人喰いの子

悠井すみれ

第1話

 たまに行き会う同類は、彼女の細い手足を見ると嗤う。そんな貧相な身体に化けては、獲物に後れを取るだろうに、と。それに対して、彼女は薄い胸を張って答えるのを常としていた。


「知らないの? 人間は子供には油断するんだよ」




 夜の森の中、木々を黒く浮かび上がらせる灯りがある。人間が、火を焚いているのだ。彼女は息を潜めて人影の数を数えその体格を推し量った。若い男と少し年のいった男のふたり連れ。剣や弓を使う者の身体ではない。近くのバザールを目指す商人か農民か。女がいた方がより良かったけれど、これなら多分大丈夫。

 彼女はわざと音を立てて──とはいえ相手からは足音を忍ばせていると思われる程度に──焚火の少し離れたあたりをうろついた。香辛料ザタールの匂いに口の中に唾が湧くのは呑み込んで。まずは、を確保しなければ。


「おい、何かいるんじゃないか」

「獣か? 薪をくべろ。火を大きくするんだ」


 火が大きく爆ぜて彼女の姿を一瞬照らす──男たちが驚きの声を上げたのを確かめて、彼女は闇の中へと再び消えた。これで、かかってくれるかどうか。


「人がいたぞ! 子供か……!?」

「止めとけ、人喰いかもしれん」

「でも、迷子だったら」


 若い男の声が焚火から離れたのを聞いて、彼女は心の中で快哉を叫んだ。力がある方を先に片付けた方が、安全だから。

 彼女に比べればはるかにお粗末に枯れ木や葉を踏む音を響かせて、若者が森の中で首を左右に振る。彼が掲げた──片手を塞いでくれているとはありがたい──松明の灯りに、彼女はわざと姿をさらす。若者の悲鳴が、寝ていた鳥を驚かせて飛び立たせた。


「子供、だよな……。親はどうした。どうしてこんなところで……」


 鳥の羽ばたきの音が夜の静寂しじまに消える中、若者は困惑の体で訪ねた。彼女の手足の細さや背の低さ、身体の薄さに肩の力が抜けたのが見て取れる。


「わ、分からない……はぐれて……」


 掠れる声で答えた瞬間、彼女の腹がきゅう、とか弱い音を立てた。これは演技ということもなく、彼女はおおむね常に空腹だった。そしてその情けない音によって、若者は彼女が人間だと信じてくれたらしい。


「そうか……大変だったな。来いよ。人里まで連れてってやる。飯もあるぞ」


 若者はあっさりと彼女に背を向けた。彼女が後ろ手に錆びた剣を引きずっているのに気づきもしないで。斬る役にはほとんど立たないけど、叩き殺すには十分なのに。

 でも、まだ早い。もうひとりいるのだから。焚火にもっと近づいてからだ。若者を昏倒させて、次の手でもうひとりに襲い掛かれる、そんな間合いに入らなければ。


「──本当に子供だったのか」

「ああ、可哀想に、すっかり汚れて。まずは食事を──っ」


 彼女は、若者に言い切ることをさせなかった。剣を振りかぶると同時に渾身の力で跳んで、後ろ頭を思い切り殴る。


「なんだ……!?」


 汁物の碗を片手に座っていたもうひとりの男は、反応が遅かった。焚火を気にして逃げる方向が限られていたのも不幸だった。立ち上がるかどうか迷う間に、その男も顔面の半分を赤く爆ぜさせた。

 男たちは、彼らが作っていた汁物の具になった。血と脳漿を溶かした汁を懸命に啜り、焚火にかざした骨から肉を齧り取りながら、彼女は拙い狩りの成功を祝った。無様なやり方ではあっても、彼女はこれよりほかに生きる術を知らなかった。


 母は、また違った生き方をしていたようだったが。彼女のもっとも古い記憶では、母とふたりで人間の城に住んでいたから。寝床は温かく居心地が良く、多くの人間に傅かれていたから。焚火に揺れる彼女の影、実際の彼女よりもはるかに大きく恐ろしげな怪物にも見えるそれの向こうに、彼女は色鮮やかなモザイク模様や緑したたる中庭の光景を朧に見た。あんなに美しく穏やかな場所をねぐらにすることができた母の手腕はきっと見事なものだったのだろう。彼女がその技を教えてもらうことはできなかったけれど。

 とてつもなく賢く手堅く見えた母のやり方も、それはそれでどこか拙いところがあったのだろう。ある夜、城は手に手に松明を掲げた兵士の群れに取り囲まれていたのだ。


「領主様を惑わした魔女め!」

「人喰い女を殺せ!」


 母が串刺しにされて燃やされるのを息を潜めて見つめながら、彼女は学んだのだ。人の暮らしに混ざるのは楽かもしれないけど危険が伴う。人間は、自分と違うものに容赦しない。正体が露見したら殺される。

 だから──狩りをするなら人が少ないところでこっそりと。誰にも見つからないよう、誰も逃さないように。そう決めて、そのやり方で、彼女は今日までどうにか生き延びている。




 戦場になった街、というのは彼女にとって良い狩場だった。崩れた城壁や折れた尖塔ミナレットは隠れ場所にも待ち伏せにもちょうど良い。気力を失くして蹲る人間は彼女が剣を振り上げても反応しないし、何なら狩るまでもなくそこら中に「食料」が落ちている。髪といわず肌といわず乾いた血をこびりつかせた姿でうろついていても、そう目立つこともない。


「ねえ、そこの──」


 食料を物色するのに夢中になっていたからだろうか。彼女は、声をかけられるまでその人間の女が近づいているのに気づかなかった。慌てて飛び退ろうとするけれど、その女は異常に素早く、彼女の傍に膝をつくと両手で頬を挟んで覗き込んできた。


「ああ、やっぱり女の子! こんなに汚れて可哀想に……」

「あの、止め──」


 女の手が彼女の髪を梳き、頬を拭う。幾層もの血に覆われて、汚れを清める役にはほとんど立っていないようだったけど。でも、女の触れ方は母のそれを思い出させて怖かった。布で覆われた長い髪も、柔らかい手も。心臓が痛みを伴って早く打つのは怖い時だ。少なくとも、彼女の人生ではほとんど常にそうだった。


「私の子も貴女くらい……だった、の。どこにいるのか……諦めた方が良いんでしょうけど」


 女が目を伏せて、手を彼女から離したのは好機のはずだった。石だの瓦礫だの何かの燃え滓だの、幾らでも落ちている。ちょっと屈んでそのどれかを拾って、女の頭に叩きつける。そうすれば、少しは洗練された狩りと言えるはず。なぜか動きが鈍い手足を叱咤して、彼女は屈もうとした。目に付いた石に、手を伸ばそうとした。でも──


「──ちょろい狩りのつもりが、変なのを引っ掛けちまったな?」


 その手は、女の──女だったはずの者の手に掴まれて止められた。不思議そうな、同時にどこか楽しそうな声を聞いたと思った瞬間、彼女の視界がぐるりと回る。足が宙に浮く。


「お前、いったい何なんだよ? ちょっと確かめさせろや」


 女だった者が、彼女の腕を掴んだまま軽やかに駆けて──翔けていた。足が地を蹴るのはほんのたまに、それだけでそいつは木の梢を軽々と飛び越えていく。

 そいつは、今や美しい男の姿になっていた。髪を覆っていた布切れは風にほどけ、遥か後方に消え去った。艶やかな黒髪をなびかせ、そいつはしなやかな手足で宙を駆ける。人の美醜は彼女には分からないけれど、生き物として美しい。雄々しい翼の大鷲よりも、気高く賢い狼よりも。恐らくは永い時を生き抜いた人喰いだ。息をするように自在に姿を変える力と知恵を身につける者が稀にいると、城にいた頃に物語で聞いた気がする。


 空と森と荒野が目まぐるしく入れ替わる視界に酔うことしばし──彼女の耳元で、水音が高く鳴った。全身を襲う冷たさと息苦しさ、鼻の奥のつんとした痛みに、川にでも投げ込まれたのだと知る。


「すげえ血だな。お前どれだけ殺したんだ? このちっこい身体でさあ」


 美しい人喰いは、げらげら笑いながら彼女を水中で振り回した。水の勢いでこびりついた血が落ちていくのが分かる。


「やめ──助けて……!」


 苦しい息の合間を縫って、顔が水面に出た隙を突いて彼女は懇願した。綺麗に洗われてしまうのは嫌だった。必死の思いで血を塗り重ねてきたのだ。屍の臭いを纏うように。人も獣も彼女を恐れ、人喰いのにも侮られないように。でも、洗い流されてしまったら──


「ああ……結構品のある顔をしてたんだな。もとはどっかのお姫様か? お嬢ちゃん?」


 やっと彼女を水から引き上げると、人喰いはしきりに咳き込む彼女の頬を両手で包み込んで覗き込んできた。子供を失くした女の姿をしていた時と同じ手つきだった。さほど力を入れられていないのを不思議に思いながら、彼女は辛うじて叫ぶ。


「にんげんじゃ、ない……!」

「随分血の臭いは染みついてるが、人間だろう」

「違う……」


 ごく冷静に指摘する人喰いが腹立たしくて、彼女は地団太を踏んで水滴をまき散らした。


「母様は、人喰いだって……だから、私も……!」


 芯まで水で冷えたはずなのに、なぜか目の奥が熱かった。邪魔な水滴は、なぜか拭っても拭っても彼女の視界を曇らせる。


 本当は、分かっていたのだ。


 たまに見かけた人喰いたちは、目の前の男ほど巧みではなくても獲物に合わせて姿を変えていた。止めを刺す時には鉤爪が生えて、武器に頼る者などいなかった。獲物は血が滴るのを喜んで喰らうものであって、彼女のように努力して飲み下すことなどはない。調理を必要とすることも、香辛料を芳しいと思うこともない。か弱い手足しか持たない彼女は、最初から人間に過ぎなかった。彼女がそうだということは、きっと母だって。


「なんでっ、母様はっ」


 母がどうして人喰いと呼ばれたのかは分からない。でも、人間は怖い。信じられない。人喰いと呼ばれるならその方が良い。そうでありたい。多分、彼女はそう考えていたのだろう。そうでなければ、母は無駄に殺されたことになる。


「さあ。人間はよく殺し合うからなあ」


 人喰いの男が首を捻る通り。彼らは食べるためだけに殺す。そう、はっきり分かるから。訳の分からない理由で同類を殺したりはしないから。


「私を喰べる?」


 目の前の男が狩りの最中だったことを思い出して、彼女は尋ねた。人間に過ぎない彼女にとっては、人喰いは人喰いで恐ろしい存在だった。吐き気がするほど血を浴びて、か弱い姿は擬態なのだとうそぶいてみても、正体を見抜かれはしないかと怖かった。同類の振りをする人間なんて、不快極まりない存在だろうから。


「喰うつもりだったが、どうするかな……こんな化け物は腹を壊しそうだ」

「化け物?」


 実際、人喰いの男は彼女の髪や肌の臭いをしきりに嗅いで検分しているようなのに。こんなに強くて綺麗な生き物に喰われるなら仕方ない、もう怖い思いをしなくて良いのだと安堵しているくらいなのに。


「人間の癖に人を殺して喰うのは化け物だろうよ」

「そう……かなあ」


 そうかもしれない、と思う。あるいは、そうだったら良いなあ、と。母を殺した人間と同じ生き物でないなら良い。この綺麗な人喰いと、同じ呼び名で括られることができたら良い。

 本当に久しぶりに、彼女の唇の端が持ち上がった。強張った笑顔らしきものが浮かんだ。化け物と呼ばれたことが嬉しかったのだ。捕らえた獲物が笑うのは珍しいのだろう、人喰いは彼女の顔をじろじろと眺めて呟いた。


「人喰いはつるまないもんだが……お前はまともな人喰いじゃないからなあ」

「喰べる?」

「喰べない」


 人喰いの男はにいと笑うと、いまだ水の滴る彼女の髪をぐしゃぐしゃにかき回した。


「決めた。お前を連れ歩く。──人間の子供を連れてれば、何かと楽になるからな」




 彼女が人喰いの男と狩りをするようになって随分経った。

 最初は父と娘、次には兄妹。たまには母と娘や姉妹にも化けての狩りは確かに楽だった。男はともかく、彼女にとっては人間の肉より人間の食べ物の方が腹持ちが良いことも分かって、彼女の背丈はかなり伸びたし身体にも肉がついた。ついでに髪も伸びたし、血をこびりつかせたままにはしなくなったから、艶やかさも増した。人を騙すには人間らしい格好をしろと人喰いは言って、まめに彼女を洗ったり髪を梳いたりしてくれる。隊商を襲っては、絹の服や金銀の飾りを見立ててくれる。


「うん、綺麗になったな。あんまり暴れるんじゃないぞ」


 甘い匂いのする油を彼女の髪に塗った人喰いは、そのひと房を口元に寄せながら言い聞かせた。人喰いはあまりしないことだけど、下味の類だろうか、と判じた彼女は首を傾げる。


「喰べる?」

「喰べない」


 人喰いとともに旅するようになってからの、お決まりのやり取りになっていた。だいぶ育ったと思うのに、彼女はまだ食べ甲斐のある身体ではないらしい。それは残念ではあるけれど、それでも人喰いはよく彼女の髪や指先や唇をむ。だから味が悪いわけではないのだろうと、彼女は自分に言い聞かせていた。


 彼女よりも人間の女の装いの知識がある人喰いは、言われた通りに服を着て髪を結んだ彼女を見て満足そうに頷いた。


「次の街での役割の確認だ。俺はお前の何だ?」

「『夫』」

「お前は俺の?」

「『妻』」


 そして問われて、彼女はお利口に答えた。獲物の前で言い間違えたりしないよう、すでに入念に練習させられたから。親子やきょうだいではなく、少し大きくなった彼女と人喰いはまた別の関係を装うのが都合が良いのだとか。人喰いが言うのだからきっと間違いないのだろう。人喰いと組んで狩りをする、彼女は今も化け物だった。

 彼女の覚えの良さを確かめて、人喰いはまた満足そうに頷き──独り言めいて、呟く。


「芝居じゃなくても良いんだが──」

「何?」

「いや、もう少し大人になってからだな」


 聞き返した彼女に首を振って笑うと、人喰いは手を差し出した。この男は大きくなった彼女を抱えても、馬より早く駆けられる。この手を取れば、どこまでも行ける。一緒に。


 それをよく知っているから、彼女は微笑んで人喰いの手を握り返した。

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人喰いの子 悠井すみれ @Veilchen

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