【旧版】岸壁の令嬢

瑞樹(小原瑞樹)

プロローグー満月の夜にー

 満月に照らされた夜の海。打ち寄せる波が飛沫を上げては崖に跳ね返っている。その崖の先端に向かって、二人の人影がゆっくりと通り過ぎていくのが見えた。一人は車椅子に乗った老人、年齢は六十歳を過ぎた頃だろうか。暖かそうなガウンに身を包み、落ち窪んだ二つの目はぼんやりと月を見上げている。その車椅子を押しているのは若い女性で、年齢はまだ二十代前半くらいだろうか。背中まで伸びた艶やかな黒髪をして、薄手の青いワンピースの上に白いショールを羽織っている。しずしずと車椅子を押す優美な姿は、彼女が良家の令嬢であることを物語っていた。

 崖の先端まで来たところで二人は歩みを止めた。女性が車椅子のブレーキを止め、無言のまま二人で前方を見つめる。視界を遮るものが何もないこの場所からは海が一望できた。

「…ここからの景色は変わらんな。何十年経っても昔のままだ。」老人が言った。

「お父様、昔からよくここにいらしてましたものね。事業のアイディアを考える時なんかは特に。」女性が言った。

「あぁ、身体がこんなになってからはめっきり来る機会も減ってしまったが…、久しぶりに来るとやはり懐かしいものだな。お前が誘ってくれたよかったよ、霧香。」

老人が満足そうに頷いた。霧香と呼ばれた女性が柔らかく微笑んだ。

「お父様、お身体の具合はいかが?」

「あぁ、問題ない。お前がこうして毎日世話をしてくれるおかげだな。わしがこの身体を預けられるのはお前だけだ。家族の奴らは信用できん。あいつらはわしが早くくたばればいいと思っているからな。使用人の連中だってそれは例外じゃない。霧香、わしはお前がずっと傍にいてくれればいいと思っているんだよ。」

「あら…、そんなの当たり前じゃない。私はずっとお父様の傍にいるわ。お父様が亡くなるまで…、ずっと。」

そこで霧香が言葉を切った。雲が月を覆い隠し、辺りの闇が一段と深くなる。

「ねぇ、お父様。私、今日はお父様にプレゼントを用意してきたの。」霧香が出し抜けに言った。

「プレゼント?ほう、どんなものだ?」老人が興味を惹かれたように言った。

「見てのお楽しみよ。でもお屋敷に忘れてきちゃったみたい。取ってくるから、ちょっとここで待っててもらえる?」

「ここで?わし一人でか?」老人が急に不安そうな顔になった。

「大丈夫。ブレーキはしっかりかけておくから、車椅子は勝手に動かないから安心して。」

霧香は諭すように言ったが、老人は尚も不安そうに辺りの岸を見回した。

「…すぐに戻ってくるから。待っててね。」

霧香はそう言って老人の肩に手を置くと、足早に屋敷へと続く森の中に姿を消した。老人は途方に暮れた顔をして霧香が消えた方向を見つめていたが、やがて諦めたように再び海の方へ視線を移した。雲間から月が再び顔を出し、波に反射した光が老人の方へ向かって裾を広げている。まるで老人をその中へ誘おうとしているかのように。

 そうしてどれほど時間が経っただろう。不意に背後から大きな衝撃が加わり、老人の頭が大きく揺れた。身体が前のめりになり、尻の下にあった車椅子の感覚が消えた。がこんがこんという大きな音がして、何か固い物が激しくぶつかりながら崖を転がり落ちていった。その瞬間、身体がふっと軽くなり、老人は空に浮かび上がっていた。さっきまで眺めていた黒い海が眼下に広がる。海上を舞う鳥のような気持ちで老人はその海を眺めた。最初はスローモーションのように流れていたその光景は次第に速くなり、老人の身体はみるみるうちに海に吸い寄せられていった。まるで海面にぽっかりとブラックホールが空いて、その中に呑み込まれていくみたいに。

 次の瞬間、ざぶんという大きな音が聞こえたかと思うと、波が大きな飛沫を立てて飛び上がった。だがそれも一瞬のうちに収まり、再び辺りは静寂に包まれた。月明かりが崖の上を照らす。さっきまであったはずの車椅子の影も、その主の姿も、すでにそこにはなかった。

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