アリバイ

 霧香の部屋を出た後も、木場の足取りは重いままだった。状況は霧香にとって悪くなるばかりだ。確かに他の家族にも怪しい点はある。愛人と公然と浮気をしていた公子、解雇の件で被害者と揉めていた灰塚、父親からの束縛を疎んじていた果林、動機だけでみれば他の者が犯人の可能性は十分にある。ただ、今の話を聞いた後では、被害者を殺害する最も強い動機を持っているのは霧香だということは、木場としても認めざるを得ないのだった。

「でも、まだわからないよな。犯行時刻のアリバイは全員ないわけだし。そこから犯人をあぶり出すことが出来れば…。」

木場がそんなことを考えた時だった。木場が歩いてきたのとは反対側、東側の部屋から誰かが出てくるのが見えた。木場はとっさに近くにあった観葉植物の陰に身を隠した。

「…まったく、いつまでこんなくだらないことを続けるつもりなのかしら。人をいつまでも部屋に閉じ込めておいて、屋敷中を荒らし回って、人権侵害もいいところだわ。」

女のうんざりした声が聞こえた。公子の声だ。

「まぁまぁ、いいじゃないですか。あのじいさんが死んでくれたおかげで、俺らもこそこそ会わずに済むようになるんですから。」

もう一つ軽い調子の男の声が聞こえた。灰塚のものだ。

「ちょっと、そんな大きな声で言わないでちょうだい。まだ警察がいるのよ?疑われでもしたらどうするの。」公子が咎めるように言った。

「大丈夫ですよ。じいさんの事件に関しちゃあ、俺らには何もやましいことなんかないんだから。犯人は霧香で決まりでしょう。せっかく目障りな奴が一人消えたんだ。あいつもまとめていなくなってくれりゃあ、俺ももう少し快適に過ごせるようになるってもんだ。」

灰塚が平然と言った。木場は腸が煮えくり返るような思いでその会話を聞いた。この二人は、被害者から亡くなってから一日も経たないうちにもう逢い引きを始めている。しかも被害者が死んだことを喜ぶ気持ちを隠そうともせず、あろうことか霧香までをもこの屋敷から閉め出そうとしている。そのあまりの厚顔っぷりに、木場はとうとう我慢できなくなった。

「ちょっと、そこの二人!」

木場は勢いよく植物の陰から飛び出した。公子と灰塚がびくりと肩を上げてこちらを振り向く。木場は憤然として大股で二人に近づいた。

「今の会話、聞きましたよ!あなた達には良心ってものがないんですか!?」

木場はきっと灰塚を睨みつけた。公子が言わんこっちゃないという顔をして彼を小突いた。

「…盗み聞きかよ。警察ってのは趣味が悪いねぇ。おちおち立ち話も出来ねぇや。」

灰塚がポケットに手を突っ込み、吐き捨てるように言った。全く悪びれた様子がなく、木場はますます苛立ちを覚えた。

「灰塚先生、あなたは霧香さんが犯人だって決めてかかってるみたいですけど、疑わしいのはあなただって同じなんですからね!さっき自分と警部に言いましたよね。夕食の前に宗一郎さんとに呼び出されたのは、霧香さんとの結婚の話をするためだったんだって。あれ、真っ赤な嘘だったんですよね!?」

「何?」灰塚がぴくりと眉を動かした。

「果林ちゃんから聞きましたよ。宗一郎さんは、あなたの勤務態度を問題にして解雇しようとしていたそうですね。そんな人を大事な娘さんと結婚させようなんて思うはずがありません。宗一郎さんがあなたを呼び出したのは、あなたの解雇について話をするためだったんじゃないですか!?」

「ちっ…、あのガキ、余計なこと言いやがって!」

灰塚が毒づいた。どうやら図星のようだ。

「そうなると話は変わってきます。あなたは宗一郎さんと一時間も話し込んでいた。話し合いがもつれたことは明白です。しかもあなたは、嘘の理由をでっち上げてまで宗一郎さんとの話し合いのことを隠した。あなただって十分疑わしいんですよ!」

木場は一気にまくし立てた。灰塚は苦々しげに木場を睨みつけたが、反論できないようだ。

「ねぇ、刑事さん、ちょっとよろしいかしら?」

不意に公子が口を挟んできた。木場は怒りが覚めやらないまま公子の方を見た。

「あなた、きっとこう考えてらっしゃるのよね?この人が主人と解雇のことで言い争いをして、それで激情に駆られて主人を殺したって。確かにこの人はこんな性格ですから、そう考えるのも無理はないかもしれませんわね。でもね、それはあり得ませんのよ。」

「どうしてですか!?」木場がいきり立ったように叫んだ。

「簡単ですわ。事件があった時間、あたくしはこの人と一緒いましたもの。」

木場はぽかんとして公子の顔を見返した。今までの勢いが急に削がれていくような気がした。

「おい、公子さん。それは…。」灰塚が慌てて口を挟もうとした。

「構いませんわ。果林に話を聞いたのなら、あたくしと敏夫さんのことも聞いたのしょう?あの子は噂話が好きですからねぇ。身内のことくらい黙ってくれていてもよさそうなものですけれど。」公子が頬に手を当ててため息をついた。

「え、それで…、昨日の夜十時頃、お二人は一緒にいたんですか?」木場が混乱しながら尋ねた。

「ええ、主人と霧香が出かけることは知っていましたから、あたくしの部屋で、ちょっとお話していましたのよ。」

『お話』なんて、そんな上品なもので済むわけがないことは木場にも想像がついたが、もはや突っ込む気にもなれなかった。

「どれくらいの時間一緒にいたんですか?」

「そうねぇ、夕食の後、主人達が出かけた後のことですから、九時から十時過ぎくらいだったかしら。」

夜十時、ちょうど事件があった時間だ。もしその話が本当なら、二人にはアリバイがあることになる。

「でも二人とも、さっきは自分の部屋に一人でいたって…!」

「あの時はまだ敏夫さんとの関係は秘密にしておきたかったものですから。下手に関係を公表して疑われたらたまりませんもの。」公子が平然と言った。

「でも!あなた達二人が共犯だって可能性もあるじゃないですか!そしたらそんなアリバイは何の意味も…。」

「おいおいあんた、不倫してる人間は殺人でも平気でやるって言いたいのか?いくら霧香を助けたいからってあんまりだぜ。」灰塚が威圧するように木場の方に身を屈めた。

「そんなことは言ってません!ただ自分は可能性の話を…。」

「その可能性もありませんわ。」公子がきっぱりと言った。木場は面食らって公子の顔を見た。公子はいやに自信ありげな顔をして、傲然と顎を上げて木場を見下ろしている。

「どうしてですか?他に誰か一緒にいたわけでもないんでしょう?」

「ええ、部屋にいたのはあたくしと敏夫さんだけですわ。でも、あたくし達が部屋から出てくるところを見られてしまいましたの。」

「誰にですか!?」

「果林ですわ。あの子、一瞬で何があったかを理解したようですよね。くすくす笑って、そのままどこかに行ってしまいましたわ。」

「それは何時頃のことですか?」

「『お話』が終わった後のことですから、十時過ぎ頃でしたわね。」

木場の頬を冷や汗が伝った。今の話が本当なら、公子と灰塚だけでなく、果林までもアリバイが成立してしまう。使用人を除けば、その時間にアリバイがないのは霧香だけだ。

「よう、刑事さん、さっきまでの勢いはどうした?霧香以外にも疑わしい人間がいるんじゃなかったのか?」

灰塚が挑発するように木場の顔を覗き込んできた。木場は唇を噛んだ。悔しいが、何も言い返すことが出来ない。

「おい木場!何をしてる!」

突然後ろからガマ警部の怒鳴り声が聞こえ、木場はびくりと肩を上げた。恐る恐る振り返ると、ガマ警部が仁王のような顔をしてずんずんとこちらに歩いてくるのが見えた。

「ったく、いつまでも娘の部屋から戻って来ないと思ったら、こんなところで油を売っていやがったのか。」

「油を売ってなんかいませんよ!自分はこの人達の密会現場を目撃しただけで!」木場が公子と灰塚の方を指差した。

「馬鹿野郎、そんなものはとっくに調べがついてる。使用人の連中に話を聞いたところ、皆あんた達の関係には気づいていた。かなりよろしくやっていたみたいだからな。」

ガマ警部がじろりと公子達の方を見やった。二人はどこ吹く風といった顔で視線を逸らした。

「なんだ、そうだったんですか…。」

「お前がいつまでも帰ってこないから、使用人どもの聞き込みもとっくに終わったぞ。奴らはおおむね三、四人程度でまとまって行動していたらしく、事件発生時刻には全員アリバイがあった。」

「え、そうなんですか!?」

木場の背中に冷や汗が伝うのを感じた。使用人までもアリバイがないとなると、もはや犯人は一人しかいないではないか。

「それで、本筋の方はどうした?あの娘から話を聞いてきたんだろう?」

ガマ警部が尋ねてきたが、木場はとっさに目を逸らした。今ここで霧香の話を明かせば、警部は即刻霧香を連行してしまうかもしれない。

「何だ?言えない理由でもあるのか?」

ガマ警部がずいと木場の方に顔を近づけてきた。木場はますます萎縮して視線を下げた。

「警部殿!こちらにいらっしゃいましたか!」

その時、突然ガマ警部の後ろから声が聞こえた。木場がその方に視線をやると、黒縁眼鏡をかけた警官が、前につんのめりそうになりながらこちらへ走ってくるのが見えた。年の頃は三十代半ば、冴えない顔立ちをした男で、ひょろひょろとした外見を安っぽいスーツで包んでいる。名前は確か淵川ふちがわと言った。黒縁眼鏡の淵川。実に覚えやすい。

「何だ、どうした?」ガマ警部が振り返って尋ねた。

「たった今現場の調査が終わりまして、そのご報告にあがった次第であります!」淵川がぴんと背筋を伸ばし、敬礼をしながら言った。

「ほう。何かめぼしいものはあったか?」

「はい!まずはっきりと言えることは、これが間違いなく殺人事件だということであります!」

その言葉に公子と灰塚が顔を引きつらせたのが見えた。辺りの空気に緊張感が走る。ガマ警部はポケットから煙草とライターを取り出すと、ゆっくりとそれに火をつけて言った。

「なるほど、それは興味深い。せっかくだ。関係者全員を集めて、この事件の全容をはっきりさせるとするか。」

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