愛と嘘の行きつく先は

さかな

本文

 ざあざあと降りしきる雨の中、一人の女が歩いていた。濡れそぼる髪と服を気にすることもなく、女はただ歩き続ける。雨が降る夜は殊に視界が悪く、闇に溶ける黒い服を纏った彼女の姿を見とがめる者はひとりもいない。

(雨の夜は良い。すべてを洗い流してくれる)

 女は雨の降る夜が好きだった。人を殺した痕跡も、返り血も。全部雨に洗い流されて、消えていく。だから、殺しは雨の日の夜にしかしないと決めていた。

 ――彼女の呼び名を「血濡れの雨ブラッディ レイン」という。殺した数は数百と知れず、失敗は一度もしたことがないと噂される、凄腕の殺し屋だった。



「……ライ! いつまで寝てるの? 私もう家出るからねー!!」


 ばたばた、ごとんと何かが落ちる派手な音に、ライは顔をしかめて目を開けた。いつの間にかなくなっている隣のぬくもりに、もうそんな時間かと起き上がる。片目で入り口のほうを見やれば、短い黒髪に大きな眼鏡をかけた一人の女が慌ただしく何かを拾い集めていた。先ほどのけたたましい音は、肩から掛けた大きなカバンを何かに引っ掛けて倒してしまった音らしい。うるさい、と文句を言いながらもそもそと布団から抜け出したライに、女はにこにことテーブルの上の朝食を指さした。


「よかった、ご飯作ったから食べてね。あなたほっとくと何も食べないんだから」

「……別にそんなお腹すかないし。アイが食べすぎなだけだろ」

「そんなことないよ?! 三食きっちりご飯を食べるのは健康に過ごす第一の秘訣です!!」


 あなたはガリガリなんだからもっとたくさん食べてお肉をつけないと、と力説するアイを無視して、ライはテーブルに着いた。お皿の上にはカリカリに焼いたベーコン、目玉焼きの乗ったパン、瑞々しい野菜のミニサラダが用意されている。何の変哲もない朝食だが、アイの作ったご飯はいつもおいしい。一人で暮らしていた時は適当な食事を飢えない程度に口にするだけだったのに、今は養鶏場の鳥よろしくせっせと食べさせられている。

 これ以上太らないように気を付けないと、と決意を固めつつ、ライはパンを口に運んだ。カリカリにトーストされたパンからじゅわっとバターが染み出す。上に乗った目玉焼きにかじりつくと、半熟の黄身がとろりと流れ出した。こんがり焼かれたベーコンに滴り落ちた黄身をからめて食べながら、サラダの上のミニトマトをつまむ。野菜なんて嫌いなものの筆頭だったはずなのに、アイの手にかかれば甘くおいしい食べ物に変身するのだから不思議だ。


「……アイ、遅刻するよ」

「いっけない! 今日は二つも取材が入ってるのに!! じゃあね、ライ。行ってきまーす!!」


 なにくれとなくライの世話を焼くアイに時間を告げると、彼女は真っ蒼になって慌てて飛び出していった。彼女の職業は新聞記者だ。イギリスの大都市マンチェスターで二番目に大きな新聞社に勤めており、昼夜問わずスクープを追いかけて記事を書く。今はどこかのグループの不正取引を追いかけているだとか、政治家の闇金がどうだとか、そういうことを前に彼女が話していた記憶がある。ライにとっては全く興味のない話だったのであまり覚えていないが、彼女にとってはそれが生きがいの職業らしい。

 全てきれいにご飯を食べ終えてシンクに皿を下げた後、ライは窓の外に広がるどんよりとした雲を見上げた。窓を開け放つと、湿った風が鼻腔をくすぐる。つけっぱなしのラジオからは、今夜は雨になるでしょうという予報が流れていた。


「……今夜も仕事だな」


 ぽつりとそう呟いて、黒い服に袖を通す。それはライの仕事着だ。雨が降った時だけ、ライは仕事に出かける。それは彼女が仕事を始めた時からの、たった一つの決め事だった。



 降りやまない雨にひとしきり打たれたライが音を立てないようにそっと家に戻ると、部屋の奥にはまだ明かりがついていた。しまったもう寝たかと思ったのに、と回れ右して出ていこうとしたライに、ばさりとタオルが投げられる。タオル越しにそっと振り返ると、目の下に隈を浮かべたアイが立っていた。


「早くふかないと風邪を引くよ、ライ」

「……うん」

「お湯を沸かしてあるから、そのまま入って温まっておいで」


 ずぶ濡れの理由を決して聞こうとしないアイはとても優しい。豪雨の夜、うっかり空腹で道端に行き倒れていたライを拾ってくれた時から、彼女はずっと何も聞かずにかいがいしく世話をしてくれている。行く当てがないならうちに来ればいい、と手を引いて、温かいご飯を食べさせてくれて。ベッドは一つしかないので、布団の中でぬくもりを分け合って夜眠る。彼女と暮らし始めてから、ライは初めて経験することばかりだった。


「私はもうちょっと起きてるから、上がってきたら声かけてね」


 それじゃあ、と踵を返して部屋に戻るアイを見送ってから、ライは言われたとおり素直にお風呂へと向かった。ほこほこと湯気を立てるお湯に顎まで使って、芯まで冷え切った体を温める。心地よさに身をゆだねていると、そのうち眠気が襲ってきた。のぼせないよう早めに切り上げて、お湯から上がる。お湯の温かさも、優しさも。ずっとそこに浸かっていたくなるけれど、過ぎればその身には毒となる。ほどほどに身を引かなければそこから抜け出せなくなってしまうから、気をつけなさい。師匠に昔言われた言葉を今一度よく自分に言い聞かせて、ライはアイの待つ部屋へと向かったのだった。



「――ライ、雨の日に現れる殺し屋の話を知ってる?」


 ずぶぬれで帰宅したところをアイに見つかった夜から数日後。何気なく雑談に織り込まれたその言葉に、ライの表情が凍り付いた。なんとか息の仕方を思い出して平然を装いながら、いきなりどうしたんだ、と聞き返す。彼女は机にかじりついて顔を上げないまま、ただそっけなく今追っている案件なのよ、と答えた。


「ライはよく、雨の日に出かけているでしょう。だから、何か見たことないかなあと思って」

「……そんな女は知らんな。見たこともない」


 ライはそれだけ言うのが精いっぱいだった。幸い、彼女は一度も机から顔を上げることはなく、ライの表情を見られることはなかった。眠くなったから先に寝る、とアイに告げて布団に潜り込み、ライはきゅうと手足を縮めて丸くなった。

(――そろそろ、潮時だな)

 いつかはここから出ていかなければならない、と思っていたのだ。それが少し早まっただけだった。物心ついた時から、ライはたった一人で生きていた。数年間、生きるすべを叩き込んでくれた師匠と暮らしたこともあったけれど、ライの殺しの才能を恐れた彼女に命を狙われ、返り討ちにしてからはもうだれも信用しないと決めた。だから、ここから出ていくことに何の未練もない。

 ほんのすこしだけ、アイの作ったご飯が食べられなくなるのだけは残念だったけれど。それには気づかないふりをして、ライはぎゅっと目を閉じた。明日ここを出ていこう。かすかに響くカリカリと書き物をする音に耳を傾けながら、ライはそう心に決めたのだった。



 今日も降り続く雨に打たれて、ライは街中を歩いていた。今日はちょっとしんどかったな、と心の内で呟いて、心地よく体を打つ雨に目を細める。殺しの標的と、その護衛。五人分の返り血でぐっしょりと濡れた黒服は、雨に濡れて紅い雫を滴らせていた。

 できるだけ人目に着かないような裏路地を選んで、街中をさまよう。髪に染み付いた血の匂いも、服にしみ込んだ血の色も、全て洗い流されるまで歩き続けるのが、ライの習慣だった。殺しの痕跡を持ち帰れば、後々面倒なことになる。だから、ライは雨の日しか仕事をしない。今日はちょっと落ちにくい日だなあ、もうちょっと遠回りして帰らないと、と考え事をしていた時だった。ふとどこかからか視線を感じて、顔を上げる。暗い路地のその先の大通り。小さな人影が、ライのほうをじっと見ていた。手に握っていたナイフがカラン、と音を立てて落ちる。遠くて彼女の表情は見えないけれど、それはライがよくよく知る人だった。


「――アイ……」


 今追っている案件なの、というアイの声が脳裏に蘇る。そうだ、彼女はそう言っていた。つまりは、自分を待ち伏せしていたのだ。「雨の日だけ現れる殺し屋」の正体を掴むために。

 いつかこういう日が来るのではないかと恐れていた。優しい彼女が、自分の正体を知ってしまう日を。そうして――自分が、彼女の口を封じなければならない日が来てしまうのを。

 ライが彼女に気づいたことを、彼女も悟ったのだろう。アイはほんの一瞬だけライを見て、その後振り向いて走り出す。足元に転がったナイフを拾い上げ、ライはその背をすぐに追いかけた。小柄な彼女はあまり足が速くない。すぐにライは追いついた。逃げきれないことを悟ったのか、アイは肩で大きく息をしながら立ち止まった。


「ライ、ひさしぶり。元気にしてた?」

「……アイ、どうして……」


 分かれた時から何も変わらない優しい笑顔を向けられて、ライは困惑したように眉根を寄せた。なぜ彼女はすべてを分かったうえで、変わらぬ言葉をかけてくれるのだろう。その戸惑いを感じ取ったのか、アイはそっと微笑んで言葉をつづけた。


「……わたしね、全部わかってたんだよ。どうしてライが雨の夜にだけ出ていくのか。なんでずぶぬれになって帰ってくるのか。知ってて、知らないふりをしてたんだ」


 ライのことが好きだったから。いなくなってほしくなくて、ずっと知らないふりしてた。そう言ってうつむくアイを、ライはおびえた目で見つめていた。すべてを知られていたなんて気づかなかった。それならもっと早く、手を打たなければならなかったのに。


「……知らないふりをしてたなら、どうして試すようなことを言ったんだ」


 ライが家を出ていくことを決意した夜。そのきっかけは、アイのあの一言だった。あれがなければ、今もライはアイの家で暮らしていたかもしれないのに、どうしてわざわざライに気づかれるようなことを言ったのだろうか。


「わたしに打ち明けてくれるかと思ったんだ。ライの仕事。わたしなら、あなたのすべてを受け入れてあげられる。そう思ってたけど……ごめんね、あなたはそうじゃなかった。だからわたしのもとから逃げ出したんだよね」


 念押しするようなその言葉に、ライはただこくりと微かに頷くことしかできなかった。早く、彼女の口をふさがなければ。そう思うのに、ナイフを握る手が動かない。まるでこの場に縫い留められてしまったように、一歩も踏み出せなかった。


「あなたがいなくなってから、すごく後悔したの。どうしてあんなことをいってしまったんだろう、って。知らないふりをしていれば、あのままずっとあなたと暮らせたのに」


 悲しげな顔をして、アイは一歩踏み出した。ねえ私のことを殺しに来たんでしょう、と言われて、ライはまた一つ頷く。殺し屋の正体を知った者は、決して生かしておくことはできない。例外を作れば、それはすなわち致命的な未来を招くことになる。そこまで知っていて、アイはどうしてライを追いかけたのか。ライにはさっぱり理解ができなかった。


「殺されてもいいから、最後にもう一度だけ会いたかったの。あなたに謝るために」

「謝る……? いったい何を謝る必要があるんだ」

「怖がらせてごめんね、って。ずっと一緒に暮らしてあげられなくてごめんねって、そういいに来たの。わたしが余計なことを言ったせいで、あなたはあの家を出なければならなくなってしまったから」


 ――わからない。アイのことが、わからない。なぜ今から殺される女に、謝るのか。

 そっと頬を優しくなでられ、それからライは抱きしめられた。ベッドで毎晩すぐ近くにあった温もりと匂いがライを包む。どうしたらいいかわからなくて、ライはただナイフを握りしめたまま突っ立っていた。今すぐ逃げたい。このわからない感情を胸から消し去りたい。どうすれば、この嵐のような感情に支配されずに済むのだろうか。


「ライ、わたしを殺して。そうすれば全部、楽になるよ……?」


 ふう、と耳元でささやかれた言葉に操られるかのように、ライはナイフを握る手を振り上げた。体を抱きしめるアイを引きはがして、刃を一閃させる。びしゃり、と体にかかる鮮血は生暖かくて、ひどく不快な臭いがした。


「――だいすき」


 耳にこびりつく甘い言葉を振り払うように、ライは雨の中を駆けだした。頬を伝う雨粒がひどく冷たい。雨の強さが足りないと呟いて、ライは真っ暗な空を見上げる。血の色も、彼女の匂いも、記憶も。降りしきる雨がすべてを洗い流してくれますようにと、祈りを込めて。

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