恋の合成反応

きさらぎみやび

恋の合成反応

 朝、研究室に来てまず私のやることは、合成実験室のドラフトチャンバーを確認すること。前夜から仕込んでいた合成装置をチェックし、合成反応が予測通りに進んでいるか確認する。


「うわー、またダメだ」


 フラスコ内を確認すると均一に反応が進んでいるはずの2つの試薬は完全に分離してしまっていた。


「橋本先輩、また合成上手くいかなかったんですか」


 隣のドラフトチャンバーを使っている学部4年の由紀ちゃんがこちらの合成装置を覗いてくる。彼女の合成反応は上手くいっているようで、見るからに均一な状態の試薬がフラスコ内で攪拌されている。


「プロシージャがいけないのかなぁ」


 はあ、とため息をつきながら温度調整器と撹拌器を止め、窒素フローのコックを閉じる。フラスコ内に導入されていた窒素が脱気されるのを待ってから、フラスコを慎重に取り外し、中身を回収する。

 一応、どこまで合成反応が進んだのかは後で分析しておこう。

 昨日せっかく準備したのに、また一からやり直しだ。


 合成装置を順番にばらしていき、フラスコを有機溶剤でじゃばじゃばと洗い流す。


「先輩のやってる合成系って、反応条件がシビアなんでしたっけ」

「どうやらそうみたい。先行文献も参考にしてやってみているんだけど、どうにも再現しなくって」


 ダメならダメで、「ダメだった」というのも一つの実験結果ではある。まったく意味がないというわけではないものの、やはりきちんと成功させたい。


「先輩最近なんか実験不調ですよね。厄払いにでもいったらいいんじゃないですか」

「由紀ちゃん、科学の学徒としてその発言はどうなの」


 修士1年として先輩ぶってみたものの、実験がうまくいっていない時点ですでに先輩の威厳はがた落ち。また週一の報告会で指導教官や博士課程の先輩に絞られそうだ。実験がうまくいっていないのは確かにそうで、自分でも作業の集中が落ちている自覚はある。

 それもこれも同じ研究室の修士1年、佐藤君のせいだ。


                *


 他の大学からうちの研究室に編入で入ってきた彼に初めて会ったのは修士1年に上がって最初の報告会。

 初めて見た瞬間、私は彼にひとめぼれしてしまったのだ。


 地元から出てきて都内の大学に入ってから、もっぱら授業と秋葉原通いで日々を過ごしていた私にとって、生身の男性にひとめぼれするのはたぶん生まれて初めての出来事だった。

 それからが困った。どうしてい良いか全くわからない。

 恋愛シミュレーションゲームなら選択肢がでるところなのに何も出ない。

 役者さんなら貢げばいいのにそれもできない。


 それでも日々は過ぎていく。

 研究室に所属している以上、研究を進めなければいけないのだけど、日々のちょっとしたことがここまで自分を動揺させるのにびっくりしてしまってる。実験のタイミングがたまたま合って隣同士でフラスコをカチャカチャ洗っているときなんて(夫婦みたいじゃない…!?)などと血迷った妄想をしてしまっている自分に気が付いて愕然とする。

 有機溶剤で食器を洗う夫婦なんているわけないじゃない。

 そう思って冷静になれ、と自分を抑えようとするものの、洗った実験道具を一緒に乾燥オーブンにしまう際にふと手が触れてしまった。その瞬間、脳が考えるより先に口から言葉が出てしまっていた。


「あの、付き合ってもらえませんか」

「…は?」


 やってしまった。完全にやってしまった。シミュレーションゲームなら絶対に選択肢が出ないところで思わず口走ってしまった。


「あ、あの、いえ、なんでもないです」


 と訂正するのが精いっぱいだった。顔はたぶん耳元まで真っ赤だったんじゃないかと思う。

 慌ててオーブンの扉を閉め、振り向かずに実験室を飛び出してからどうやって家まで帰ったかはあんまり覚えていない。


 それからというもの、報告会以外では必死になって顔を合わせないように立ちまわっている。幸い彼の実験は材料合成以外もあるので、合成実験室に立ち入ることはあんまりない。そのため今のところ直接二人きりで顔を合わせるタイミングは訪れていない。

 ただその日から明らかに私の実験の精度はおかしくなっていた。


               *


「どうしよう、美奈子」


 私は学内のカフェで友人の美奈子に泣きついていた。

 大学に入ってからできた友人で、研究室は別々になってしまったものの、ちょくちょく昼ご飯を一緒に食べたり買い物に付き合ってもらったりしている。


「うーん、やっちゃったねぇ」


 のほほんと美奈子が答える。


「完全に順番を間違えてるよね、それ」

「それは自分でもわかってる。でももう何が正しい順番なのか訳わかんなくなっちゃって」

「それは深刻だねぇ」


 言っている割には美奈子の表情は全然深刻そうではない。うーん、と頬杖をついて宙を眺めている。


「まあよくある話だけどさ、まずはお友達から、なんじゃない?」

「いまさらそんな風にできるかなあ」

「なんか共通の話題とかないの?」


 あらためて考えてみる。良く考えてみると彼のことを好きな割には、彼自身のことを全然知らない気がする。

 何が好きで、何が嫌いで、何が得意で、何が苦手なんだろう。

 彼の研究内容は報告会で聞いているから知っているけど、他のことは聞いてもいない。そんな私の様子を見て美奈子が言う。


「橋ちゃんはさ、たぶん憧れから入っちゃっているんだと思うんだよね。でもそれなら彼のことをもっと知ろうとしなくちゃ、彼にとっても失礼になっちゃうんじゃない?」

「…そう、なのかな」

「そうそう、少しずつでいいから、彼のことをもっと知っていかないと」

「うん、ありがとう」


 それからお互いの研究の進捗などをひとしきり愚痴った後、美奈子にお礼を言って別れてから研究室に戻ると、指導教官にばったりと鉢合わせた。


「橋本さん、ちょうどよかった。ちょっと実験のことで話があるんだけど」

「はい」

「最近、あんまりうまくいっていないみたいだね」

「…はい」


 思わずしゅんとうなだれてしまう。私の様子をみて慌てたように手を振って教官は続ける。


「いやいや、責めているわけじゃない。実験が上手くいかないことはよくあることだ。ただ君の報告を聞いていて気になったのが、収率が悪いからっていきなり多めにやろうとしていないかい?」


 言われてはっと気が付いた。確かに今私がやろうとしている合成は収率、つまり材料の回収率があまりよくない。

 材料の解析をしようとするとある程度量が必要になるため、私は先行文献より多めの量で合成を行っていた。


「慣れてくれば合成の勘所がわかるからボリュームアップするのはかまわないんだけど、最初のうちはまずきちんと合成反応ができているか、文献に従った量でやってみてからの方がいいのではと思ってね」

「わかりました。それで一度やってみます」


 決意を新たに合成実験室のドアを開けると、佐藤君がいた。


 どうやらまた材料合成の必要があるらしく、実験装置の温度調整待ちなのか、椅子に座ってスマホゲームをポチポチとやっている。

 歴代の英雄を呼び出して戦わせる、私もハマってやっているやつだ。


「あ、橋本さん。橋本さんもこれから合成実験?」


 彼がこちらに気づいて声をかけてくる。それだけで私の心拍数が上昇してしまうのがわかる。

 落ち着け、私。

 すう、と一息深呼吸をしてから、私は彼に話かける。


「うん、そうなの。ところで佐藤君もそのゲームやってるんだ。私もやってるんだよ。面白いよね、それ」




 恋も実験も手順をきちんと踏むことが大事なのかもしれない。

 大学院に進んで初めて自覚するのもそうとう間抜けな気がするけど、これからひとつずつ丁寧にやっていこうと思う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

恋の合成反応 きさらぎみやび @kisaragimiyabi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ