第4話「満月は見下ろす」

 男は考える。自分の人生について。

 生きるということはこうまで苦渋に満ちたことであったであろうか。今日ほど人生の無常を感じたことはない。追い立てるような寂寥感が身を苛む。

 そして、なによりも胸中にたぎり続ける熱。たとい、この熱はコキュートスに落とされることになっても収まらないだろう。いや、裏切りの川に落ちるのは彼女か。冥府の裁判官が自分なら、だが。

 いっそこの懊悩の原因を全て他者に、とりわけあの彼女に、押し付けて、自己を完全に正当化できたならどれほど楽だっただろうか。残念ながら男は、自らが全ての穢れを受け止めて浄化できるほどに成熟してはいなかったが、子供のように駄々をこねて全ての悪因を他者に押し付けられるほど恥知らずでもなかった。

 男は地面を見続ける。ねっとりとした闇。漆黒のアスファルト。それは見る者をどこまでも落とす暗黒だ。

 夜の闇を切り裂いて走る車が脇をすり抜けていく。それにしてもなぜこの町はこうまでも暗いのか。時たま現れる車のヘッドライトと点在する家々の玄関灯だけが頼りであった。街灯はほとんど存在しない。男はふとこれが自分に対する嫌がらせであると固く信じてみることにした。不特定多数の者への嫌がらせではなく、他でもない自分に対するものであると。

 こう考え始めるとこの世界に存在する全てのものが自分を否定しているのではないかとさえ思えてくる。大学からの足である電車が事故により止まり、こんな時間まで駅で足止めをくらっていたこともそうであるし、やっときた電車は当然満員で、無垢な赤ん坊が彼の近くでほとんど始終泣き続けていたこともそうであった。何よりも腹立たしいのはそんな赤ん坊が満員電車の中で母親によってのみならず、周囲の人間からも恩情を持って迎えられていたことである。かの乗客は果たしてその赤子の暴虐な振舞いを許していたのである。鼓膜をひっかく様な不快な喚き声を撒き散らしていたにもかかわらず。もちろん、男と同じく不快感を持っていた乗客も居ただろう。しかし、その乗客たちだってこう思っていたに違いない。赤ん坊だから仕方ない。

 何たる理不尽だろう! 世間から未熟とみなされる赤子は許され、自身を未熟とみなす私は許されないのである。男はほとんど本気でこう考えかけた。自分も赤子のように誰からも許される存在になれば……。このような病的な妄想に心を委ね、狂ってしまうことはどれほど甘美で魅力的なことなのか!

 そのとき、男は不意に向かいから人影が近づいていることに気が付いた。それは小学生くらいの女の子であった。学習塾からの帰りといったところだろうか、大きなリュックサックを背負っていた。その子供は男とすれ違い、足早に去って行った。思わず足を止めて振り返りその後ろ姿を見つめる。彼女の足運びからはどこか焦りを感じさせる。それをさせているのは自分の存在だろうか。

 わかってはいる。世間一般の人間は少なくとも自分に悪意を持って接しているわけではないと。ただ状況がそれをさせているにすぎないのだ。しかし、ことさら心がささくれだった今日の夜は、その全ての理不尽の原因を他者に押し付けたく感じてしまうのだった。

 そもそもがこの煩悶の始まりははたしていつだったのか。それはきっと今年の四月。男が大学に入学したときのことであろう。

 男は現役高校生のとき、受験に失敗した。志望の大学に落ちたのである。そうか、仕方ない、もう一年勉強しよう。素直にそう思った。不思議と後悔の気持ちや痛恨の念はなかった。しかし、このときに彼の芯は人知れず歪み始めていたのかもしれない。なぜならこれが彼の人生における初の明確な挫折であったからだ。このとき、彼は自分が特別な存在でも何でもないことをはっきりと自覚した。

 ともあれ、男は勉強した。彼は元来、真面目な性質ではあったから自分の未熟さと弱さを自覚した後、成績は思うように伸びた。

 とはいえ、それはある一定のレベルまでであった。どうしてもあと一歩進むことができない。その一歩を進めるためには分厚く固い壁を破らねば進めないのだ。

 結果から言えば彼はその壁を破れなかった。最後の一枚がどうしても割れなかった。彼が合格したのは第三志望の私立大学であった。もし彼が第一志望の国立大学から第二志望の国立大学にランクを落として受験していたら、おそらくその大学には受かっていただろう。しかし、彼はそうしなかった。そうしなかったのは、捨てきれない虚栄心のためであった。志望を変えなかった初志貫徹の行動を褒め称えたものも居た。しかし、それはどう好意的に解釈しようとしても敗者への慰めに他ならないのであった。男は敗北者であった。

 男は自分が世間における落伍者であると今度こそはっきりと自覚した。一年前に大学に落ちたときにそのことを悟り、改善しようとしなかった自分の愚鈍さを激しく憎んだ。

 その瞬間から彼は自身の変化に成長に固執し始めた。より強く、より気高く、より美しく。そんな人生を目指すことにしたのだ。

 このような言い方を選ぶとどこか優美さが垣間見えるかもしれない。だが実際はこんなことは誰もがやっていることだ。男はこのような修辞で自分を飾った。そして隠した。その修辞をかきわけた先にあるのは虚栄心に他ならない。

 大学受験を通して彼は自身の才能のなさをはっきりと自覚してしまった、そんなときのこと。彼は彼女に出会った。

 彼は経済学部の初回のガイダンスを聞きながら無意識にどこか周りの人間を見下し、軽蔑していた。心のどこかでは汚らわしいとさえ考えていたかもしれない。真新しい白い机も、汚れ一つないホワイトボードも、磨き上げられたリノリウムの床も全てが汚らわしい。自分はこんなところに居るべき人間ではないのだ。なぜこんな掃き溜めに居ねばならないのだろう。彼は自分自身を敗北者であるとみなしていたが、同時にそのような自分と同じレベルに居る人間を同様に敗北者、いや、それよりも下の存在と見なしていたのであった。

 だから、彼女の姿を見たときはある意味では感心したのだ。つまり、それは呆れを通り越したという意味で。

 彼女は机に突っ伏して、目を閉じ、眠っていたのである。大学生活の最初の顔合わせの場で。

 髪の色は黒。長さは肩にかかっている程度には長い。彼女が突っ伏している机には眼鏡が置かれており、ここから彼女の睡眠に臨む意気込みが感じられた。伏せられた顔は、偶然か意図か、隣に座る自分の方に向いていた。閉じられた目の睫毛の長さを今でもよく覚えている。

 男は考えた。彼女はよほど図太く肝の据わった人物か、そうでなければ頭の螺子が何本か外れた存在なのであろう。

 彼女の気持ちがわからないと言えば嘘になる。確かに前方の教壇に立つ教員の話は退屈である。自分も高校時代そうであったように、何日か経って大学の授業に慣れれば、授業中に寝てしまうこともあるだろう。だからと言って、初回の授業からこの女は寝ているのである。

 このことが、男が彼女に興味を持ったきっかけであった。なぜか。彼女が世評にとらわれず、自身の道を進める人間ではないかと思ったからである。そのような人間を端的にいえば、「かっこいい」と思ってしまったからである。

 確かに初回の授業から寝ていたというだけでそのような評価を下すのは無理がある。ただの偶然かも知れない。何かのっぴきならない事情で彼女は睡眠を選んだのかもしれない。だが、彼女に興味を持つきっかけとしては、少なくとも男には、十分であった。

 男は少なくとも社交的な人間ではなかった。もちろん、事務的なことや日常会話程度なら行うに苦労はない。しかし、見知らぬ人間、とりわけ女子に自分から気軽に話しかけられるようなコミュニケーション能力は持ち合わせていなかったのである。結局、男は件の彼女に話しかける機会を見いだせぬまま、大学生活の初日が終わった。

 自宅から一時間近くかかる帰り道で、彼は己のふがいなさを悔やんだ。やはり、私は駄目な人間である、と。しかし、結果から言えば、この日彼女に話しかけられなかったことで男はますます彼女への執着を強めて行った。

 彼女に関してはさしあたって外堀から埋めていくことにした。将を射るためにはまず馬を、である。

 昼休み、彼は彼女の後を追った。二時間目はたまたま同じ授業を受けていたのだ。彼女の周りにはすでに数人の女子が居た。もともと知り合いだったのか、昨日今日知り合ったのかはわからない。

 彼女たちは学食へと入って行った。男も何気ない体を装い学食へと入って行った。学食は混んでいたが苦心の末彼女たちの真後ろの席を確保することに成功した。ちょうど例の彼女と背中あわせになる形である。


「もう入るサークルとか決めた?」


 背中あわせになっているため、はっきりとしないがこの言葉を発したのは例の彼女以外の人間と思われた。


「私は天文サークルに入るつもりだよ」


 男は不自然に思われない程度に背後を見て確認する。これは例の彼女が口にしたことに相違なかった。初めて聞いた彼女の声は想像していたよりも高く澄んだ声であった。

 これはチャンスだ、男は考えた。自分も天文サークルに入れば彼女に近づくきっかけができる。その後は……その後はどうするのか。男は自分が具体的に彼女をどうしたいのかを考えていなかったことに気が付いた。まあいい、後のことは後でどうとでもなる。

 彼はこれだけのことで天文サークルに入ることに決めた。もともとやりたいことなどなかったし、何よりこのときにはこの大学内で彼女以外の人間に既に興味を見出せないようになっていた。彼女以外の人間は、自分以下の人生の落伍者だ! そう考え始めていた。周囲への軽蔑が彼女への狂信に変わり、その狂信が周囲への軽蔑を一層強めた。彼は自分が泥沼に嵌り始めていることに全く気付いていなかった。




 こうして彼は天文サークルに入部した。ちなみに彼女がきちんと入部しているかを綿密な追跡調査を行った後で入部したあたり、抜かりがない。

 こうして新入部員同士として彼は初めて彼女と会話する機会を得たのである。


「えっとー、もしかして経済学部?」


 彼女は男に自分から話しかけてきてくれた。これは男を大変喜ばせた。しかし、愛想のいい対応をとれず、うすら寒い探り合いの会話をすることしかできない自分に非常に腹を立てた。せっかく彼女が話しかけてきてくれているというのに! 何をやっているのだ、自分は!

 彼女は実際話してみると気のいい女であった。どうやら大層星が好きなようで様々なことを教えてくれた。星座の名前の由来やもうすぐ来るという流星群、太陽系以外の惑星の話を実に丁寧に教えてくれた。彼女は非常に話上手で天文になどほとんど興味がなかった男も実に面白く話を聞くことができた。他の天文サークルの人員からしても彼女の知識量は驚嘆に値するものであったらしく、彼女 サークルの最初の天体観測の日。彼らはこと座流星群を見るために大学の近くの山に登ることになった。三台のレンタカーに分乗し、彼らは山の頂上を目指した。

 頂上は開けていて、見上げれば漆黒の空と白の星々が広がっていた。この日の夜の空を男は今でも良く覚えている。


「今年はあんまり綺麗に見えないかもしれないねー」


 彼女は慣れた手つきでてきぱきと望遠鏡を組み立てながら呟いた。男は、それはなぜかと尋ねた。


「今年は満月と被っちゃたし、輻射点の近くに月があるから」


 要するに月の明かりのせいで流星群が見えにくくなっているということだった。男はその彼女の一言に何とも言い知れぬ不安を感じたのだった。

 そして、流星群は始まった。流れる星はその一つ目から圧倒的な存在感を持って夜空のキャンパスに線を刻んだ。

 彼女はその星を見上げながら言った。


「星は本当に遠くにあるからね。たとえどんなに人間の技術が進歩したってあの星には届かない」


 男は反論したかった。しかし、彼女ほど天文の知識がない男はそれに抗する術を持たなかった。彼の心の歯車がぎしぎしと音をたてた。

 流星群は結果としてはあまり良くなかったらしい。素人の男としては充分楽しめたと思えたのだが、何度も流星群を見ている彼女としては今年の結果は不服なようであった。


「まあ、満月だったんだし仕方ないけどね」


 そう言ってはにかむ彼女の笑顔がどこか遠いものに感じられ、男はどこか歪んだ恐怖にも似た感情を覚えたのだった。




 そして、数か月の時が流れた。男は大学生活をそれなりに楽しんでいた。それはやはり彼女のおかげだった。部室で彼女と話していると心が駆けだしそうになるし、その笑顔を見ているだけでどんなことだってできるような気がしてくるのだった。

 しかし、幸せな日々は長くは続かないものだ。それはきっと神の悪戯だったのか。男は見てしまったのだ、彼女が日曜日に天文部の部長と待ち合わせているのを。

 いつもの日課で男は彼女の外出をこっそりと見守っていたのだが、そんな些細な事実は頭から吹っ飛んでいた。何故、彼らがこのような街中で待ち合わせているのか。周囲に居る人間がカップルばかりであることも彼をさらに混乱させた。何故だ。何故だ。何故だ! 彼はほとんど叫びだしそうな自分を押さえつけた。自らの首を掴んだ。そうでもしないと彼は奇声を発しながら彼らの前に飛び出し、彼ら二人を問いただしていただろう。

 なんとか冷静さを取り戻したとき、彼らは既に街並みに姿を消していた。彼はただただ立ち尽くすしかなかった。

 ここまで来て彼は初めて彼女のことをどう思っているのかを真剣に考えた。最初は興味本位であった。彼女という存在をただ知りたいと思った。いつしかそれは変わっていたのだ。恋に。男は自分がただの恋する一人間であることを、今更ながら自覚した。

 その晩、彼は髪を掻き毟り、拳を壁に打ち付け、血反吐を吐く思いをしながら考えた。別に彼らは男女交際しているというわけではないのかもしれない。サークルの活動中も彼らはそのような素振りは見せなかったし、彼女のことはほとんど始終見守っていた自分自身が一番よく知っている。何か理由があったのかもしれない。例えば、サークルに関する何かの買い出しがあったとか。そうだ、そうに違いない。そう考えると途端に彼の心はすーっと冷えた。高原に吹き渡るような風を、彼は胸中に感じた。

 彼女に確かめてみればいい。偶然、昨日君たちを見たんだけど、何かあったの? サークルの仕事か何か? そう尋ねれば彼女は笑って私の問いかけを肯定してくれるはずだ。それ以外にどういった答えが考えられるだろう。ともあれ、今日の出来事のおかげで彼女への気持ちが何なのかを知ることができた。部長には感謝してもいいくらいだ。そう考えながら彼は眠りに落ちた。


「見たんだ……」


 次の日、男は部室で彼女に尋ねた。今日は部会もなく、室内には彼と彼女の二人しかいなかった。


「じゃあ、もう隠しておけないかな……」


 彼は彼女が何を言おうとしているのかわからなかった。否、理解することを脳が拒んでいた。頭蓋骨のなかに居る悪魔が彼の脳味噌をかき混ぜる。やめろ! やめてくれ!


「私、部長と付き合ってるんだ」


 やめろ!


「先週、家に帰った後で呼び出されて、告白されたの」


 やめるんだ!


「私も部長のこと気になってたから、良いかなって」


 頼むから……。


「みんなにはまだ内緒にしといてくれる? ちょっと恥ずかしいし」


 もう……やめてくれ。

 その後の記憶は曖昧だ。男は気が付くと一人、部室に取り残されていた。彼女とはあの後、たわいのない話をして、別れたのだった。普段ならば彼女が家に着くまでは陰から見守るところだが、もうどうでも良かった。

 彼は想像した。彼女が自分以外の男に抱かれ、心をほどいて行く様を。

 まず彼は彼女を抱く部長を思い切り殴った。自分の拳が砕けても彼女がどうなろうともう関係がなかった。殴った。ひたすら殴った。ときどきは凶器だって使った。部長は塵すら残らなかった。

 そうやって空想の世界で部長を何度殺したって現実は何も変わらない。

 彼はその空想世界を再構築した。再び部長は彼女を抱きしめた。やせ型ながら背の高い部長に抱きしめられた彼女は彼に心を、そして、身体を許していく。それは驚くほど甘美で官能的な様だった。彼は自身の身体の芯が熱くなるのを感じた。その熱が彼自身をどうしようもなく猛らせた。熱は冷まさねばならぬ。

 彼はふらふらとポットの傍に近づいた。そこには部員たち各々専用のマグカップが置いてあった。そこにはもちろん、彼女のものも置いてあった。彼はそれを手に取った。それを掲げてまじまじと見つめた。彼はほとんど本能で彼女の持ち物を自分自身をたぎらせる熱で汚してしまいたいと感じていた。だから、このマグカップを手に取った。

 しかし、彼は思い出してしまったのだ。初めて天体観測に行った夜を。

 彼女のマグカップの絵柄は満月だった。

 彼は瞬間、自分自身の未熟を恥じた。猛烈に恥じた。今、目の前に吊られた縄があったなら迷うことなく、それに首を通しただろう。

 男は思った。

 自分は何だ?

 何なのだ?

 私はあの日の満月だ。

 彼女にとっては邪魔にしかならなかったあの日の満月だ。

 男はそのマグカップをそっと元の場所に置いた。そして今度は自分自身のマグカップを手に取った。そして、迷うことなくそれを床に叩きつけた。破片は床に散らばった。彼はその光景を目に焼き付けるように睨んだ。そうしてほとんど夢遊病者のような足取りで部室を後にした。




 こうして彼は帰宅の途に就いた。

 きっと二度とあの部室を訪れることはないだろう。あのマグカップの破片は片づけなかったことを後悔した。きっとあの欠片を一つも残さず片づけることは不可能だ。本棚やロッカーの隙間に目に見えない細かな欠片が残ってしまうだろう。それは男には非常に耐えがたい事であった。

 どこかから赤ん坊の泣き声が聞こえる。それは彼の苛立ちを一層強いものとした。

 先程電車がとまり、あんな赤ん坊と出会ったことも嫌がらせ以外の何物でもないのだ。誰からのいやがらせか。それはきっと世界だ。非合理的で滑稽な考えと自覚してなお世界は自分を拒絶していると思った。

 今回のことは全く自分の至らなさが起こしたことである。もし自分がもっと頼れる人間だったなら彼女は自分の方を向いてくれていたかもしれない。そうしてずっと私のために笑っていてくれたかもしれない。男は思う。

 そのとき、前方から灯りが近づいてきて男が見ていた漆黒のアスファルトの地面を照らした。前からゆっくりと車が近づいてくる。狭い道だ。自分が避けないと車は進むことができないだろう。男は道を譲った。譲らねばならないと強く思った。そうして車は通り過ぎて行った。

 そのときにふと空を見上げた。宝石箱をひっくりかえしたような夜空が広がっていた。アスファルトと同じ黒なのに星の存在だけでこうも変わるものか。この辺りは田舎で灯りも少ないからこんな風に星が輝けるのだ。初めて街で夜空を見上げた時にはその薄汚さに驚いたものだった。男は黙って夜空を見ていた。振り返ると彼の背後には月が居た。満月だった。それはあの日の満月に違いなかった。彼女の邪魔をしたあの満月だった。そして、目の前の満月は自分自身なのだ。まるで鏡を見ている気分だった。

 そのとき、少しずつ、本当に少しずつだが男に気力が湧いてきた。私のように、誰かの邪魔ばかりしているくせに、周りを見下して優等な気分に浸っているものは他にも居るではないか。……おまえだよ、満月。

 彼の口元は少しずつ吊りあがっていった。彼は、満月を見下すことで、自分と同一だと信じたものを見下すことで、少しずつ平静を取り戻していった。結局は自分が何も成長などしていないことに気づかずに。

 少しだけ心の靄が晴れ、彼の足取りは軽くなった。明日からどうやって生きて行くのかは、明日決めることにしよう。彼は前を向いて歩き始めた。

 そのとき、彼の目は前から歩いてくるカップルの存在を認めた。犬を連れているところから見ると散歩だろうか。彼らの会話が聞くともなしに聞こえてくる。


「今夜は月が綺麗ね」


 そして、悪魔は彼の脳を突き破り、今度こそ彼は発狂した。


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不道徳の教科書 雪瀬ひうろ @hiuro

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