雪を溶く熱

長月そら葉

雪を溶く熱

 ――みふゆ、いつかみやこにいくの。

 ――みやこ? あんなとおいところにか。

 ――そう。それで、しらないことをしりにいくの。

 ――ふーん、じゃあ……。

 幼い頃の思い出だ。あの山頂の景色は、忘れない。

 少年は少女の夢を笑うことなく、こう言った。

 ――おれが、つれていってやる。


 北陸道の冬は寒い。

 人の背丈を超える雪は壁となってそびえ立ち、人々はいつ家が押しつぶされるかと話し合う。

 だからといって、それに打ち勝とうという者は少ない。なぜなら、雪は災いと共に幸いをも運んでくるからだ。

 大雪は、作物の成長を妨げる。それは飢餓を引き起こし、餓死者を出す。

 そんな雪も、日光に照らされて人の心を揺さぶる美しい景観を作り出すことがある。更に雪が解ければその豊富な水は、山に貯蔵され、少しずつ川となって解け出す。水は大地を潤し、生き物に恵みを与えてくれる。

 巨大な自然という存在に打ち勝とうという人の思いは、愚かでしかないのかもしれない。

「今夜の雪は、美しいわね」

 美冬は邸の中から雲に覆われた空を見上げ、呟いた。

 ここは、そんな地域の辺境に位置する村。

 この日も朝からしんしんと雪が降っていた。それも夕方には止んでいたのだが、寝る前になって再び空は、雪を落とす。

 もう寝なければ。美冬は踵を返した。明日は、見送りをしなければならない。

 二度と会えないかもしれない人を、遠い場所へ。


 十五年以上前、美冬が生まれる以前のことだ。

 中央政権は、百済くだらという国を救うために対外のいくさを行った。この村からも何人もの若者がかり出されたという。

 その戦において、この国は百済を救えなかった。

 目的を果たせずに終わり、中央は西海道の警備として、防人さきもりを置くことに決めた。

 防人は地方から男性を招集する。その旅路は過酷を極め、向こうに着くまでに命を落とす者もいるとか。

 行ってしまえば、三年間の任期中は帰れない。また、終わっても帰れるかどうかすら定かではない。

 だから人々は、今生の別れと思って送り出す。


「明日、秋人は行ってしまうんだ……」

 冷たい着物を握り締め、美冬は呟く。

 秋人は美冬の幼馴染だ。小さな頃は他の子どもたちと共に村の中のみならず、森や山を一緒に走り回った。秋人は、みんなの中心だった。いつも、引っ込み思案だった美冬を引っ張る明るい少年だった。

 けれど、いつしか頻繁に会うことは出来なくなった。

 美冬は官吏の娘で、秋人は公民。身分の差は、埋められなかった。

 それを寂しいと泣いていた日々は、いつの間にか失われた。大人になって、諦めたのだ。

 外からの冷気は遮断されているとはいえ、寒い。美冬は寝返りを繰り返していた。

 ようやく暖まり始めて眠気に誘われていた時だ。

 カタリ。何かが足元に落ちた。

「なに? 石……?」

 こんなもの、寝る前まではなかった。小さな石ころが、室内に転がっている。

「いったいどこから」

 美冬はかぶっていた着物を羽織り、外を覗いた。相変わらず雪は降っており、人のくるぶしまで埋まりそうな深さに達している。

 履物をはいて庭に降り、きょろきょろと見回す。すると「こっちだこっち」と懐かしい声が聞こえた。

「え……。秋人!?」

「声が大きい。久し振りだな、美冬」

「どうして……」

 絶句する美冬を前に、秋人はしてやったりの顔で笑った。

 彼がいるのは、邸を囲む塀の上。それだけでも驚きだが、まさか秋人が自ら来るなんて思いもしなかった。

 ここは官吏の邸。見つかれば、ただでは済むまい。

「明日、旅立つから。挨拶しとかねぇと、と思ってな」

「ええ、知ってるわよ。明日の朝、父上と一緒に見送るもの」

 着物の袷を握り、美冬は呟く。それが聞こえたのかどうなのか、秋人は「だから」と口を開いた。

「お前が見たがってた都の様子、見て来てやるよ」

「何、言ってるの? 秋人が行くのはそれよりもずっと先でしょう?」

「そうだけど、通り道だし。……帰って来たら、その話もしてやるから」

「軽いわね。帰れる保証なんて、どこにもないじゃない」

 震えそうになる声を必死に保ち、美冬は言い返す。そんな彼女に、秋人は「大丈夫」と微笑んだ。

「おれ、村に帰ってやらなきゃいけないことがあるから。必ず、なにがあっても帰って来る」

「なによ、その自信……」

 それに、やらなければいけないこととは何か。それを尋ねても、秋人は笑うばかりで教えてはくれない。

「だから、三年後を楽しみにしててくれ。きっと驚かせるからな!」

 また会おうぜ。そう締めくくると、秋人は美冬の制止も聞かずに去ってしまった。どさっと塀の向こう側に跳び下りた音がした。猿のように身軽な男だ。

「…………。もう、なんなのよ」

 そんな文句を言いつつも、美冬の表情は嬉しげだ。けれど、彼女自身は気付いていない。零れ落ちそうだった涙がもうないことに、気付いていない。

 美冬はそのまま寝入って朝を迎えた。


 翌朝。美冬は父親や村人たちと共に、村の境に来ていた。そこで、防人として旅立つ男たちを見送るのだ。秋人たち、防人はまだ来ていない。

「美冬、お前実は悔しいのではないか?」

「悔しい? 何故ですか?」

 背の高い父に尋ねられ、美冬は首を傾げた。

「何故って、昔からお前は言っていたではないか。都をこの目で見てみたいと。防人に発つ彼らは、途中で都を目にすることも出来よう」

「そうですね」

 美冬は一呼吸置き、ですが、と続けた。

「約束しましたから」

「……そうか」

 何かを知っているのだろう。美冬の父は、それ以上何も言わなかった。

「おおっ、来たぞ!」

 集まっていた村人の誰かが叫ぶ。その声を受けて見れば、旅支度をした男たちがこちらへやって来るところだった。

 その中に秋人の姿を見つけ、美冬は思わず――その場を走り去った。

「おい、美冬!?」

 父上の驚きの声が遠ざかる。きっと皆、目を丸くしていることだろう。それがわかっていても、美冬は止まれなかった。


 胸の奥が痛い。今にも何かが千切れてしまいそうなほど、痛い。息が切れる。のどが休息と水を欲している。それでも、立ち止まっている時間はない。肩が激しく上下する。数回荒い息を整えた後、美冬はすぐに足を動かした。

 目の前にあるのは、雪で全身を化粧した小さな山。小さな頃、友だちと走り回った懐かしい地。

 美冬はごくんとのどを鳴らすと、山頂へ向かって山道を登り始めた。


 山頂へは、子どもの足でもそれほど時間はかからない。

 しかし春を前にした冬のこの時期、本来ならば一人で山に登るなど、出来るわけがない。何故なら、雪で埋もれてしまうから。一歩踏み出せば動けなくなり、きっと冷たくなってしまうだろう。

 けれど、道をたどれば行ける。美冬たちの村では、この山には土地の神が宿ると信じられてきた。その神に祈りを捧げるやしろが山頂にある。

 その社へは、一日も欠かさず、毎朝決まった人物が朝一番の湧き水を捧げに行く。そのための道が整えられているのだ。毎朝毎朝、山に登る度に雪はけられる。道の両側には大人の背丈を越える雪の壁が出来るが、それが崩れるのさえ気を付けていれば、冬であろうと子どもが神に会いに行くことが可能なのだ。

「父上は、呆れてる、でしょうね」

 走り出した時、父は目を見張っていた。あんな父の姿を見たのは初めてだ。始終冷静な父の意外な面を引き出してしまったかもしれない。

(わたしも、自分がこんなに身勝手だとは思わなかったわ)

 他の防人となった男性たちだけなら、ただ寂しさを思うだけ、彼らの無事を祈るだけでよかった。でも、防人の中で最も年下で、大切な彼を目の前で見送ることは出来なかった。したくなかった。

 無理矢理笑ってくれる彼の、その笑顔を見たくなかった。

 その笑顔を見るのは、本当の笑顔を見るのは、今じゃない。

 自嘲する。こんな勝手なわたしは、わたしらしくない。役目を放棄して、父には申し訳ない。帰ったら謝らなくては。

 美冬は時折浅く積もった雪や雪に隠された木の根に足を取られながらも、頂きへとたどり着いた。

「ここからなら、街道がよく見えるから」

 運よく、村から出た一団が山のすぐ下を通り過ぎて行く。その中に、秋人の姿もあった。

 きっと驚いたでしょうね、と美冬は思う。見送ると言ったのに、その場にいなかったのだから。それに対しては、謝らなければならない。

 けれど、それはあなたが約束を果たす時まで、取っておく。

「だから、必ず帰って来て。……秋人」

 いつしか集団は遠くに去って行く。けれどその姿は、霞んでしまってよく見えない。

「約束だから。必ず帰って、わたしを都に連れて行って……」

 大粒の涙は、雪の結晶のように輝く。

 美冬は唇をかみしめ、秋人が行く道の先を見つめていた。

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