第3話

 あの老人の目が見えないのは間違いない。けれど、多分、あの老人は私が一人でベンチに座っていた事を随分前から知っていた。まだベンチが壊される前、一人で本を読んでは物思いにふけっていた頃から。

 当然、ベンチに寝転ぶ私の姿を見る事は出来ないけれど、あの老人は繊細な感覚で公園で起きていた些細な出来事全てを感じ取っていたのだろう。

 そんなファンタジーめいた想像に確かな理由なんてなく、全ては私の直感でしかない。ただ私はそんな直感を得てから、公園に来なくなった老人について思案を巡らすことが無意味に思えた。それから、只々ベンチに座り、老人がやってくるのを待っていた。もしかしたら、そんな行為は何よりも無意味なのかもしれないけれど。

 秋口の空は真夏の尖った陽射しと柔らかくなった陽射しのミックスで、その光の強弱は風によって作られる。私はベンチに座って小説を開き、そこに描かれた文字の羅列を追っている。ただ待ち人を待つ私は心此処に有らずで、幾ら文字を追いかけても頭の中で情景は展開されず、かわりに耳元を過ぎていくそよ風と共に老いた声が聞こえた気がして時折顔を上げる。当然、公園には私しかいない。狐につままれたような、妙な気分。でも、もしかしたら、これが虫の知らせと言う物だったのかもしれない。

「やあ、こんにちは」

 数分後、公園に響いた懐かしい老いた声に目を上げると杖を着いためしいた老人が立っていて、それから老人は椅子に座ると「お久しぶりです」と挨拶する私の言葉に微笑み返した。

 大きな河がありまして。橋を渡るのに二十分くらい歩かねばならない程、幅の大きな河です。私は何時だったか、十に満たない頃だったか、それとも成人した後だったか、歳の頃は確かでないのですが渡し船に乗って河を渡った記憶があります。湿気った空気が立ち込めていて、船頭が水面をかいで叩く音と、弾けた水が飛沫になって頬に冷たく触れるのを感じていました。

 ベンチに腰を下ろすと老人はいきなり話を始め、私は少し面食らったのだけれど相変わらず目を閉じれば目蓋の裏に光景を浮かび上がらせる老人の声に聴き入った。

 船頭は随分な大男のようで、しかも力が強いのかギイと音を立てて水を掻くと船はグンと進んで心地良い風が顔を撫でていきます。その風があんまりに心地良いので、私は水面を叩くかいの音に合わせて歌いました。何を歌ったのかは覚えておりません。唱歌だったか歌謡曲だったか、それすら定かではありません。ですが歌っていると船頭が「良い声じゃな」と、とても低いけれども優しげな声で褒めてくれ、それから「お前さん、めしいか?」と尋ねてきました。私は歌を止めて船頭の声へ頷くと船頭は、ははん、と唸り、櫂で水を掻いて船の向きを変えました。

 ゆったり語られる老人の話は今まで聞いた話とは少しばかり違った趣で、なにかの伝承の様な含みがあった。それでも目を閉じれば不思議と靄の掛った大きな河が見え、河の真ん中に浮かぶ小舟に座りながら舳先で櫂を動かしている船頭の大きな背中が見えて来る。

 櫂を操る船頭は決してこちらに顔を向けなかったと思います。ぐいぐい水を掻いて船を進ませていくので少し不安になって来て、

「これからどこへ行くのか?」

 と尋ねますと船頭はギイギイ音を立てて水を掻きながら「奉公人ほうこうにんに頼まれたのだ」と言いますが、私には何のことやらさっぱりわかりません。ただその奉公人とやらが代わりに船代を払ってくれていたから、もっと大きな船に乗って、それに行先も変わるから一度元の岸に帰らなければならない、と船頭は言って前にもましてギッシギッシ音を立てて船を進ませますので、お蔭で風が顔や体にぶつかって心地良いのでまた歌いますと、その大きな船頭は喜んでくれて低い優しげな声で合いの手を挟んでいつの間にか……。


 ハッと気が付くと公園には誰も居なくて、今の今まで私は一人ベンチに腰掛け、開いた本の頁を眺めているんだけれども文字を追っているわけではなく、只々、ぼんやりとページの向こう側にある虚空を見つめていた。

 太陽は西側に落ち、ずっと向うの空が鮮やかに赤く色づいている。こんな時間になるまで呆けていたなんて、先日の面接で私は気疲れしたのだろうかと首をかしげる。それから本を閉じて一つ伸びをして、かの老人は今日も来なかったなあ、とため息をついた。それから立ち上がろうとするのだけれど、視界の端、私が座っていたベンチの隣に置かれた見覚えのない缶に気付いて、それとなく手を伸ばした。変哲のない缶コーヒーで、まだ詮は空いていなく、とっさに

『次、お会いする時は私が飲み物を買ってきますよ』

 と言う老人の言葉が脳裏に過ぎるのだけれども、まさか、いや、まさか、と私の頭はいつまでも半信半疑。混乱はいつまでたっても冷めず、仕方なしに私は再びベンチに座ると缶コーヒーのプルタブを引っ張った。

 少し甘ったるい缶コーヒーの香り。その匂いを嗅ぎながら一息つくと、なんだかこの公園であの老人から聞いた色々な話、それにあの老人自身も、何もかも、幻だったのか現実だったのか曖昧になって、缶コーヒーから昇る甘い香りみたいに霧散していく。ここ数カ月の私自身の輪郭までぼんやりしてきそうで、もう一つ伸びをする。その時、公園に佇むブランコが風に押されてゆらゆらしているのに気が付いた。

 私は老人の話を思い出して立ち上がるとベンチからブランコに移り、一口コーヒーを飲んでから缶を地面に置き、目を閉じて、少しばかり揺れてみた。さっきの白昼夢の中で老人が語っていた船の上に居るような心地がして、尚更、幻だったのか現実だったのか区別が難しくなる。そうやって少し揺れてから、私は目を閉じたままブランコの動きを止めると地面に触れ、土を掘り始めた。土の表面は乾いてさらさらしていて、けれども少し掘れば湿った粘土状の土が出てくる。

 私は土を掘り返しながら老人が語ってくれた話、この場所で暮らしていた幼い頃のお話しを思い起こした。ある日、父親に怒られて押し入れに閉じ込められた幼い頃の老人が押入れの中を探り、床下への抜け道を見つけ、そこに父親の釣り道具を埋めてしまった様子が目蓋の裏に浮かび上がる。

 その光景を追いながら私は只々、土を掘った。土を掻き分けている間、目蓋を閉じた私は、あの盲た老人と同じ景色を見ていた。

                           完

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