8. 平笠
ユエが帰り支度の手を止めて、小さな手鏡を前にしばらく考え込んだ。
「ねえリールー。この鏡って、なんだったっけ?」
(ユエに初めて月が巡ってきた日に、母君から贈られたものだよ。私がユエの使い魔になったばかりの頃だ)
「そっか……そうなんだ」
今初めて知ったような声を出す。
リールーは察して、もう少し話して聞かせる。
(いろいろ大変な時期なのだと聞いて、発情期かと言ったら母君に怒られたよ)
「そりゃ怒られるよ。そんな事があったの?」
(あった)
「わたしもそこにいた?」
(うむ)
「そっか」
ほぅ、とユエが溜め息をついた。
「ぜんぜん、どんな気持ちだったのかも思い出せない」
なくしたんだね、とユエは言った。それは事実を確認するためのもので、響きに喪失感はなかった。
リールーは知っている。ずっと見てきて知っている。
ユエの中で、この鏡にまつわる出来事、初めて月が巡ってきた日の事は、存在しなくなったのだ。
初めから無いものを喪失することはできない。
「リールー、父さんと母さんの名前、覚えてる?」
(覚えておるよ)
「わたしの名前は?」
(口には出せんぞ。だが春が由来の名前だ)
「よかった。合ってた」
(今の名を誰がつけたか、覚えているかね?)
「お師匠さま。
(この国で最初に食べたものはなんだったか?)
「
(ユエ)
「うん」
(なあ、ユエ)
「うん」
(鏡を見てくれんか)
ユエの小さな手鏡の中で、琥珀色の人の目と、金色の猫の目が向かい合う。
リールーは知っている。ずっと見てきて知っている。
彼女は彼女が知るよりも、多くをなくしていることを。
いま鏡に映るユエは、すでに昔の彼女ではなく、もう昔の彼女でもないということを。
それでも、ユエが生きているなら。
欠けても、また満ちるものであるなら。
(ユエが忘れても、私が覚えておるよ)
鏡のユエが、ふわり、笑う。
「お腹の居候をどうにかしたら、やっぱりリールーの身体を探したいな」
十五の時から変わらない、小鼻にしわの寄る笑顔。
「だって、嬉しくてたくさんキスしたいのに、右目には届かないんだもの」
※ ※ ※
じりじり陽が差す
そんな中で、ひときわ大きな円が同類の隙間を器用にすり抜けて行った。
大きな円、持ち主の肩幅よりも広い
稲穂色の髪が日差しに映えて、娘の華やいだ声があがる。
「さて東西南北、どちらへ行くのか笠の神様にきいてみよう」
右目の震えが頭蓋を通って、娘にしか聞こえない声になる。
(そのような
「魔法と
言いながら、小さな五色の紙片を笠の編み目に仕込んでいく。
「今日、この天気なら黄色。黄色い紙が指す方角に探し物があるってこと」
(こう言ってはなんだが、効くのかね?)
「ものは試し。居候はお腹いっぱいで、一年ぐらいはもちそうだしね。翡翠のランプを探すなら今だよ」
頭の上で水平に笠を持ち、膝をゆるく曲げ、体を捻って反動をつけると、ユエは平笠に回転をかけて投げ上げた。
くるくると回る笠は意外と風に流されて、ユエは見上げたままそれを追う。
このあと、とある青年の頭に笠がすっぽりかぶさる事も、ユエが青年の鎖骨に鼻っ柱をぶつける事も、この時はまだ誰も知らない。
<化け猫ユエ 完>
化け猫ユエ 帆多 丁 @T_Jota
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