薄幸の令嬢

 二人はまず二階にある娘達の部屋に向かうことにした。廊下はやたらと長く、何に使われているかわからない部屋がたくさんあり、公子に場所を教えてもらわなかったら間違いなく迷子になっていたところだ。

「まったく無駄に広い屋敷だな。どうしてこんなに部屋があるのか理解に苦しむ。」ガマ警部が苦々しげに言った。

「お客さんが来るんじゃないですか?それで客室がたくさん必要とか。」

「お前、ここは車で三時間かかるんだぞ?そんな場所にわざわざ来ようなんて物好きがそう何人もいてたまるか。」

「被害者は経営者だったんですよね?だったら会社の人が来てたかもしれませんよ。」

「いや、それはない。被害者がこの屋敷に住み始めたのは経営を退いてからだ。それ以前は都心にマンションを借りて一人で暮らしていたそうだからな。まぁ見舞いくらいに来る人間くらいはいたかもしれんが、こんな趣味の悪い屋敷に長居したいとは思わんだろう。」

ガマ警部が吐き捨てるように言った。どうも警部は、この屋敷の何もかもが気に入らないようだ。

 そんな会話をしている間に廊下の端まで辿り着いた。廊下を挟んで左右に部屋が二つ。少し迷った末、木場はまず左側の扉をノックした。しばらくして、はい、とか細い返事が聞こえた。

「すみません、警察の者です!少しお話を聞かせてもらっても構いませんか!?」

木場が大声で尋ねた。やや間があって、どうぞ、と蝦の鳴くような返事が聞こえた。そのあまりの頼りなさに木場は思わずガマ警部の方を見たが、警部は部屋の方へ顎をしゃくっただけだった。木場はややためらった後、「失礼します!」と叫んで思いきって扉を開いた。

 玄関や廊下の壮麗さに比べると、それは質素と言ってもいい部屋だった。淡いブルーの壁紙に濃紺の絨毯、白で統一された家具が洗練された雰囲気を醸し出している。飾りと言えば花瓶にユリの花が生けられているくらいで、余計なものは何一つ置かれていない。そしてその部屋の中央、白いテーブルと向かいになった椅子に、こちらに背を向けてうつむき加減に腰かけている女性の姿が見えた。青地のワンピースに白いカーディガンを羽織っており、この部屋の雰囲気と調和している。背中まで伸びた艶やかな黒髪に木場の目は引き寄せられた。

「あの、すみません。警視庁捜査一課の木場と申します。ちょっとお話を…。」

そこで女性が不意に振り返った。その瞬間、木場の目は彼女に釘づけになってしまった。

 若い女性だった。自分とそう変わらない年齢に見える。とても華奢な体系をしていて、カーディガンの袖口から見える細い手首は今にも折れてしまいそうだ。自分を見上げる瞳は赤く泣き腫らしていて、父を失った悲しみがありありと浮かんでいた。だがそのような姿をしていても彼女ははっとするほど美しく、まるで砂漠に咲いた一輪の花のように思えた。

「…すみません、みっともない姿をお見せしてしまって。」

女性が消え入るような声で言った。木場はぶんぶんと大げさに首を振った。

「父がもうこの世にいないということがどうしても信じられなくて…。昨日まではずっと一緒だったのに、こんなに突然、私を置いていなくなってしまうなんて…。」言いながら、女性はまたしても嗚咽を漏らし始めた。

「は、犯人は絶対に自分達が捕まえますから!今はとにかく、お話を聞かせてもらえませんか?」

木場がうろたえながらも必死に言った。女性は何とか嗚咽を堪えると、涙を拭って顔を上げた。

「…そうですね。私がいつまでも悲しんでいても、父は浮かばれませんものね…。」

女性はそう言うとすっと背筋を伸ばし、改めて木場を見つめた。先ほどまでとは違う、凛とした視線が木場を捉える。

雨宮霧香あめみやきりかと申します。この家の長女で、父のお世話をしておりました。」

「世話?そんなものは使用人の仕事じゃないのか。」ガマ警部が尋ねた。

「…父は私以外の人に心を開いていないんです。私以外の人はみんな父の財産が目当てで近くにいるだけで、そんな人達に世話を任せてはおけないからと言っていました。」

「じゃあ…、被害者が下半身不随になってからは、霧香さんがずっとお世話を?」

「ええ、もう一年以上になります。」

「そんな…。霧香さん、まだ二十代でしょう?今が一番楽しい時じゃないですか。それを自分の介護に費やさせるやんて…。」

木場が憤慨したように言った。霧香のように若くて美しい女性が、こんな閉じた世界で父の介護に明け暮れているという事実に納得出来なかったのだ。

「…いいんです。私にはこれくらいしか出来ませんから。私がお世話をして父が喜んでくださるなら、私にはそれで十分なんです。」

霧香が寂しげに笑って言った。どこか無理をしたような表情。この女性はきっと、今まで自分の感情をひた隠しにして生きてきたのだろう。自分のことは全て後回しにして、ただひたすら父のために人生を捧げてきた。そんな彼女のけなげさに木場は心を打たれた。

「それじゃあ、事件当日に被害者と一緒に現場まで行ったのもあんたか?」ガマ警部が尋ねた。

「ええ…、ここ数日雨が続いていたのが、あの日は珍しく晴れたものですから。夕食の後に夜風に当たりに行こうと誘ったんです。」

「夜十時からか?散歩には遅すぎる時間だと思わなかったのかね?」

「…私も、本当はもう少し早く出掛けるつもりだったんです。でもあの日は夕食が終わるのが遅くて、だからといって止めてしまうのも父が可哀想で。それでなるべく早く帰るつもりで行くことにしたんです。」

「夕食が終わったのは何時だね?」

「夜の九時頃でした。いつもは八時頃には終わるのですが。」

「事件当日、夕食が遅れたのには何か理由があったのかね?」

「ええ。私達はいつも家族揃って夕食を取るんですが、あの日は夕食前に灰塚先生が父とお話になっていたんです。すぐに来られるだろうと思って待っていたら一時間も経ってしまって。」

木場は思わずガマ警部の方を見た。警部も同じことを考えたのか、意味ありげな視線を木場の方に寄こした。

「灰塚と言うのは、この家に出入りしている家庭教師のことだったね?」ガマ警部が霧香に向き直って尋ねた。

「ええ、もう五年以上妹の勉強を見てくださっています。」

「二人はどこで話していたんだね?」

「父の書斎ですわ。」

「話していたのは二人だけかね?他に誰か加わった者は?」

「いないと思います。何かとても大事な話だったようですから。」

ガマ警部が再び木場の方に視線を寄こした。木場は何度も大げさに頷いた。事件当日、被害者と密談をしていたという家庭教師、明らかに怪しい。後で詳しく話を聞かなければならないだろう。

「ところで、現場に行かれたのは霧香さんと被害者の二人だけですか?」木場が口を挟んだ。

「ええ、私と父だけです。」

「他の家族の方が一緒に行かれることはないんですか?」

「ありませんわ。あの人達は、父のことに関心なんかありませんもの。」霧香がそっけなく言った。

「どういうことかね?」

ガマ警部が聞き捨てならない様子で尋ねた。霧香は逡巡するように視線を下げると、言いにくそうに言った。

「…正直に申しまして、私の家族は、今の父のことを疎ましく思っているんです。父が現役だった頃はそうでもありませんでした。あの頃の父はやり手で、各界の著名人のところにも評判が広がっていましたから、母や妹はその恩恵にあやかろうとして、いつも父のご機嫌を取っていました。でも、父があんな状態になって、世間から忘れられるようになってから母と妹の態度は一変しました。母は父と寝室を別にして、父の様子を見に来ようともしません。妹は妹で、父が私に車椅子を押されているのを見てバカにして笑って…。母や妹にとって、父は自分達に愉快な生活を与えてくれるだけの存在でしかなかったんです。」

「ひどいな…。奥さんはともかく、妹さんまでそんな仕打ちだなんて。だって実のお父さんなんでしょう?」

「いいえ…。実は、父と母は再婚なんです。私の実の母が幼い頃に亡くなって、その後に現れたのが今の母でした。妹は母の連れ子なので、父とは血がつながっていないんです。」

「そうだったんですか…。」

それで霧香は父の死をあんなに悼んでいたのか。介護を強いられていたとはいえ、霧香にとっては、宗一郎だけが家族と呼べる存在だったのかもしれない。

「だが妙だな。それだけ甲斐甲斐しく世話をしていながら、なぜ被害者を岸に一人で残して行ったんだ?あんなところに車椅子の人間を放置しておいたら危ないことくらい想像できるだろうに。」ガマ警部が咎めるような視線を霧香に向けた。

「それは…。」

霧香が視線を落とした。両手で自分の身体を抱き、細い肩を震わせている。そんな彼女を見ているうちに居たたまれなくなり、木場は思わず口を挟んだ。

「警部。そんなに睨まないでくださいよ。霧香さんが怖がってるじゃないですか。」

「ふん、俺は元々目つきが悪いんだ。それで?あの晩、どうして被害者を置き去りにしたのかね?」

霧香は尚も消沈した様子で視線を落としていたが、やがてぽつりと言った。

「…プレゼント。」

「何?」

「あの日私は、父にプレゼントを渡すつもりたったんです。でもそれを屋敷に忘れてきてしまって、すぐに戻ってくれば大丈夫だろうと思って、父を置いていってしまったんです。あの時、私が父を残していかなければ…。」

霧香は両手で顔を覆うと、さめざめと泣き始めた。そんな霧香を木場は不憫そうに見つめた。

「そのプレゼントというのは?」ガマ警部が尋ねた。

「…カフスです。父は身なりに気を遣う人でしたから、車椅子生活でもせめてアクセサリーくらいはと思って…。」

霧香が手で顔を覆ったまま言った。プレゼントを忘れなければ被害者が命を落とすこともなかった。そう思って後悔してもしきれないのだろう。

「警部、霧香さんだってショックを受けておられるんですよ。あんまりきつい言い方をしないでください。」

木場が霧香を庇うように言ったが、警部はふんと鼻を鳴らしただけだった。

「あんたが被害者の傍を離れていたのはどれくらいだ?」

「…三十分くらいだったと思います。あの崖から屋敷に行くまでに十分ほどかかります。プレゼントを探すのにも十分ほどかかって、それから戻りましたので。」

「三十分か…。被害者を突き落とすだけなら十分過ぎる時間だな。」

ガマ警部が呟いた。途端に霧香がはっとして顔を上げた。

「そんな…、父の死は事故じゃありませんの?」

「あくまで可能性の話だ。現場の奴らからの情報待ちだが、状況によっては事件の可能性もある。」

警部が言い終わるか終わらないかのうちに、霧香の顔がみるみる青ざめて言った。

「霧香さん?大丈夫ですか?」木場が心配そうに尋ねた。

「え、ええ…。まさか、事件の可能性があるなんて思いもしませんでしたから…。」

霧香は額に手をやると、ふらふらと手すりを掴んで椅子にへたり込んだ。突然どうしたのだろう。事件の可能性を示唆されたことがよほどショックだったのだろうか。

「ガマさん、そろそろ違う人に話を聞きに行きませんか?霧香さんもお疲れのことだと思いますし。」

木場が提案した。霧香はかなりぐったりしていて、これ以上話を聞くことは憚られたのだ。ガマ警部は物言いたげな視線を木場にくれたが、そのまま頷いた。

「まぁ…そうだな。あんたには色々と有益な話を聞かせてもらった。礼を言おう。」

「いいえ…。私に出来るのはこれくらいですから。」

霧香が弱々しくかぶりを振った。木場はそんな彼女の様子をじっと見つめていたが、やがて一歩前に出ると言った。

「霧香さん、お父さんを亡くされたこと…、さぞショックだろうと思います。でも安心してください。犯人がどこに隠れていようが、自分が絶対に見つけ出して見せますから!」

霧香はびっくりしたように木場を見返した。木場は彼女から目を逸らさず、一心にその視線を受け止めた。霧香はなおも目を瞬かせていたが、やがてふっと表情を緩めた。

「…ありがとうございます。刑事さんにそう言って頂けると、私も何だか安心できるような気がします。」

霧香はそう言って無理をしたように微笑んで見せた。その虚ろな微笑みが木場の中の何かに火をつけたのか、木場は拳をぐっと握り締めると、霧香に向かって何度も頷いて見せた。どうやらこの若い刑事は、儚く頼りなげな霧香の姿にすっかり心を奪われてしまったようだ。早くも生じた不安の種に、ガマ警部は大きくため息をついた。

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