第3話「死してなお君を思うということ」

 女は死のうと考えていた。

 寒風の吹き荒ぶ切り立った崖の上であった。転落防止のための古ぼけた柵の向こう側である。月明かりに照らされた崖下の海を見下ろす。荒れ狂う波は、さながら女に襲い掛からんと暴れ回る一頭の獣であった。女が身を投げれば、それは女をたちまちの内に呑み込むであろう。

 女はじっと黒い水面を見つめた。その向こう側を見ようとしたが、頼るべきは月明かりのみ。見通すことは叶わない。この海は自分がこれから訪れる黄泉への道となるのだ。女はそんなことを考えた。

 こうして立ち尽くして一体どれだけの時が過ぎたであろうか。それは悠久にも一瞬にも思えた。最後の踏ん切りがつかず、立ち尽くす。

 あと一歩が踏み出せない。

 それで死ねるというのに。

 ああ、いっそ誰か背中を押してはくれないものだろうか、そう考えた刹那であった。


「何をしてらっしゃるのですか」


 不意にかけられた声。女は驚き、振り向く。

 果たしてそこには一人の男が立っていた。月光によって照らされたのは、知らぬ顔だ。作り物めいた端正な顔立ち。髪は黒く短い。背は高くも低くもない。そんな男であった。

 女は焦った。ここは自殺に格好の地として知られていた。そんな場所の柵の向こう側に居る女。間違いなく自殺を試みていると露見したに違いない。

 止められる訳にはいかない。私はここで死なねばならぬのだから。

 なんと言ってこの場を取り繕うか、あるいはこのまま暗海に身を躍らせるか。女が思い巡らしていたときであった。


「自殺ですか?」


 男は柔和な笑みを浮かべて言った。


「奇遇ですね。私も死のうと思っているのです」



 女は男の洒脱しゃだつ飄飄ひょうひょうとした様を訝しんだ。女には男の態度がこれから泉下に参らんとする人間のそれとは到底思えなかったのだ。

 俗世へのしがらみなどとうに捨てた筈の女も、さすがに尋ねずにはいられなかった。


「貴方は本当に死ぬつもりなのですか?」


 男は微笑みを湛えながら言った。


「もちろんです」


 女は男を量りかねていた。男はどこか超然とした空気を身に纏っていた。達観している、とでも言うのだろうか。少なくとも絶望の為に身を投げようとする自分などとは何か違う。そう思った。


「貴方もこれから死ぬのでしょう。良かったらその理由をお聞かせ願えませんか?」

「え?」

「大丈夫です。私も死にます。貴方のお話を誰かに漏らすことはありません、少なくとも此岸のものに対しては」


 男はもはや薄ら寒さすら感じさせる微笑を顔に浮かべて言った。

 女は迷った。自らが死を選ぶ理由をこの男に話す義理などない。しかし、誰かに話すことで自分の気持ちにけじめをつけたいという思いがあることも事実であった。最後の一歩が未だ踏み出せぬのは、やはりどこかで気持ちの整理ができていないからだろう。この男はそういう意味ではうってつけの相手と言えた。

 そしてまた、男の超然とした態度に気押されたのも確かであった。

 女は男に全てを語ることにした。今更、語るを現世の恥とも思わない。女は呼吸を整え、静かに語り始めた。



 私が死ぬのは、一言で言えば愛のためです。

 私には恋人が居ました。私には勿体無い優しい人でした。私が大学の同級生からストーカーされていたときに助けてくれたんです。あのときは本当に疲れ果てていましたから、彼の優しさが身に染みたものです。

 それがきっかけで私たちは交際を始めました。あの頃は本当に幸せでした。何をしていても世界が光り輝いて見えました。彼と共に時を過ごすようになってからは、彼と出会う以前の私の人生は時が止まっていたようだと思うようになりました。私の人生は彼と共に居て、初めて動きだし、色を得たのです。心の底からそう思えるくらい彼と過ごした時間は幸せでした。

 ではなぜ私が死を選ぶのか。彼が亡くなったからです。彼は轢き逃げに遭いました。犯人はまだ捕まっていません。私には彼の居ない世界などというのは到底耐えられるものではありません。

 ですから彼の後を追って死を選ぼうと決意したのです。この辺りで死体も上がらぬような場所はこの崖の上くらいのものですから。こうしてここを死に場所にすることにしたのです。


 女が語り終えるまで男は無言で佇んでいた。女が話を終えると周囲を沈黙の帳が包んだ。

 女は男がきっとこう言うのではないかと考えていた。「そんな理由で死ぬのはお止しなさい」と。

 しかし、男はその予想に反し、何も口にしようとはせず、黙って女を見つめていた。

 男は何故、何も言わないのか。

 女はその事で過分に動揺している自己に気がついた。これではまるで自殺を止めて欲しかったみたいではないか。

 そんな筈はない。私は今から死ぬのだ。なんならすぐにだって飛び降りて、この世界から旅立つ事も出来るのだ。


「今度は私の話を聞いていただけますか」


 気がつくと男は女の眼前に現れていた。女は思わず身を反らそうとするが、後ろは断崖。そうすることも叶わない。女は柵を握った手に思わず力を込めた。

 男のどこか人間離れした整った顔が吐息を感じるほどに近くにあった。しかし、女は身動ぎ一つすることができない。男の唇がゆっくりと動き出す。


「聞いてください。私が死を選ぶ理由を」




 私が死を選ぶ理由も、烏滸がましくも言わせてもらえば、愛のためでございます。

 とはいえ、私が抱えている問題は複雑で一言で言い表すのは困難です。ですから、一から順序だてて語らせて頂くことにします。

 全ては、私ととある女性が出逢ったところから始まりました。その人と私は同じ大学の文芸サークルに所属しており、そこで我々は交流を持ちました。

 私は孤独でした。

 私は俗悪で下賤な人間でございます。自己本意のみで動き、他人を省みない人間でした。自己の利益のみを考え、他者の幸せを妬む、かような俗物であったのでございます。文芸活動の糧になるかと思い、所属することにしたサークルでしたが、執筆に真摯に取り組もうという人間は居らず、私は失望し、心のどこかで彼等を見下してしまっていたのでしょうか。私は孤立しました。悪辣な本性を隠して人と付き合う術を、私は知らなかったのであります。

 しかし、それは私にとっては常の事でした。人生の中で友人と呼べる存在ができたことなど一度もありませんでした。

 ある日のことでございます。私はそのサークルを辞める決意を固めました。これ以上そのサークルに拘泥することに意味を見出だすことが出来なかったのです。しかし、最後の踏ん切りがつかず、私は部室の前で立ち尽くしていました。そこに彼女がやって来ました。私の様子がどこかおかしいことに気付いたのでしょう。彼女は部室から離れた場所で私の話を聞いてくださいました。


「辞めたら勿体無いよ」


 私の話を聞いて彼女はこう言いました。彼女にとっては何でもない一言だったのでしょう。そこにあったのは慈心であって、好意でないことも承知しておりました。

 しかし、私は嬉しかったのです。そんな暖かな言葉をもらえたのは初めてのことであったのです。

 私はずっと孤独であったのです。このように醜悪な私と交流しようという人間はおりませんでした。

 私は目が開いた思いでございました。そうです。私は目も開かぬ赤子であったのです。交友の喜びも安らぎも知らず、ただ自身の瞼の裏だけを見つめ続けていたのでございます。彼女という光を、その瞼の向こうに感じて私は初めて目を開きました。私はやっと生きることの喜びを知ったのでありました。

 私はサークルに残ることにしました。全ては彼女が居たからであります。少しずつではありますが、私達は交友を深めていきました。本当に幸せな時間でございました。彼女と文学について語らい、互いの創作物を読み合い、くだらないことで笑い合いました。本当に、本当に幸せな時間でございました。

 いつしか、私はこの薄汚れた人生を彼女のために捧げようと思うようになりました。勘違いしないで戴きたいのは、私は彼女に抱いた気持ちは、敬慕であって、劣情ではないということであります。彼女と交際したいと、そんな分不相応な事を考えたわけではないのであります。それは例えるならば、慈愛に満ちた神とその信奉者というところでしょうか。

 大袈裟だとお思いでしょう。馬鹿馬鹿しいとお思いでしょう。しかし、私は私自身の気持ちを言葉にする力を持っておりません。幾千の物語を綴ろうと、万巻の書を読み解こうとも、私はこの気持ちの一切を、誰かに伝える力を得ることは叶わないでしょう。きっと理解してくれる人など居ないと思います。

しかし、解ってほしいのです。私は彼女に全てを捧げようと決めたのです。自分の事しか考えられなかったこの私が。私は生まれ変わったのです。

 時は流れました。そして、その時はやってきました。ずっと心中で恐れていた事であります。彼女がとある男性と付き合い始めたのです。

 その情報を私は偶然耳にしました。それは青天の霹靂。脳天を貫かれるような思いとはこの事でした。

 私はそれを信じまいとしました。彼女に確かめてみればよいと思いました。そうすれば彼女はそれを否定するだろうと。しかし、私は彼女に尋ねることをしませんでした。彼女が認めれば、否定はできなくなる、そういった思いもありました。しかし、問うことをしなかった最も大きな理由は、男女関係に関して私は何の免疫も持っていなかったからです。そのようなことを口にすることも憚られるほど、私の羞恥心は人一倍強いものだったのであります。

 この部分についてこれ以上は語らないでおきましょう。

 ともかく、私は自分の口で確かめられぬ以上は、目で確かめようと考えたのです。

 その日から私は彼女の後をつけることにしました。一般的に言ってこれが犯罪に当たる行為であることは承知しておりました。しかし、これはいわば緊急処置であって、そうせざるにやむをえない事情があったと言える行為でした。私は彼女が大学近くの下宿先であるアパートまで帰る様子を私は離れた所からこっそりと見守りました。私は近くのコンビニで立ち読みをする振りをしながら、一晩中彼女のアパートを見張りました。しかし、その日、彼女が部屋を出ることはありませんでした。私は胸を撫で下ろし帰宅の途につきました。

 次の日も、その次の日も私は彼女のアパートを見張りました。あまりコンビニに長居するのも目立つと考え、外から彼女のアパートを見張りました。季節は冬でありました。寒風は身体に堪えましたが、彼女の為を思えば何ということもありません。私の存在は既に血肉の一片に至るまで彼女のためにあるのですから。

 一週間経ち、全ては私の取り越し苦労だったのではないかと思えた矢先の事です。私は今までアパート全体の出入り口しか見張っておりませんでした。昼間は大学に居るのですから、夜、アパートから出なければ、彼女の貞操は守られているに違いないと考えておりました。

 しかし、不意にその考えが甘いことに気がつきました。私はまず彼女のアパートの傍の学校の校舎に忍び込むことにいたしました。そこはただの教室しかない校舎でしたので、一定時間にやって来る巡回さえ掻い潜れば忍び込むのは難しくありませんでした。

 その校舎の窓から彼女の部屋のドアを直接見張ることにいたしました。もちろん、中は見えません。しかし、そこからなら部屋に出入りする人間が見えるのです。

 私の悪い予想は的中してしまいました。とうに辺りが闇に包まれた時間帯でございます。彼女の部屋の扉の前に一人の男が立ちました。そして、彼女は扉を開け、その男を招き入れたのです。そう、その男は、彼女と同じアパートの住人であったのです。

 私はそれを確認した瞬間、膝から崩れ落ちました。心臓が激しく脈を打ち、纏わりつくような嫌な汗が身体を伝いました。どれだけの間、そうしていたのかは判然としません。気がつけば朝を迎えていました。私は一晩中膝をついていたのです。巡回の者に見咎められなかったのは誠に幸運と言う他ないでしょう。

 私は自分のアパートに帰り……そこからの記憶は曖昧です。私の胸中には何もかもを奪い去るようなどす黒い暴風が吹き荒れていたことだけを覚えています。

 そこから数日は地獄のようでした。悔恨と慙愧の念が押し寄せ、私の首を締めました。どうして彼女を守れなかったのか。それだけが私の魂を苛みました。彼女という存在は決して誰にも触れられてはいけない尊きものであった筈なのに。

 私は死を選ぼうと決意しました。彼女は既に汚されてしまった。もう私が生きる支えとするものはこの世には存在しないのです。

 身支度を整え、用意したロープをかける場所を模索していたときでありました。私の携帯電話が震えたのです。そして、そのバイブレーションのリズムは彼女からのメールに設定したものでした。

 私は携帯電話に飛びつきました。震える手で彼女からのメールを開きます。そこにはこうありました。


「最近、ずっと休んでるけど大丈夫?」


 もちろん、絵文字もついておりました。

 私は滂沱の涙を流し、歓喜の念に打ちひしがれました。ああ、女神はまだ我を見て下さっている。

 そして、その時になって私は自分のしようとしていることの愚かさに気がつきました。

 彼女は今苦しんでいるのです。

 彼女は自分が何をしているのかわかっていないのです。

 彼女の目を覚まさせるのは、彼女の僕たる私の役目なのです。

私はやっと自分の使命に気がつきました。私がこの世に生を受けた意味にやっと気づくことができました。全ては素晴らしき彼女のたった一つの誤りを正すため。ただそのためだけに私は生を受けたのです。

 その役目を全うせずに死を選ぶことは彼女への裏切りに他なりません。どうして、死を選ぼうなどと愚かしい事を考えたのでしょうか。私という存在は、その血肉一片に至るまで、ただ彼女の為にあるというのに。

 それからの行動は迅速でした。私は彼女に詰め寄り男と別れるように説得しました。彼女は受け入れてはくれませんでした。次に私は男の元を訪れました。速やかに彼女の傍から去れと警告したのです。男はまともに取り合いませんでした。

 私は男の元を何度も訪れ、彼女に近づかぬように警告し続けました。私は決して暴力に訴えるつもりはありませんでした。それは彼女が望まぬだろうと考えたからです。

 しかし、男は愚かにも私の警告を無視し続けました。そして、私を警察に突き出したのであります。私は実刑判決を受け、獄に繋がれました。

 何時の時代も新しき信仰を持つ者が迫害されるのは世の常。私自身がいかなる辱しめを受けようとも、一向に構いませんでした。彼女のために死ねるならそれは本望であります。しかし、獄に繋がれ、彼女の過ちを正す使命が果たせぬことだけが気がかりでございました。




 そこで男は話を止めた。

 男は相変わらず女の目前に居る。

 女はその瞬間まで男の重圧に気押され、言葉を差し挟むことが出来なかった。自分の最悪の想像が当たっているのか否か。女は確かめる為に震える声で尋ねた。


「――くん、なの……?」


 ――私を付け回して苦しめた……。

 続けそうになった言葉を呑み込む。

 男の顔から、微笑はいつの間にか消えていた。男の顔に見覚えなどない。それは確かだった。目の前の男の顔は、記憶の中にある自分と愛する人を苦しめた男の顔とは全く違っていた。


「私は全て貴方の為にある」

「どういう意味……?」

「貴方に会う為に顔を変えるくらい何でもないことです」

「まさか……整形したの……」


 確かに自分の知っている男が現れたら一目散に逃げ出し、助けを求めただろう。それくらいに女はストーカーに参っていた。ストーカーは逮捕されるまでほとんど二十四時間、自分と彼をしつこく追い回したのだ。確かに仲は良かったもののそのときは二人はまだ交際していなかった。おそらく、電球を換えてもらう為に部屋に呼んだのを勘違いしたのだ。だから、ストーカーの「近づくな」という警告は的外れだった。しかし、結果的には、ストーカーの脅威が二人を近づけたのも事実だった。ストーカーという共通の敵を乗り越えた事で二人は結果的に交際を始めたのだから……。


「強硬手段に出なければならなかった事だけは謝ります。それだけは私も不本意でした。それは貴方も望まぬ事でしょうから」

「何を言って……?」

「安心して下さい。貴方を誑かす男は私が排除しました」

「まさか貴方が……」

「はい、私が殺しました」


 一瞬、辺りには不気味なまでの静寂が満ちた。波濤も烈風も、何もかもが静止してしまったかのようであった。

 そして、次の瞬間、女の指は男の首に絡みついていた。女は信じられないような力で男の首を絞めていた。ただ月光のみが照らし出す二人の影は、何も知らないものが見れば、睦まじい男女の姿にも見えたかもしれない。


「殺して……やる……」


 女は荒い呼吸で言った。両の掌に力を込める。

 この男を殺してやる……!

 次の瞬間だった。男は女の手首をそっと掴み、いとも容易く、それを外した。


「……やっと、私を見て下さいましたね」


 男は今にも泣き出しそうな顔で言った。


「……何……を……」

「貴方は私に心を向けて下さった。私はそれだけが嬉しいのです」


 男はとても悲しそうに笑いながら言った。


「たとえそれが殺意であろうとも」


 男の表情が、この言葉が虚勢や諧謔でない事を告げていた。この男は殺意を向けられて嬉しいと本気で考えているのだ。

 女は動揺した。男の考えを全く量りかねたのだ。


「私があの男を殺しました。憎いでしょう、許せないでしょう、殺してやりたいでしょう。しかし、私のような薄汚い者の命を絶つ為に、貴方の美しい手を汚させるのは忍びありません」


 女は男に圧倒されていた。目の前の男への憤懣もいつの間にか萎んでしまっていた。女の中に残っていたのは怪物に出会ってしまったという恐怖だった。

 男の目に射竦められ動けなくなった女は知らず柵の内側に引き込まれていた。丁寧な手付きで男は女を地面に座らせる。

 男は躊躇いなく柵を越え、崖の前に立った。

 そして、男は女に背を向けたまま語る。


「貴方に一つだけお願いがあります」


 女は立ち上がる事も、口を開くこともできなかった。


「私は今から死を選ぼうと思います。人の命を奪ったのです。これは当然の償いです。しかし、貴方が死を選ぶ理由はどこにもありません」


 男はそこで一度言葉を止めた。女には、男の後ろ姿がより鮮明に見えてきたような気がした。月にかかっていた薄雲が晴れたのであろうか。


「お願いというのは、私の醜い死に様をどうか御覧戴きたいという事であります。そして、自ら死を選ぶという事がどれだけ愚かしいか知って戴きたいのです。それを教えるのが、私のように低劣な者の命で恐縮なのではありますが」


 女は何とか喉から声を絞り出す。


「貴方は……何を……」


 男は女の言葉を半ば遮るようにして話し続ける。


「貴方の愛した者を殺した男はここでこうして死にます。貴方は復讐に囚われる必要は全くなくなるのです」


 そこで男は初めて振り返って言った。


「貴方に新たな人生を歩んで戴けるのです」


 男は柔らかく微笑んでいた。そこには何の不安も動揺も映ってはいなかった。

 ああ、この人は本気で死ぬ気なのだ、そう思った。


「本当に、貴方があの人を殺したの……?」


 女は解らなくなっていた。本当に目の前に居る男が彼を車で轢き、殺したのだろうか……。逮捕されるほどのストーカーだ。釈放された後、彼に恨みを持って彼を殺しに来てもおかしくはない。でも……。

 男は女の問いに答えようとはしなかった。

 男は振り返り崖下を見つめる。


「ああ、私はなんと幸せなのでしょうか」


 何故だか月光は一層強くなったように、女には思えた。


「私は貴方の為に、貴方の目の前で死ねるのですから」


 そして、男は荒れ狂う暗海へと身を投げた。


 長い間、女は立ちあがる事が出来ないでいた。空が白み、新たな一日の始まりを告げて、ようやく女は立ち上がった。

 女は少なくとももう死のうなどとは思えなかった。かといって、これからどのようにして生きていくかも考えられなかった。

 ただ一つ言えるのは、あの男は自分に自ら死を選ばせない呪いを残して行ったということだった。

 女は目の前で飛び降りて居なくなった男をずっと恨み続ける。

 殺してやりたいと思い続ける。

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