妻と記憶は五メートル先で待っている
夏野けい/笹原千波
Memory in the Room
「ここが僕の家だね?」
「はい。なかで奥様がお待ちです。鍵は上着の内ポケットに」
「ありがとう」
呼吸を整えて鍵を差し込む。僕が八年住んでいる部屋だというが、覚えてなどいない。二十五歳で止まった記憶は三十五歳の自分の顔さえ他人に見せる。
僕が生身の人間として理解できるのは十時間前まで、そこから飛んで十年前。残業でもあった日には、出勤したときのことさえ忘れてしまう。まさに今のことだ。
働けているのは外部記憶装置のおかげだった。僕自身の記憶として実感できるものではないが、昨日の仕事を引き継いで生活を成り立たせる意味では優秀すぎるくらいだ。職場までの道順を示し、しなければならない業務を教えてくれる。記録した視覚と聴覚を整理してデータ化までしてくれるらしい。
これを作ったのは妻だという。いったいどんな優しい人間が、僕を支えているというのだろう。
玄関をひらくと、上がりかまちのすぐ前にドアがあった。距離は一メートルほどしかない。ホワイトボードに清潔な楷書体でメッセージが書いてある。見覚えのある字だ。誰だっけ。
『おかえりなさい。まずは記憶装置を外して、メンテナンスボックスに入れてください。接続のしかたは中に図があります』
指示された通りに背負った装置を下ろし、図の通りにコードを繋いで蓋を閉める。
ドアを抜けると、今度は引き戸があった。廊下の距離はまた一メートルしかない。同じホワイトボードと同じ字が新たな注文をつける。
『重かったでしょう、お疲れさま。部屋着をどうぞ。脱いだスーツは横のクローゼットに入れてくださいね。ブラッシングは自動で出来ますから』
ハイテクな家だ。さすがは外部記憶装置の作成者というべきか。
さらに一メートル先にはアコーディオンカーテンがある。洗濯バサミで止められたホワイトボードには猫のイラストが添えられている。
『手をよく洗ってくださいね。風邪は大敵ですよ』
脇を見ると水回りを集めた部屋があって、磨き上げられた白い陶器の洗面台が待っていた。ハンドソープを出して念入りに洗う。うがいもした。妻はきれい好きらしい。
次の一メートルの向こうは、ゴブラン織りのカーテンだった。ホワイトボードは尽きたのか、厚紙にマジックで文字が綴られている。
『記憶に繋ぐのに時間がかかるので、水分補給をしておいてください。糖分が欲しければ飴があります』
ウォーターサーバーとグラス、飴の入った小瓶が用意されている。喉を潤してカーテンを開けた。
想像よりも狭い部屋だった。壁はすべてコンピュータらしきもので埋め立てられ、冷房とファンが全力で稼働していた。
一メートル先に座っている、ノートパソコンから顔を上げた女性を僕は知っている。十年ぶん歳はとったけれどちゃんとわかる。
「……僕の奥さんって、
「意外?」
答えられなかった。付きあっていたわけでもないし、とりたてて仲がよかったとも思わない。大学院の同期だった。修士でやめた僕と違って研究一筋でも引く手あまたの天才。
「意外よね。何度も言われたから知ってる」
島津さんは手招きをする。
「おいで。思い出させてあげる」
僕の頸部にはポートがある。彼女の腕が僕を抱き寄せ、太いコードを僕に差した。
部屋に記録された膨大な過去が僕に流れ込む。
僕は彼女を
手を繋いで眠った。不安で目がさえてしまう夜には静かな言葉で慰めてくれた。朝が来るのが怖かった。部屋から切りはなされれば、僕は二十五までの記憶しか持たない男だ。帰ってくるまで妻を覚えていられたら上出来。そんな程度の記銘力しか。
出勤の前に、唯香は僕にキスをする。無事に帰ってきてと泣く。出来れば働いてほしくはないけれど、あなたを飼い殺しにする権利はないからって僕を送り出す。
部屋が覚えているのは五年ほどの出来事のようだった。だから彼女がどうして僕にここまでしてくれるのか、いつ結婚したのかはわからずじまいだ。気づけば熱っぽい愛情が僕に注がれていた。
身体がすでに彼女を覚えているみたいだった。彼女を愛することはきわめて自然に思われた。
生身の記憶にも機械の記憶にもないあいだ、僕は彼女に何をしたんだ。何が彼女にここまでの行動をさせたんだ。お金も時間も湯水のように溶かして。
記憶の奔流が止んだ。僕は、連続した僕として唯香を抱きしめる。
「ただいま。待っていてくれてありがとう」
妻と記憶は五メートル先で待っている 夏野けい/笹原千波 @ginkgoBiloba
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