歪んだ家族

 灰塚の部屋を出た後も、しばらく木場の怒りは冷めやらなかった。あの男はいちいち人の神経を逆なでする。よくあれで家庭教師を名乗れたものだ。

「おい木場、あんまり熱くなるんじゃねぇぞ。」

感情がすっかり顔に出ていたのか、ガマ警部がたしなめるように言った。

「でも!あの男の態度はあんまりですよ!人のこと散々バカにして、おまけに霧香さんのことまで…!」

「落ち着け。俺だってあの男の態度は気に入らん。何であんな奴が家庭教師なんて仕事に就いていられるのか、理解に苦しむ。だが少なくとも、被害者との密談の内容については正直に話した。奴に被害者を殺害する動機はない。少なくとも今のところはな。」

木場は口を噤んだ。悔しいがガマ警部の言う通りだ。灰塚には今のところ怪しい点はない。せっかく最重要容疑者を見つけたと思ったのに、出鼻を挫かれた気分だった。

「とにかく、今は俺達の仕事をするのが先だ。あと話を聞いていないのは使用人と、それに妹だな。使用人の部屋は確か…。」

「ね、オジサン達、もしかして刑事さん?」

不意に頭上から声が降ってきた。二人が見上げると、二階の廊下の手すりに両腕を突き、手の上に顎を乗せてこちらを見下ろしている少女の姿が見えた。まだ高校生くらいだろうか。栗色の髪をツインテールにして、パフスリーブの赤いワンピースを着ている。

「そうだけど、君はもしかして、霧香さんの妹さん?」木場が尋ねた。

「へー、あたしのこともう知ってるんだ!さっすが刑事さん、仕事はやーい!」少女が賞賛するように高い声を上げた。

「え、いやぁ、それほどでも…。」

木場が照れたように頭に手をやったが、すぐにガマ警部に小突かれた。それを見て少女がくすくす笑う。ダメだ、このままではまたナメられてはしまう。木場は表情を引き締めると、なるべく尊大に見えるように言った。

「あー、その、自分は警視庁捜査一課の木場という者だ。よければ君にも話を聞かせてもらいたいんだが、構わないか?」

「何それ?隣のオジサンの真似してるつもり?そんな偉そうにしたって似合わないって!」

少女にバカにしたように言った。あえなく撃沈。木場はがっくりと肩を落とし、ガマ警部が恒例のため息をついた。

「なぁあんた、こいつのことを笑いたい気持ちはわかるが、少しは捜査に協力してくれ。自分の父親が殺されたんだぞ。なんであんたがそんなに平然としていられるのか、俺には理解できんな。」

ガマ警部が言った。少女の顔から笑みが消え、むくれたように警部の顔を睨みつけた。

「…わかったわよ。話、すればいいんでしょ?」

少女はそう言うと、階段を駆け降りてきて下にいた警部達の前まで来た。思ったよりも小柄で、生意気そうな瞳が挑発的に警部を見上げている。木場の方には目もくれない。

「まずは名前からだ。それに年齢も。」

「雨宮果林。十七歳よ。」

「今は高校生か?」

「学校には行ってないわ。パパが行かなくていいって言うの。勉強なら灰塚先生が教えてくれるしね。」

ガマ警部が顔をしかめた。今時高校にも行かせないとは、被害者は何を考えているのだ。そんな心中がありありと見て取れた。

「灰塚のことはどう思っているんだ?」

「とってもいい先生よ。教え方は上手いし、普通じゃ聞けないような話を聞かせてくれるから面白いの。ママも先生のこと気に入ってて、しょっちゅう泊まってけって言うのよ。」

「…霧香さんは苦手みたいでしたけど。」木場とぼそりと口を挟んだ。

「あぁ、そうかもね。ほら、灰塚先生って率直な人だから、お姉ちゃんみたいな”センサイ”な人には合わないんでしょ。」

果林が言った。『繊細』という言葉を嫌に強調した物言いには、暗に侮蔑の意味が込められているように感じられた。

「被害者はどうだったんだ?灰塚をこの家に雇い入れたのは被害者だったようだが。」ガマ警部が尋ねた。

「そりゃ気に入ってたんじゃないですか?だって先生のことを霧香さんに…。」

そこまで言いかけたところでガマ警部に凄まれ、木場は慌てて口を噤んだ。果林は意味ありげな笑みを浮かべて木場の方をちらりと見た。

「それがね、そうでもないの。ここだけの話、パパは先生をクビにしたがってたみたい。」果林が内緒話を打ち明けるように言った。

「そうなのか!?でも、何でまた?」木場が尋ねた。

「やっぱりお姉ちゃんのことね。先生がお姉ちゃんに色々吹き込んでるの見て心配になったみたい。それで先生を呼び出して、話をつけようとしたってわけ。」

「じゃあ、事件当日の夕食前に、被害者が灰塚先生と話をしていたって言うのは…?」

「たぶんそのことだったんじゃない?戻ってきた時、パパはしょぼくれてたし、先生はイラついてたし、話し合いは上手くいかなかったみたいね。」

木場はガマ警部と顔を見合わせた。さっき灰塚から聞いた話とはまるで違う。この話が本当なら、灰塚には被害者を殺害する動機があったことになる。

「だが、あんたはどうやって知ったんだ?その、被害者が灰塚を解雇しようとしていたことを?」ガマ警部が尋ねた。

「あら、そんなの簡単よ。だってパパ、これまで何回もあたしに聞いてきたんだもの。『果林、家庭教師を変えるつもりはないか?』って。でもあたしは先生のことが好きだったし、それにママも味方になってくれたから、今まで言い出せなかったんでしょうね。」

ガマ警部は黙り込んだ。ここに来て、再び灰塚の疑いが濃厚になってきたようだ。

「でも妙ですね。どうして公子さんはそんなに灰塚先生のことを気に入っていたんでしょう?先生はその…、教育者として子どもを任せるには心配なところがあるように思うんですが。」

「あっれー、刑事さんってばそんなこともわかんないの?」

果林が面白がるように言った。木場は訳がわからずに果林の顔を見返した。

「ママはね、灰塚先生のことが好きなのよ。オトコの人としてってことだけど。意味わかるでしょ?」

果林が悪戯っぽく笑って言った。しばらく考えてから、木場はようやく果林の言わんとするところが飲み込めてきた。

「え、じゃあ…、公子さんは、灰塚先生と不倫してるってことですか!?」木場が思わず叫んだ。

「木場!声がデカい!」

ガマ警部が怒鳴った。木場がしゅんとして肩をすぼめる。そんな二人を見て果林がまたくすくす笑った。

「ほら、灰塚先生ってちょっと悪いオトコって感じでカッコいいじゃない?そんな人が一つ屋根の下にいるんだもん。そりゃ何かあったっておかしくないわよね。車椅子生活になる前はパパもほとんど家に帰って来なかったし、ちょうどよかったんじゃない?」

「でも…、被害者は知ってたんですか?その、公子さんが灰塚先生と不倫してたことを?」木場が尋ねた。

「そうねぇ。車椅子生活になってからはさすがに気づいてたんじゃない?ママってば、パパが

家にいる時でも堂々と先生といちゃついてたし。それもあってパパは先生をクビにしようとしたのかも。」

果林があっさりと言った。母親が不倫をしていたというのに、ショックを受けるどころかその肩を持つ始末。あの親にしてこの子ありと言ったところか。

「…後で詳しく話を聞く必要があるな。ところで、事件があった日の夜十時頃、あんたはどこにいたんだ?」ガマ警部が尋ねた。

「え、やっだー警部さん!あたしが犯人だって疑ってるの!?」果林が大げさに声を上げた。

「関係者全員に聞くことだ。それで?どこにいたんだ?」

ガマ警部が無愛想に尋ねた。果林はつんと顔を逸らして言った。

「一人で部屋にいたわよ。わざわざパパと夜のお散歩に行こうなんて物好き、お姉ちゃんくらいよ。」果林がバカにしたように言った。

「ちなみに、あんたは被害者のことをどう思っていたんだ?」

ガマ警部が尋ねた。途端に果林が顔をしかめた。

「…パパのことは好きじゃなかったわ。お姉ちゃんにお世話してもらわなかったら何にも出来ないくせに、あたしに対してはいっつも偉そうに言うの。おい果林、お前はちゃんと勉強しめるのか?あの家庭教師に変なことを吹き込まれてるんじゃないかって。大きなお世話よ。世間の十七歳の女の子はもっと色んなこと知ってるのに、お父様はあたしをずっとこのお屋敷に閉じ込めとけばいいと思ってるんだわ。聞き分けのいいお嬢さんに育てて、いつまでも自分の傍に置いときたいのよ。お姉ちゃんみたいにね。」

果林が一気にまくし立てた。ここに来てようやく本音が見えたようだ。

 家族全員に話を聞いたことで、何となくこの家の内情が見えてきた。被害者への愛情など端からなく、堂々と不倫をしていた妻。言動に問題があり、被害者から解雇されかけていた家庭教師。不具になった父親をこけにし、家に縛られることに反感を抱いていた妹。知れば知るほど怪しい人物ばかりだ。そんな中でただひとり被害者の味方となり、献身的に介護をしていた霧香の存在は、木場にとっては聖女のように思えた。

「…ねぇ、刑事さんって、ひょっとしてお姉ちゃんに気があるんじゃない?」

いつの間にか木場の目の前まで来ていた果林がそっと囁いた。木場は思わず大きくのけぞった。

「いや、自分は決してそんなことは…!」

「隠さなくたっていいじゃない。お姉ちゃんって幸薄そうだし、いかにも守ってあげたいってタイプだもんね。刑事さんが夢中になるのもわかるわ。」

果林がそう言いながらくすくす笑った。木場は耳まで真っ赤になった。

「じゃあね、そんな刑事さんにイイコト教えたげる!」

「いいこと?」木場が首を傾げた。

「うん、あっちの怖い刑事さんにはナイショにしといてね。」

果林がガマ警部の方をちらりと振り返った。警部は少し離れたところから、怪訝そうに二人の様子を見つめている。

「わかった。それで、いいことって?」

果林は木場の方に顔を寄せると、秘密を打ち明けるように言った。

「…お姉ちゃんね、婚約してた人がいたの。藍沢さんって言って、結構カッコいい人だったんだけど、解雇されちゃって。」

「解雇?」木場が怪訝そうに眉根を寄せた。

「うん、パパの事故のことは聞いた?あの時車を運転してたのが藍沢さんだったの。本当なら事故の一週間くらい後で結婚の挨拶に行くはずだったんだけど、それもぱぁになっちゃって。おまけにパパの介護を押しつけられて、ホント可哀想よね。」

「そんな…。」

木場は絶句した。父親の交通事故、婚約の解消、一年間にわたる介護と父親の死。霧香を待ち受けていた運命はあまりにも非情だった。どうして霧香ばかりがこんなに辛いな目に遭わなければならないのだ。木場はいっそ憤りたくなった。

「ね、刑事さん、わかるでしょ?お姉ちゃんはここんとこずーっと不幸だったの。でも刑事さんがこの事件を解決できたら、お姉ちゃんもちょっとは気持ちの整理つくかもしれないし、そしたら刑事さんにもチャンスあるかも!」

果林のいう『チャンス』が何を意味するのか、鈍感な木場でも今度は理解できた。木場の顔がタコのように真っ赤になった。

「おい、いつまで無駄話をしてるつもりだ?」ガマ警部が痺れを切らして言った。

「はーい、もう終わりましたよーっと!」

果林がぱっとガマ警部の方に向き直ると、そのままくすくす笑いながら走って行った。ガマ警部が顔をしかめてその方を見やる。

「おい木場、あの小娘と何を話したんだ?」ガマ警部が木場の方に詰め寄ってきた。

「え、いや、その…。」

「…まぁ、お前の顔を見れば大方想像はつくがな。またあの霧香とかいう娘のことで何か吹き込まれたんだろう。」

「ええ、まぁ…。」

木場は果林の話をガマ警部に話した。一年前の交通事故を起こした秘書が霧香の婚約者だったこと 。事故のために二人の婚約が解消になったことも。話を聞くと、ガマ警部は大げさに顔をしかめて見せた。

「その婚約者の件…、気になるな。今回の事件に何か関係があるかもしれん。」

「どうしてですか?だって事故だったんでしょう?それに藍沢さんは解雇されたって話でしたよ。」

「問題はそこだ。あの娘は言わば事故によって全てを失ったわけだ。婚約の話がなくなった上、自分は父親の介護を余儀なくされた。そのことで被害者を恨んでいたとしてもおかしくはない。」

「そんな…、じゃあ警部は、霧香さんを疑っているんですか!?」

「あくまで可能性の話だ。だがあの娘の行動には疑わしい点があるのも事実だ。なぜ車椅子の被害者をわざわざ岸まで連れて行った?そしてなぜ被害者をそこに置き去りにした?」

「それは霧香さんが言っていたじゃないですか。岸壁に行ったのは被害者を夜風に当たらせたかったからで、被害者を残していったのはプレゼントを忘れたからで…。」

「どうだかな。いくら天気がいいからと言って、夜の十時に車椅子の人間を岸まで連れて行くなんてまともな奴の考えることじゃない。プレゼントを渡すにしたって、被害者を屋敷まで連れて帰ってから渡せばいいだけの話だ。なぜ被害者を放置する必要がある?」

「それは…。」

木場は反論できなかった。確かに霧香の行動には不自然な点が多い。

「まぁ、もう少し情報を集めんことには何とも言えんがなな。現場からの情報も直に届くだろうから、結論を出すのはそれからだ。あと話を聞いていないのは使用人の連中だったな…。」

警部が屋敷を見回した。その傍らで、木場はいつになく真剣な顔をして考え込んでいた。

警部の言っていることは正論だ。いくら霧香が宗一郎の介護をしていたからといって、彼女だけを容疑者から外すことはできない。だがその一方で、霧香が犯人だとは木場はどうしても信じられなかった。被害者が死んだことをろくに気にもしていない薄情な家族の中で、霧香だけが被害者の死を心から悼んでいるように見えた。あれが演技だったとは到底思えない。それに考えてみれば、被害者を失った今、彼女はこの家で一人ぼっちになってしまったのだ。彼女にこれ以上辛い思いをさせるわけにはいかない。霧香に疑いが向いているというのなら、自分がそれを晴らさなければ。

「…ガマさん、すみません。自分、もう一度霧香さんに会ってきます。」木場が出し抜けに言った。

「何?」

「霧香さんにもう一度話を聞きたいんです。さっきはひどく疲れておられるようでしたから切り上げましたけど、やはりまだ聞き足りないような気がして…。」

「それは捜査の一環としてか?私情を持ち込んでるだけじゃないのか?」ガマ警部が疑わしい視線を向けた。

「違います!自分は本当にこの事件を解決したいんです!霧香さんにはまだ聞けていないことがある。自分はそれを確かめに行きたいだけなんです!」

木場が熱心に言った。ガマ警部は信用していない目をして木場を見つめていたが、やがて諦めたようにため息をついた。

「…まぁいい。そこまで言うなら、あの娘からありったけの情報を引き出してこい。」

「え、いいんですか?」思いがけずあっさりと了承され、木場が目を丸くした。

「どうせお前の頭にはあの娘のことしかないんだろう。そんな奴を聞き込みに連れて行ったところで何の役にも立たん。だったらせいぜい気の済むまであの娘と話をしてこい。」

「あ…、ありがとうございます!ガマさん!」木場が勢いよく頭を下げた。

「だが、もし捜査に有益な情報が得られなければ、その時は職務怠慢とみなして処分を考えることになる。そのことを肝に銘じておくんだな。」

「はい!頑張ります!」

木場はもう一度大きく頭を下げると、大急ぎで階段を登っていった。ガマ警部はため息まじりにその背中を見つめながら、いっそこのままあいつをクビに出来たらどれだけいいだろうと考えた。

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