エピローグー解き放たれてー
それから間もなく木場は取り調べ室を後にした。淵川達と入れ替わりで部屋を出ていく時に振り返ると、藍沢は沈痛な面持ちを浮かべてうなだれていた。最初に見たときよりも強く、深い悔恨がそこには浮かんでいるように感じられた。最も、それは木場自身の願望でもあったのだが。
ガマ警部と並んで廊下を歩きながら、木場は今回の事件を思い返していた。岸壁の屋敷、裏表のある住人達、犯人の隠された過去。様々な人物の思惑が絡み合う中で、事件は思いも寄らぬ展開を見せていった。結果的には自分が事件を解決したことになるのだろうが、木場はどこかすっきりしない気持ちでいた。
「どうした?事件を解決したってのに、いやに浮かない顔をしてるな。」ガマ警部が木場の心境を読み取ったように尋ねてきた。
「いや…、その、確かに犯人は捕まりましたけど、本当にこれでよかったのかなって…。」
「何を言ってる。お前がいなかったら、あの娘は父親殺しの罪を一生背負っていくことになっていたんだぞ。これは間違いなくお前の手柄だ。」言葉とは裏腹に、ガマ警部がぶすっとしながら言った。
「ええ、それはそうなんですけど…。結局、誰が悪かったのかがわからなくなってしまって…。藍沢誠二もある意味では被害者だったわけですし…。」
「おい木場、あの娘の次は藍沢に入れ込む気か?どんな理由があろうが罪を犯していい理由にはならん。奴は越えてはならん一線を踏み越えた。だから奴は法の裁きを受ける。当然のことだ。」
「そうですよね…。」
木場はそう言いながらもどこか釈然としない気持ちでいた。これが小説ならば、犯人が捕まって一件落着で終わる。だが実際には犯人にもその後の人生がある。藍沢はこれからどんな人生を歩んでいくのだろう。きっと楽な道のりではないはずだ。一度は憎しみすら覚えていたはずの相手なのに、あの最後のやり取りを思い返すと、不思議と藍沢に同情する気持ちが沸いてくるのだった。
「おい木場、それよりお前には、もっと大事なことがあるんじゃないのか?」
ガマ警部がそう言って前方に顎をしゃくった。木場は顔を上げたが、そこにいる人物を見た途端にはっとした。取り調べ室から出てきたらしい霧香が、警官二人に向かって深々と頭を下げていたのだ。警官達は軽く頷くと、そのまま彼女を置いて廊下の奥へと歩いていった。
「霧香さん!」
木場は思わず叫んでいた。霧香が驚いた様子でこちらを振り返る。木場は夢中で彼女の元へ走っていった。
「霧香さん…、よかった、釈放されたんですね!」木場が顔を綻ばせながら言った。
「ええ、おかげさまで…。本当に、刑事さんには何とお礼を言ったらよいか…。」
霧香が笑みを浮かべ、心から安堵したように言った。久しぶりに見た彼女の笑顔に、木場は胸が熱くなるのを感じた。
「…誠二さんのことは刑事様から聞きました。罪を認められたそうですね。」
「ええ…、さっき自分も話をしてきました。あの人は後悔しているようでしたよ。宗一郎さんの命を奪ったことも、…あなたを利用したことも。」
木場はせめてもの慰めのつもりで言ったが、霧香は虚ろに微笑んで見せただけで何も言わなかった。もし藍沢が霧香のことを今も愛していると知ったら、霧香はどんな反応をするのだろう。あんな目に遭った今でもなお、彼と共にやり直したいと願うのだろうか。
「あの、霧香さん。これからどうされるつもりなんですか?」
「そうですね…。あの屋敷に戻ることになると思います。まぁ…、私の帰りを待っていてくれる人はもういないのですけれど。」
霧香がそう言って寂しげに笑った。木場は胸が締めつけられるような思いで霧香を見つめた。そうだ、このまま彼女を帰したところで、あのろくでもない屋敷での孤独な生活に戻ってしまうだけだ。何かないのだろうか。刑事としは半人前でも、霧香を想う気持ちだけは誰にも負けない自分がかけてやれる言葉はー。
「霧香さん。自分、一つ思ったことがあるんですが…、無理にあの屋敷に戻らなくてもいいんじゃないでしょうか?」
霧香がきょとんとした顔で木場を見返した。木場は霧香はまっすぐに見つめると、一気に言った。
「あなたはあの屋敷にしか自分の帰る場所はないと思っているのかもしれない。でもそんなことはありません。あなたはずっとあの屋敷で、宗一郎さんの意に添うように生きてきた。宗一郎さんが車椅子生活になってからは、自分を犠牲にしてずっと父親のために尽くしてきた…。でも宗一郎さんはもういない。だったらこれからは、もっと自分の人生を歩んだっていいんじゃないでしょうか?あなたは今までたくさんのものを失ってきた。婚約者を失い、お父さんを失い…、自分はもう二度と幸せになんかなれないと考えているのかもしれない。でもそうじゃない。霧香さん、あなたはまだまだ若い。これからいくらだってやり直すチャンスはあるんです。」
それは木場の心からの言葉だった。霧香を襲った運命はあまりに非情だった。肉親を失い、最愛の人には裏切られ、絶望のあまりいっそ死んでしまいと思ってもおかしくはない。それでも、木場は霧香に生きていてほしかった。彼女の人生に再び希望の光が灯るその日まで、自分が傍で支えたいとさえ思ったくらいだ。でもそこまでは言わなかった。所詮自分はしがない刑事。彼女を支えるにはあまりにも力不足だ。それに、こんな不愉快な事件の記憶と結びついた自分の存在など、さっさと消してしまった方がいい。
「刑事さん…。」
木場を見つめる霧香の瞳がみるみる大きくなっていく。その瞳がかすかに潤んだような気がした。
「ありがとう…、ございます…。」
涙を堪えるようにして霧香は微笑んだ。それはまるで、籠の中に閉じ込められていた蝶が解き放たれ、初めて広い世界に飛び立っていったような、そんな晴れやかで美しい笑顔だった。
入口まで霧香を送っていくと、屋敷からの迎えの車はすでに来ていた。光沢のある黒のリムジンの横で、初老の運転手がかしこまった格好で立っている。霧香がその傍まで行くと、白手袋をはめた運転手が恭しく扉を開けた。車に乗り込む直前まで霧香は何度も木場とガマ警部に頭を下げ、車が発進してからもまだ振り返って窓からこちらを見つめていた。そんな彼女の姿を木場は名残惜しそうに見つめた。
「…よかったのか?」ガマ警部が前を向いたまま尋ねた。
「何のことですか?」
「あの娘のことだ。あそこまで言ったのなら、もう一言加えてもよかったんじゃないのか。『これからは自分があなたを支えます。』とか何とかな。」
木場はびっくりしてガマ警部の顔を見た。特段面白がっている様子でもないが、自分の考えることなどお見通しというわけだ。木場は顔が赤くなるのを感じたが、気を取り直すように咳払いをした。
「…自分は別に、そんな下心があって霧香さんを助けたわけではありません。もちろん、霧香さんはとても魅力的な女性だとは思いますが…。」
「だったら尚更あのまま行かせてよかったのか?あの娘はお前に命を救われたんだ。お前の方に心が向いていたっておかしくはない。捜査の時はあれほどあの娘にこだわっていたのに、なぜそうもあっさりと手放せるんだ?」
ガマ警部は本気で不思議がっているようだ。木場は苦笑を漏らすと、遠い目をして言った。
「…確かに自分があの場でもっと押していれば、霧香さんは振り向いてくれたのかもしれません。でも霧香さんには、自分や藍沢なんかよりもっとふさわしい人がいると思うんです。自分には、藍沢や灰塚先生みたいな男としての魅力はありませんし、刑事としてもまだまだ半人前です。今の自分じゃ霧香さんを幸せにすることは出来ない。だから…、自分はこのままでいいんです。」
「…ふん、随分殊勝なことだな。まぁ、お前らしいと言えばらしいがな。」
ガマ警部はそう言うとコートのポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけて口に加えた。煙が静かに宙を上っていく。
「俺も長年刑事をやっているが、お前みたいな奴は初めてだ。現場でははしゃぎ、関係者にはナメられ、一人の人間に入れ込んだ挙げ句、勝手に鑑識を使って捜査を進めた…、本当ならクビになっていてもおかしくないんだぞ。」ガマ警部がじろりと木場を見やった。
「す、すみません…。やっぱり自分、刑事には向いてないってことですね…。」
木場が叱られた子どものようにしゅんとなった。ガマ部は大げさにため息をつくと、ぽつりと言った。
「…だが、真相に辿り着こうとするお前の執念が、この事件を解決に導いたことも事実だ。お前は確かに半人前だが、持っているものはそう悪くはない。もう少し経験を積めば…、まぁ、人並み程度にはなれるかもしれんな。」
「ガマさん…。」
木場が肩を震わせてガマ警部を見つめた。感激のあまり今にも泣き出しそうだ。
「…さすがに腹が減ったな。何か食いに行くか。」
ガマ警部はぶっきらぼうに言うと、木場の返事を待たずにさっさと歩き出した。
「はい!」
木場は大きく頷くと、忠犬のようにガマ警部の後を追いかけていった。童顔にして実直、単純にして猪突猛進、そんな刑事らしからぬ新米刑事の物語は、まだ始まったばかりだった。
【旧版】岸壁の令嬢 瑞樹(小原瑞樹) @MizukiOhara
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