まあ、どこでもいいや。どこかビーチへ行って、もっと冷えた飲み物を飲む。この際だから、ビールでもいい。ぜいたくは言わないよ。君はどう?」

「あたしは嫌い。陽に焼けるもの」

 照明弾がバー全体を真っ白にした。壁にシミがあるのが見えた。トランは赤い目をしていた。バーテンダーが追加のビールを持ってきた。

「じゃあトラン、映画は好き?」

「そうね。フランス映画なら」

「フランス映画は僕も好きだよ。よし、今度一緒に行こう。ただ、上映前にニュース映画が入るのだけは何とかならないのかな。あれ、時々うちの親父が映るんだ。これから映画を楽しもうって時にさ、見たくもないよ」

 トランはくすくすと笑った――のだと思う。すすり泣いているように聞こえないでもなかった。

「ビーチが駄目なら高原はどうだい。ダラットに親父の別荘がある。子供のころからいつも遊びに行ってた。親父もおふくろもアメリカに行っちまったし、君を連れて行ったって、もう誰にも文句を言われないよ。良いぜ、涼しくて。フランス人が置いていったワインのコレクションもある。たしかうちのガレージにまだプジョーが一台残ってたから……。待てよ、ダラットも陥落したんだっけ?」

「そうみたいよ。だけど、どちらにしてもそんなに酔ってちゃ運転できないわ」

「どれもいいワインだったんだ。味の分からない北部の田舎連中にはもったいない」

「どうせならうちの店にゆずって欲しかったわ。北の将校さんたちにここで祝勝会を開いてもらえたのに」

「それもそうだね」

 ぼくがうなずいたのと同時に、強い閃光が部屋を満たした。ほぼ同時に地響きがグラスを震わせ、レコードの針が飛んだ。窓ガラスにぱらぱらと砂粒のようなものが当たる音がした。「今のは近かったですね」バーテンダーが走ってきて窓の外を見下ろした。何百メートルか先の街区が赤い炎に包まれていた。

「ロケット弾だ」僕は舌打ちした。「貧乏性だな、北の連中は。明日には全部自分たちのものになるっていうのに、待ちきれないのか」

「そうよ。待ちきれないの」とトランは言った。「わたしも農家の娘だから、分かるわ。いま食べないと誰かが食べちゃうんじゃないかって心配なのよ。だからあの人たちは共産主義者になるの」

「今までに僕が聞いた中でいちばん優れた政治理論だよ、トラン。おかげでやっと――」

 ぼくが会心のジョークを言い終えるのを待たずに、トランが口を開いた。

「これからは、あなたのお父様たちの代わりに、あの人たちがこの国の主人になるのよ。あなたそんな人たちとうまくやっていける?」

「今の僕には無理だけどね」笑いがこみ上げてきて、僕の口から漏れた。「あちらさんの方で再教育キャンプに入れてくれるさ。キャンプって好きだよ。アメリカに一年間留学してたことは言ったっけ? あのときはよくキャンプをしたな。誰とだって友達になれる。たぶんベトコンとだって」

「あなたバカよ。どうして逃げなかったの? ……きっと殺されるわ」

 今ではもうはっきりしていた。トランは泣いていた。バカな僕のために? この腐った首都のために? 空っぽの共和国のために? ――まあ、いいや。どれだって同じだ。この国はこの街であり、そしてこの僕なのだ。民族を育んだ土を離れ、アメリカから降ってくる金と、同胞の血によって、醜く、幸せに育ったこの僕なんだ。

「ありがとうトラン」

 肩を震わせているトランの手に、僕は軽く触れ、そして離した。

「やっぱり、少しだけ一人にしてくれないかな。三十分でいいよ。一人で飲みたいな」

 トランはうなずいて立ちあがった。

「ねえトラン、このバカ騒ぎが落着いたら、ほんとに二人でどこかへ遊びに行こう」

「そうね。もし行けるなら……」トランは僕に背を向けて、ちょっと肩を上げた。「……ビーチでもいいわよ、別に」

 カウンターへ去って行くトランの細い後姿を、照明弾の光が純白に浮かび上がらせた。それは僕の眼に焼き付いて、いつまでも消えなかった。トラン、君に指輪をあげたことがあったっけ?

 僕はひとりで飲みつづけた。酔っているんだ、涙が出ていたとしても不思議は無い。ぼんやりと光がにじんだ断末魔の首都を見下ろしながら、僕はひとりで飲みつづけた。

 僕はこの腐った街が好きだった。この街の夜、柔らかいユエ訛りの女の子、歌、ダンス。烏のようなヘリの群れ。正気を失ったように陽気な米軍将校や、人殺しの眼をした報道カメラマン。ショロンの胡散臭い金持ち華僑たち。ナパームと照明弾。名前は忘れたけど、フォアグラのおいしい、テロで吹き飛んだレストラン。くたびれたフランス女。坊主のバーベキュー。雨のように降り注ぐ酒と、あふれかえる援助資金。南ベトナム、サイゴン。腐った果実の甘い匂い。このどうしようもない国のどうしようもない首都で、偉大なる「民主主義」の庇護の下にあって、同じ肌の色をした何百万の苦しみの上で、徴兵逃れの馬鹿なお坊ちゃんと呼ばれながら、ぼくは楽しかった。この上なく幸せだった。アメリカ? 亡命政府? 馬鹿言え。あの父親と一緒に、今まで以上に乾いた嘘の中で生きろって言うのか。嘘の国で、嘘の人生を二十五年も生きたんだ。もうこれで充分じゃないのか。

 僕はグラスを手に、窓に向かって立った。色とりどりの光が首都の上を飛び交っていた。北軍の将兵諸君、さあ、こっちを見たまえ、僕を撃ってくれ。解放戦線の同志たちよ、僕は君たち農民に借りを返さなきゃならない。昔集めたビートルズのレコードは全部、君たちに進呈しよう。ハノイで流行らせてくれ。プジョーのキーはどこに置いたんだっけ? 見つけた奴にやるよ。あれは悪くない車だぜ。

 僕は知ってるんだ、君たちは正しい。だけど僕は君たちの同志にはなれないだろう。僕は何百万人もの君達の血をすすって生きてきたのだ。それに、君たちのテーブルマナーには我慢がならないよ。でも君たちには、この腐敗しきった首都ともども、僕を吹き飛ばす権利がある。義務がある。トラン、君でもいい。君が僕を終わらせてくれるなら――。

 目の前が明るかった。今までに一度も見たことが無かったほど強い光だった。そしてその光は、いつまでも消えないのだ。


 分かるだろう、トラン、僕はこの国の湿った空気が好きなんだ。この空気の中では、何もかもが甘い匂いを放つんだ。


(了)

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