マスターの行方

気が付くと、板張りのベンチシートの上で寝ており朝だった。

背中が痛い。

上体を起こし、腕を思い切り伸ばし同時にあくびをした。


同時に、わたしに背を向けて、カウンターのスツールで未だ呑んでいる、

深雪と蝦子(えびこ)さんが一斉に振り向き「おはよう」満面の笑みで迎えてくれる。

「まだ飲んでたんですか。」

苦笑いで返す。

「当たり前じゃない、深雪の30歳を祝わなくてどうするの?君は裏切り者ね。」

蝦子さんがシニカルな笑みを向けてくる。

「だって車で来たんだから飲めないでしょう。」

正論で返すしかなかった。

それに、誕生日会に出くわしたのは本当の偶然だったのだから。

終電前に二人消え、その後さらに一人消え、蝦子さんだけが残ったかたち。

事前に知っていても、5人の女子会に一人で潜入する勇気はないが。


5人全員、勤めるチェーンの喫茶店で、昔は同じ店舗で

働いていたらしいが、それぞれが別の店舗へ転勤になって以降も、

よく飲み歩いているらしかった。

特に年の近い、深雪と蝦子さんは仲が良いらしい。

年は蝦子さんの方が2つ上だったが、圧倒的に整った美人顔で、それと比べると

深雪は、愛嬌のある幼顔、二人とも28歳の同級生と言われても何の違和感もない。


わたしはその日、といっても昨晩だけれど、夜眠ることが出来そうもなかったので、

自宅から車に乗り、職場の近くのこのバーまで出向いていた。

店に着いたのは23時を回った頃だったはずだ。

今日は土曜日で、半官のような職場は休みだし裕子と会う約束も無かった。

もちろん、車で来たのでコーヒーしか飲んでいなかったが、3時過ぎには力尽きて

カウンターテーブルの後ろにある、テーブル席のベンチシートの上で寝落ちいた。


そこで漸く店のマスターである、ヒデオさんの不在に気づく。

「ヒデオさんはどうしたんです?」

別の常連客と飲みに連れて行かれたのが6時過ぎだったというが、すぐ戻るから、

言い残し未だ戻っていないという。

腕にはめた時計を見ると8時前で、外は蝉時雨がうるさいくらいにこだましている。


二人もついて一緒に飲みに行かなかったのか?

言おうとして全部を察した。

別の常連客とはおそらく、この店のスポンサーであり、大竹という中年の某銀行の

重役かなにかに就く、えらい資産家のおっさんだったのであろう。


この店は、有名なゲイタウンの端っこに構えられていて、来る客も明らかなゲイが

多く、深雪たちのような一般女性が2−3割、あとの7割はゲイ。

さらに端数が、わたしのような、いわゆるノンケの男子と言ったところか。


「大竹さんと行ったのかな?」

独り言のように言ったつもりが、

「そうそう、大竹さんと。」

深雪が素早く反応してくれる。

「大竹さんってやっぱりあっちの人なの?」

スツールを回転させて、わたしの正面を向き蝦子さんが真顔で興味津々たずねてくる。

「どうなんですかね?ちょっとよくわからない。」

白々しくかぶりを振る。

深雪はわたしに背を向けたまま無反応だった。

蝦子さんはこの店は初めてだと言ったが、深雪の話だけはかねてより、ヒデオさんから

聞いていた。


大竹氏がゲイなのは、その赤ら顔やトロンとした目つきなどをみれば明らかであったが

ヒデオさんはどっちなのか判断しかねた。

しかし、店のスポンサーであるということは、大竹氏にメリットがあるはずである。

単純な投資先として、回収出来るかどうかも危うそうな、繁華街の外れに位置する店に

有能な金融人らしい大竹氏が、易々と出資をするだろうか?

下世話な詮索をすればキリがない、わたしは単純にヒデオさんを兄のように慕っていたので

ゲイ疑惑の真偽は、正直どちらでも良かった。

わたしに男色の気はないが、こうして深雪たちのような、女性客も結構集まる店だったので

足しげく通うようになっていた。


「今日も蝉は元気そうや、めちゃくちゃ暑そう。」

話題を変える。

「夏って感じよねぇ。」

大竹氏のゲイの真相にたどり着けなかった惜しさからなのか、蝦子さんは

わたしに背を向けてほぼ氷の溶けきったグラスを傾けて、まだ呑んでいる。


「何時まで呑むんですか?」

「いい加減、帰って寝たいけど、ヒデオさんが帰ってこない。」

今度は交代で深雪がこちら向きになって応対してくれる。

お手上げ、と言いたげに両方の手のひらを空に拡げながら。


「ヒデオさん待ちですか。それなら自分から電話して、帰るって伝えてお金だけ

置いていってもらえば大丈夫ですよ。多分。」


大竹氏にかぎらず、客を放って「すぐ戻る、悪い。」と言い残し、度々、

外出してしまうことがあった。

外出が長時間およぶこともあり、対処法は心得ていた。

深雪と蝦子さん、顔を見合わせてアイコンタクトで会話している。

もどかしい。


「良かったら、家の近くで送りますし。」

「えー、いいんですかぁ?!」

蝦子さんが大げさに眼を輝かせて反応してくれる。

「一緒に祝杯をあげれてないので、せめてもの罪滅ぼしです。」


言って携帯を取り、フリップを開いてアドレス帳から、ヒデオさんの名前を探した。

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