一年前の悲劇

 ガマ警部と別れ、木場は一人霧香の部屋の前まで来ていた。大きく深呼吸をし、扉を二度ノックする。しばらくして、霧香の消え入りそうな声が聞こえた。

「木場です!あの、霧香さん。すみませんが、もう一度お話を聞かせていただけないでしょうか!?」

やや間があって、どうぞ、という返事が聞こえた。木場は緊張した面持ちで扉を開いた。中に入ると、霧香が椅子に身をもたせてぐったりとしているのが見えた。木場が部屋を出て行った時とほぼ同じ体勢だ。

「あの、すみません。お疲れのところ、何度も押しかけてしまって…。」木場が申し訳なさそうに言った。

「いえ…、いいんです。それで、私にまだ何か?お話できることは全てしたと思いますが。」

「はい、実は今回お聞きしたいのは、事件があった日のことじゃなくて、一年前のことなんです。」

「一年前?」霧香が形のよい眉を寄せた。

「はい。一年前の、お父さんと…、誠二さんの事故について。」

その名前を出した途端、霧香の顔が一気に蒼白になったのがわかった。

「なぜ…、今その時のことを?今回の事件には関係ないじゃありませんか。」

木場は返答に窮した。そのことで霧香が疑われているからとはさすがに言えない 。

「…お父さんが下半身不随になった事故のことです。直接は関係ないかもしれませんが、何か事件解決につながる手がかりがあるかもしれません。お話、聞かせてもらえませんか?」

木場はそう取り繕ったが、霧香は表情を曇らせたままだ。出来れば思い出したくないのだろう。

「…辛い気持ちはお察しします。お父さんだけじゃなくて、婚約者の方も一緒に事故に遭われたんですもんね…。それで婚約が解消になって、お父さんの介護をするようになって…。さぞお辛かっただろうと思います。自分だって、本当は過去をほじくり返したくなんかありません。でももしかしたら、そこに犯人につながる手がかりがあるかもしれないんです。お願いです。お話、聞かせて頂けませんか?」

木場はそう言って懇願するように霧香を見つめた。霧香は憂鬱そうに視線を落としていたが、やがてため息をついて言った。

「…わかりました。刑事さんだってお仕事ですし、聞かないわけにはいきませんものね…。」

霧香は今一度ため息をつくと、顔を上げ、ゆっくりと話し始めた。

「…あれは、父と誠二さんが会社から屋敷まで戻られる時のことでした。かなり遅い時間で、夜の十一時を回っていたと思います。いつもなら送迎は運転手がするのですが、その日はたまたま休みを取っていたので、誠二さんが父を屋敷まで送ることになったんです。その頃はちょうど会社が新規事業を立ち上げていた時期で、父も誠二さんもとても忙しくされていました。誠二さん、きっとすごく疲れていたんだと思います。運転の途中に居眠りをするなんて、普段の誠二さんなら考えられませんから…。」霧香が声を震わせた。

「誠二さんはどんな方だったんですか?」木場が優しく尋ねた。

「…名前のとおり、とても誠実な方でした。四年前に父のところに来られて、その時はまだ二十三歳でした。お若いのにとても優秀で、父も誠二さんのことはすぐに気に入ったようでしたわ。私を誠二さんに紹介したのも父でした。父は私が成人するとすぐに私の結婚相手を探し始めたんです。どんな人が雨宮家の後継者になるのか、気が気でなかったようでした。誠二さんなら人柄も信頼できますし、年齢も私と三歳違いでしたから、適任だと考えたのでしょう。かくいう私も…、一目見たときから、もうこの方しかいないと思いましたわ。」

霧香の頬がほんのりと赤くなった。木場は何となく悔しくなった。

「誠二さんの前にも宗一郎さんの秘書をしていた人はいたんですか?」

「ええ、ですが誠二さんより前の方は長くは続きませんでした。というのも、父は部下の方には厳しくて、少しでも気に入らないことがあるとすぐに解雇していましたから。誠二さんが三年も続けていられたのは、父が誠二さんを高く評価していた証拠なんだと思います。」

「でも、事故を起こしたことで解雇されてしまった…。」霧香は沈んだ表情で頷いた。

「…私は後からそのことを聞きました。父の病室にお見舞いに行った時に、『あいつはクビだ。結婚の話もなしだ。』と言われてしまって…。」

「じゃあ、誠二さんとはそれっきり?」

「ええ…、事故の日以来、一度もお会いしていません。お見舞いに行くのも父に止められてしまいましたので…。」霧香がため息をついた。

「でも、ひどいじゃないですか。霧香さんに何の相談もなしなんて…。だいたい、誠二さんと霧香さんを引き合わせたのは宗一郎さんじゃないですか。それに事故だって、誠二さんの過労が原因のようなものだ。被害者がもっと誠二さんをちゃんと休ませていれば…。」

そこまで言ったところで木場ははたと言葉を止めた。霧香が悲しげな目をして自分を見つめていたからだ。

「あ、すみません…。言い過ぎました。宗一郎さんは事故のせいで車椅子生活になったんですもんね…。そんな人が可愛い娘さんの婿になるって思ったら、確かにいい気はしないのかな…。」

「ええ…、でも私、父は本当は、ただ私を傍に置いておきたかっただけではないかと思うんです。」

「どういうことですか?」

木場が怪訝そうに尋ねた。霧香はしばしためらう様子を見せたが、やがて言った。

「…自分が下半身不随になって、父は誰に自分の世話をしてもらうのかを考えたんだと思います。父はこの屋敷の人間を信用していません。もし屋敷の人間に世話を任せてしまったら、そのうち遺産目当てに殺されるのではないかということを本気で考えていたんです。だからきっと…、唯一信用できる私に世話をさせようと思って、婚約を解消させたのではないかと…。」

「そんな…!それじゃ霧香さんがあんまりじゃないですか!」

「…仕方がないんです。父はそういう人ですから。いつだって自分が一番大事なんです。」

霧香が悲しげに首を振った。人生のあらゆる幸せを諦めてしまっているような顔だ。そんな霧香を木場は不憫そうに彼女を見つめたが、その一方で、やはりガマ警部の方が正しかったのではないかと思い始めていた。一年前の事故によって霧香が全てを失ったことは事実だ。幸せの絶頂からの転落、そこから続く父親の介護、そんな状況に耐えかねて父親を殺害したー。悔しいが、それは荒唐無稽な説とは言えないような気がしてきた。

「…刑事さん?大丈夫ですか?顔色が悪いようですけれど。」

霧香が木場の顔を覗き込んできた。彼女の顔が目の前にあり、木場は思わず大きくのけぞった。

「え、ええ!大丈夫です!少し考え事をしていただけで!」

木場はあたふたと言ったが、霧香は尚も心配そうに木場を見つめていた。

「…もしかして、私、疑われているんでしょうか?」

「え、いや、そんなことは…!」

「隠されなくても結構ですわ。生きていた父に最後にあったのは私ですもの。父をあの岸まで連れ出したのも私。それに加えてこの一年前の事故…。疑われても仕方がありません。」

霧香が諦めたように言った。木場はやるせなかった。霧香の無実を証明するために話を聞きに来たのに、かえって彼女を落ち込ませることになってしまった。

「…もうよろしいですか?私、少し疲れてしまいましたので…。」

霧香はそう言って視線を落とした。来たときよりもさらにぐったりしている。木場はそんな霧香の姿を見つめながら、何一つとして彼女の力になれない自分に不甲斐なさを感じていた。

「…すみません。」

木場はそれだけ言うと、無力感を引きずったまま霧香の部屋を後にした。

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