炭酸水を友達と飲むだけの話
小早敷 彰良
炭酸水を友達と飲むだけの話
しゅわしゅわ。
つい数秒前に入れたソーダ水が、グラスの中で音を立てる。
この音がこの世で一番好きだ。音が味となって、口の中を支配する気すらしてくる。ぴちぴちした音は、喉ごし良く、胃をしゅわしゅわさせた。
夏木は、ソーダ水の味を前に、ほうっと息を吐いた。
2020年の暑い夏の日のことだった。
夏木は、行きつけの喫茶店のテラス席で、友人の到着を待っていた。
随分と久しぶりに彼とは会う。その喜びと、この店のソーダ水を味わう喜びとは、どちらが大きいか、甲乙つけがたいものがあった。
ソーダ水を凝視して味わう夏木に、向かいに座る男は気味悪そうに声をかける。
「氷が全部溶けて、不味くなるぜ。早く飲めよ。」
そこで夏木は、はじめて、待ち合わせ相手が既に到着していたことに気がついた。
「わかりやすいからと、こんな炎天下にいる必要もない。いつも危ないことばかりするな。」
「炎天下にジャケットを着てくるような人物に言われたくはないな。」
「ほっとけ。気に入ってんだよ。」
刺々しい表情と内容を意に介さず、夏木は満面の笑みを浮かべた。
今日も彼の声は、極上の甘さだったからだ。
「来てくれて、ありがとうね。暇してたからさ。」
「突然呼ばれたから、驚いたわ。」
「悪いね。」
「いや別に、話したいこと色々あるから良いけどさ。あのバンドの新曲の話とか、お前の好きそうな映画とかさ。」
彼の頼んだアイスコーヒーの匂いが、鼻腔をくすぐる。
彼が頼むのは、どの店でもアイスコーヒーだった。しかしガムシロップの量は、気分でまちまち。十年来の付き合いでも、未だに彼が甘いもの好きなのか、そうでないのか、わからない、と、夏木は思った。
テラス席は外の熱気と店内から流れてくる冷気と混じった、おおむね涼しい風が吹いていた。
「で、何から話す。」
声を聞ければ、何でも良いのだけれど。
本音を飲み込んで、夏木は言う。
「じゃあ、『JUXT』の話とか。」
「いいね。MVも良かったな、あれ。」
夏の味と同じくらい、美味しい声を持つ彼の声に耳を傾ける。
夏木は、共感覚という感覚を持っていた。
音が視覚的に見えたり、温度に色がついて見えたり、五感で感じた事柄を別の感覚でも感じてしまう、いわば脳のバグだ。
夏木のバグは、音に味を感じる、というものだった。
言葉の内容に関係なく、音に味があり、学校のチャイム音は苦く、あるバンドの曲はだいたい酸っぱかった。
平常の感覚からすれば、おぞましい状態であろうが、彼女からしてみれば、生まれたときから持っている感覚だ。
夏木は何も意に介さず、引け目に感じることもなく、共感覚と共に生きていた。
ただ一つ、生活に支障の出る部分として、美味しい声を持つ人物に惹かれるという、どうしようもない部分を抱えていた。
「でさ、上司が本当に嫌なんだよな。」
話は彼の会社の愚痴へと変わっていた。
内容の鬱屈さとは裏腹に、味は爽やかに甘美だった。近い味があるとすれば、りんごジュースだ。
夏木は、ソーダ水を、一口飲んだ。
世の中のアップルサイダーの後味は、苦味を感じるものも多いというのに、彼の声とソーダのミックスは、極上の味わいだった。
長い、ぐずぐずした関係だ。
日差しが直に差して目眩のしそうな夏でも、最初に会った日を忘れたくらい時間の経った2020年でも、彼の声は相変わらず美味しい。
だけれど、今日の夏木は一味違った。
初めは、内容に関わりなく、音さえ聞けていれば良かった。
美味しい声の持ち主だ、そう思い、長く話させるためだけに話しかけた。
内容に耳を傾けて、だんだんと、声を発する人そのものに興味を持ったのは、何年も前のことだ。
声の味に対する未練を断ち切るのに、また何年もかかった。
不思議なことに、関係性が変わると声色が変わる人が多い。夏木にとっては、声の味が変わる、一大事だった。
だとしても、夏木は、彼に告白しようと決心していたのだ。
「いや、俺、彼女いるし。」
夏木の告白に、あっさりと答えた彼の声は、変わらず甘かった。
「二ヶ月前に付き合ってさ、同棲するつもり。上手くいってから報告したかったんだけど。」
変わらず、朝露のように甘い声で、彼は言う。
夏木はにっこりと笑って、席を立った。
「おめでとう。良かったね。」
「どうした?」
彼のきょとんとした顔は、夏木の気持ちを考えてはいない。
私のように、声の味がわかれば、そんな顔はできないはずだ。そう、夏木は思った。
「悪いけど、そろそろ帰らなきゃ。」
「そうか。」
爽やかな喉ごしの声で、彼は言った。
「じゃあ、またな。」
彼は、いつもの通りだ。
夏木はなぜか、彼を裏切ってしまったかのような気分になって、言った。
「それは、どうかな。恋人に悪いから。」
味を知ってしまった以上、忘れられないが、我慢できるはずだ。
しょせんは、錯覚の味なのだから。
夏木は考えながら、伝票を持つ。友人同士、お祝いを兼ねて、ここは払うべきだろう。
「じゃあ、さよなら。また、いつか。」
彼女は、手早く会計を済ませて出口へ歩いていく。
「そんな。」
帰り際に聞こえた彼の声に、思わず振り返る。
ひたすらに甘い声に、少し塩味が混じっていた。
振り返って見た彼の顔は、まるで初めて見るような顔だった。
そういえば、こんな顔だったか。
夏木は驚いて、彼の声の味を確かめた。
彼の声の新しい後味は、悪くはないな。
そう思いながら、彼女は何も答えずに、店を出て行った。
炭酸水を友達と飲むだけの話 小早敷 彰良 @akira_kobayakawa
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