告白
鑑識を後にした木場は、富岡の言った「まだ捜査線上に浮かんでいない人間」について考えた。あの日、屋敷にいた人間は間違いなく事件の関係者だ。当然指紋も採取されている。となると、疑わしいのは事件当日屋敷にいなかった人間で、被害者の車椅子に近づくことができた人間ということになる。木場はしばらく心当たりを考えてみたが、すぐに断念した。考えてみれば、あの指輪がいつ被害者の車椅子に落とされたかはわからないのだ。犯人が被害者を突き落とす時に落としたものとも考えられるが、単に屋敷に見舞いに来た人間が落としただけかもしれない。富岡の言うとおり、事件とは全く関係ない可能性だってあるのだ。だがそれでは捜査を前に進めることは出来ない。木場は迷った末、彼女に話を聞きに行くことにした。
取り調べ室で対面した霧香は、屋敷で会った時よりもさらに痩せたように見えた。ガマ警部の厳しい取り調べで、心身共に疲弊してしまっているのだろう。木場は気の毒そうに霧香を見つめた。
「お疲れのところすみません。実は霧香さんに、どうしても見て頂きたい証拠品があって来たんです。」
「私に?いったい何ですの?」
霧香がやつれた顔で尋ねた。木場はスーツのジャケットのポケットに手を入れると、おもむろに例の指輪を取り出した。
「これ、覚えておられますよね?」
木場は指輪を手のひらに乗せて霧香の前に差し出した。途端に霧香の目が見開かれる。
「あの屋敷で、あなたはこれを見て気を失いました。この指輪を見て何かに気づいたとしか思えません。霧香さん、これは誰のものなんですか?」
「…決まっています。父のものですわ。父の車椅子から見つかったんですもの。気を失ってしまったのはあの警部様に追及されたことが怖ろしかったからで、指輪とは何の関係も…。」
「霧香さん、残念ですがそれは通りません。」木場が悲しげに首を振った。霧香が当惑した表情を浮かべた。
「さっき鑑識に調べてもらいましたが、指輪から被害者の指紋は検出されませんでした。この指輪は被害者のものではあり得ません。」
「そんな…!」
霧香が勢いよく椅子から立ち上がった。パイプ椅子が音を立てて倒れる。外にいた警官が何事かという顔をしてドアを開けたが、木場は慌てて取り繕うような笑みを浮かべると、パイプ椅子を戻して丁重に警官を締め出した。霧香の方に視線を戻すと、元々色白の肌がますます蒼白になっているのが見えた。
「霧香さん、やっぱり何か知っているんですね?教えてください!この指輪はいったい何なんですか!?」
霧香は答えなかった。すとんと椅子に腰を落とし、木場と目を合わせようとしない。
「霧香さん!どうなんですか!?」
「…もう、結構ですわ。」
霧香が力なく呟いた。木場が当惑して霧香の顔を見返した。
「…あなたがどうしてそこまでこの事件にこだわるのか、私にはわかりません。あの警部様がおっしゃった通り、私は父の介護に疲れ、耐えきれなくなって父を殺してしまったのです…。自分があんな恐ろしいことをしてしまったことが今でも信じられません…。罰を受ける覚悟は出来ています。だからもうこれ以上は…。」
「霧香さん…。」
木場は不憫そうに霧香を見つめた。確かにこのまま霧香が犯人ということになれば、全ては丸く収まることになるだろう。だが木場は、どうしてもその結末に納得がいかなかった。木場は静かに霧香を見つめて言った。
「…あの屋敷で初めてあなたに会った時、あなたは目を真っ赤に腫らしていました。きっと直前まで泣いておられたんですよね…。あの時のあなたの姿がずっと頭から離れなかった。宗一郎さんはあなたにとってたった一人の本当の家族であり、その存在を失ったことであなたは一人ぼっちになってしまった…。見栄と嘘にまみれたあの屋敷の中で、あなたの悲しみだけが本物だと思えた。だから自分だけは、何があってもあなたを守ろうと…。」
「…刑事さんは私を買い被り過ぎですわ。私はそんなに純真な人間じゃありません。私は父のために若さも婚約者も失ってしまったのです。私は自分が奪われたものを取り返そうとした。それだけのことですわ。」
「じゃあ、あなたは最初からお父さんを殺すつもりであの崖に連れて行ったんですか?」
「そうですわ。あそこなら人目にもつきませんし、事故に見せかけるにはちょうどいいと思ったんです。」
「でも、いくら事故に見せかけようとしたからって、夜の十時に被害者をあんな崖に連れ出すなんてどう考えたって怪しまれます。せめて昼間にするとか、もう少し疑われずに済む方法だってあったはずです。」
「…言われてみれば確かにその通りですが、あの時はそこまで考えが及ばなかったのです。ただ夜の方が人目につかずに済むと思った。それだけのことですわ。」
「本当にそうでしょうか?奇妙な点はそれだけじゃありません。霧香さんは最初からプレゼントを崖まで持って行って、被害者を一人にするためにそれを取りに帰る振りをしたとおっしゃっていました。でも、本当に被害者を殺すつもりだったのなら、最初からプレゼントなんて持って行く必要はありませんよね?と言うか、殺そうとする人間のためにプレゼントを用意すること自体がおかしいじゃないですか?」
「それは…。」
霧香は言い淀んだ。それを見た木場が畳みかけるように言った。
「霧香さん、あなたの言っていることは嘘だ。あなたはお父さんを殺してなんかない。それなのに、どうして自分から罪を被ろうとするんですか!?」
木場が机に手を突いて立ち上がり、霧香の方に身を乗り出して叫んだ。霧香は苦しげに顔を歪めて木場から視線を逸らした。そんな霧香の様子を見て、木場はふと思いつくことがあった。
「…霧香さん、もしかしてあなたは、誰かを庇っているんですか?」
霧香がはっとした表情になった。どうやら図星のようだ。
「…あなたのその様子からして、あなたはこの指輪の持ち主が事件に関係していると考えておられるようですね。あなたはその人物を知っていて、その存在を隠そうとしている。だから自分が犯人だと名乗りを上げて、指輪が宗一郎さんのものだと嘘をついた。違いますか?」
「…知りません。私は、何も…。」
霧香が自分を抱くようにしながら震える声で言った。木場はだんだん彼女が不憫になってきた。どうして霧香はそこまでしてその人物の存在を隠そうとするのだろう。実の父親を殺されていながら、自分が罪を被ってまで彼女が守ろうとする人間とはいったいー。
その時だった。一つの考えが天啓のように木場の全身を貫いた。彼女の不可解な行動を示すたったの一つの手がかり、それは文字通り、すでに木場の手の中にあった。
「霧香さん…、そういうことだったんですね。」
木場が理解と同情の混じった目で霧香を見つめた。霧香が怯えたように顔を上げた。
「やっとわかりましたよ。あなたがどうして犯してもいない罪を被ろうとするのか…。全部あの人のためだったんですね。」
霧香が視線を落とした。その沈痛な表情が全てを物語っていた。
「でもどうしてですか?あの人はあなたのお父さんを殺したんですよ?そんな人をどうして…。」
木場が不可解そうに霧香を見つめた。霧香は尚もうつむいていたが、やがて諦めたように息をついた。
「…私が悪いのです。あの人があんなことになってしまったのも、全て私のせいなのです…。」
「どういうことですか?」
霧香が顔を上げた。木場の顔をじっと見つめ、やがて苦しげに次の言葉を吐き出した。
「一年前の事故…、あれは、私のせいで起こったことなのです。」
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