最終話 約束


 ちゃぷん、ちゃぷんと、水になったみたいだった。


 光も音もないし、体の感覚もない。

 時間も、どうなったかも、何も分からない。

 きっと瓶に詰められた水はこんな気分だろうな、と思った。

 為す術もないこの無感覚は、少しあの嫌なテストに似ている。けれど騒ぐだけの気力もなくて。

 ぼんやり薄らいで、そのうち全部無くなるんだろう。もうそれで構わなかった。

 ただ。エマはどうなったろう。

 唯一、エマのことが気掛かりで。

 微かに残ったその感情が僕の本体だ。

 エマのことを思うと、ぽこぽこと泡のように気持ちが浮かんでくる。


 クローゼットの皇女様に驚いて。


 綺麗だなぁと思って。


 殿下の素っ頓狂な行動に焦って。


 一緒に過ごして笑って。


 生意気な物言いにイライラして。


 微笑みに励まされて。


 エマにどきどきした。


 ひとつひとつは小さくてすぐに弾けて消えていくけれど、次から次へと生まれてきて絶えることがない。

 弾けるたびにくすぐったく感じて、なかなか悪い気分じゃない。


 僕はちゃんとエマを救えたんだろうか。


 それだけでも分かればいいのに。

 やっぱり知る術はなかった。

 仕方ないかと諦めて。

 思い出と微睡むように漂って。

 静かに溶けようとしていたとき。


 アオイ


 って、皇女様の呼ぶ声がした。

 僕の意識が、くわっと目覚める。

 皇女様だ。

 エマが僕を呼んだ。

 絶対呼んだ。

 なんでかなんだか分からないけれど、とにかくエマに呼ばれている。

 エマだ。エマだ。エマだ。

 嬉しくなって、じゃぶじゃぶ気持ちが波立った。

 エマ! エマ! エマ!

 一生懸命エマに応えた。声にはならないし、彼女には聞こえるはずもない。それでも叫ばずにはいられなくて。それぐらい嬉しかった。

 僕はもう一度エマに会いたい。

 せめて一目見たい。

 その思いが力になって湧いて。ますます意識がはっきり醒めてくる。

 思い出した。

 僕は、水じゃなくて人間だ。

 思い出してみれば思い出すまでもなく当たり前過ぎる事実。なんだ、ちゃぷちゃぷて。じゃぶじゃぶとかしてる場合か。

 エマが僕を呼んでるんだから、まだ消えてない僕はなんとしてでも会いにいかないといけない。

 気力の限りを使って、頭が持ってる記憶を手繰り寄せる。

 なにがどうなってるのか。僕の記憶がぶっつり途切れてからのことも、頭のやつは知っているはずだ。

 そうして見つけた頭の記憶はめちゃめちゃ不機嫌だった。自分で慄くほどに不機嫌だ。

 別になにか失敗したわけじゃない。というか、状況はこの上なく良好と言っていいと思う。

 ちゃんと巣は見つけたし、潰す算段も立って軍で殲滅作戦が発動している。頭のやつは仕事はきっちりやり遂げていた。

 なにが不機嫌かというと、殲滅作戦の出撃のためにチグリスをメンテナンスするからと無理矢理降ろされたから、らしい。

 いい加減にしろよ、お前。

 ともかく今の僕はチグリスじゃない。ということは、体のやつもいる……いや、あるはずなのだ。

 手繰った感覚の先、どうやら体のやつは惰眠を貪ってるらしかった。

 どいつもこいつも! 僕が見張ってないと、このていたらくだ。

 まあ、仕方なかった。気持ちを上げて、やる気にさせるのが僕の仕事である。気持ちがなければ奴らは何もしやしない。

 起きろ。働け。エマが呼んだぞ。エマがいるんだ。エマに会えるぞ。

 エマに釣られてようやくに体と頭が動き出す。それは全然思うようにいかない、不格好なザマだったけど。でもそれぞれが精一杯、皇女様に会おうと足掻く。

 五感を働かせ、認知を総動員し。そうして僕らはとうとうエマを見つけた。

 目の前に、エマがいる。すぐ近くで、大きな瞳を涙でキラキラ光らせ、懸命に僕の顔を覗き込んでいる可愛い女の子。僕らはエマに見惚れた。

「アオイっ」

 エマに名前を呼ばれて僕はますます嬉しくなる。

「アオイの馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!」

 僕は嬉しいんだけれど、エマは怒ってるみたいだった。胸ぐらを掴んで思いっきり額をぶつけてくる。おでことおでこがぶつかって、鈍い衝撃が走った。頭をくっつけたまま、エマは「馬鹿」と繰り返す。

「アオイの、馬鹿! なんで、一緒にいてくれるって、言ったのに、なんで!」

 エマが泣いている。なんとか右手を持ち上げて、僕はエマの頭に優しく触れる。

「エマ」

 声もちゃんと出たと思う。顔を上げたエマが濡れた目で僕を見つめた。

「アオイ。気付いて、良かった」

 ここは医務室かどこかだろうか、と思う。周囲をうまく認識できないのだが、たぶん僕は寝かされている。壊れた僕は端からどう見えるのだろうか。気を失っているようにでも見えるなら、それは心配させてしまっただろう。

「大丈夫だよ」

 だから僕はそう言った。たとえ人間としては壊れても、チグリスになったらちゃんと動くから。

 エマの顔は安堵するどころか、ますます潰れてどうしようもなく可愛い不細工になった。

「アオイのおたんこなす。なんでこんな無茶をしたのだ。馬鹿者。もう、もう駄目かと思った」

「ごめん」

 このままずっとエマを見つめていたいと思うけど、後どれだけこの状態が持ってエマと話していられるか、分からない。意識が持ったとしても、メンテナンスが終わり次第チグリスに戻されるであろう僕に時間はあまりなかった。

「エマ」

 話すことに意識を向けたせいでエマに触れていた右手がぽとりと落ちる。それがちょっと悔しい。

「聞いて、エマ。僕はもうじき出撃する」

 頭が記憶している通りなら、この殲滅作戦へ軍は全戦力を動員するつもりで、それだけ大きな動きにエマも気づいていないはずはない。

「駄目だ、アオイ。そんな状態でギアローダーに乗って出ていくなんて、そんなの無理だ」

 チグリスは絶対に出撃しなくてはならない。衛星から敵の動きを視られるのも、遠い交戦予定地点で通信基地になれるのもチグリスだけで、それが前提の作戦だった。

チグリスが行って、敵の巣を全部潰して、それで全部残らずスカイデーモンを殺してくる」

 エマは驚いて目を瞠る。

「スカイデーモンがいなくなったら、そうしたらエマが皇女をやる必要はもうなくなるから」

 大きく大きく、僕を見つめるエマの瞳が揺れた。

「逃げて、エマ。すぐに基地から逃げ出して、エマ」

 基地を動かせるエマだ、逃げ出すだけなら造作もないはずだった。

 しかし、エマは震えるように首を横に振った。

「そんな、アオイ、無茶だ」

「無茶じゃないよ。できるよ。エマは自由になるんだ」

 違う、とエマが短く叫んだ。

「そんなの無茶だ。そんな戦いなんかしたら、アオイが、アオイが死んじゃう」

 ぎゅうと襟ぐりを掴まれて、僕はとても困る。

「……大丈夫だよ」

「大丈夫じゃない! 自分が、どれだけ無茶を言っているのか、分かっているのか、お前は」

 ぎゅう、ぎゅうと皇女様は僕を絞め上げる。

「そんな無茶、しなくていいから。ただ、一緒にいてくれれば、それでいいから」

「ごめん」

 エマはいっぱい僕の心配をしてくれていた。その気持ちは痛いほど嬉しい。けど、僕にはそう答えるしかなかった。

「一緒にいられなくて、ごめん。こんなことしか、できなくてごめん」

 謝るたびにエマの手から力が抜け、彼女の顔は下を向いていく。

「こんなことしかできないけど。でも、敵がいなくなるまで絶対に頑張って、きっとエマを自由にするって」

 約束するから――その一言にエマの肩はぴくりと動いた。

「約束?」

「うん。僕が約束を果たせるように、力を分けて、エマ」

 僕のお願いにエマは俯いたまま震える。ただ僕は彼女が頷いてくれるのを期待して、ただひたすら待つ。約束、と小さく呟いてエマが顔をあげる。

 僕の顔をまっすぐ見つめたエマは美しく微笑んでいた。僕も口元を緩めて、微笑み返す。

「分かった、アオイ。約束、してくれ」

「うん」

「敵も脅威も全て一掃して、私を自由にしてくれ」

「うん」

「それで、ちゃんと生きて帰って、私のところへ戻ってこい」

「うん。……うん?」

 増えた。約束が、皇女様に増やされた。

「そのぐらい約束できるであろうが」

「いや、でも、それ、結構大変なので」

 必ずしもお約束することはできません、という言葉はエマの力強い断言に遮られた。

「大丈夫だ。お前ならできる!」

「できる、かな」

「できる。それに、スカイデーモンがいなくなるのであろう。それならば、もうギアローダーに乗らなくてよくなるのだぞ」

「え、うん」

「そうすれば、もうお前も壊れる心配はない!」

 皇女様は眩しい笑顔で言った。

「ずっと一緒にいられる」

 ああ。それはとてもいい。

 僕は皇女殿下を助けてあげたいけれど、エマは僕を救ってくれるのだろう。

「エマが呼んでくれれば、僕は戻ってこられると思うから」

 皇女も英雄も全部終わらせて、そうしてずっと一緒にいよう。

 これが、皇女殿下と僕の約束。  〈了〉







【ここまでお付き合いくださり ありがとうございました。皆様の応援に心より感謝いたします。 たかぱし】

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皇女殿下と僕の約束。 たかぱし かげる @takapashied

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