7. 魔女
いい月だわ。
とてもいい月。
ねえあなた。
まだそのあたりにあるでしょう?
母さまの食べかけが。
持ってきて。
そんなふうに、魔女は亡霊を使役した。
鈴を転がすような幼い少女の声色で、藍色の美しい髪を波打たせて。
土地も季節も常識からも外れた巨大な
黒犬を捕らえた枝に花が咲く。黄色く可憐で小鳥のような花の群れが、月下の夜風に揺れて
魔女は地獄に落ちた犬の魂さえ魅了して、だらしなく舌と涎を垂らして恍惚とする黒犬どもの早贄を前に、金と藍色の瞳を細めて囁いた。
あなたたち素敵よ。ほんとうにおいしそう。
※ ※ ※
上品に、しとやかに、優しく抱きしめるように、魔女は喰う。
魔女の魂が動いている今、ユエは
魔女の捕食に「食べる」という形式は必要ない。
優しく触れた手のひらから、愛おしく抱きしめた胸から、モノの怪をすふすふと取り込んでいく。
黒犬に砕かれたはずの骨も、咬み裂かれたはずの肉も、冗談のように元通りだ。
魔女が黒犬を喰うたびに、ユエの魂が打ち震える。身体があったのなら、何度のけぞり悶えても足りないような感覚が、ユエは恐ろしい。
いつか、溺れてしまうのではないか。
すべて委ねてしまうのではないか。
わたしの何もかもを忘れて。
「ねえ母さま? どうして泣いていらっしゃるの?」
鈴を転がすような声がする。
すふすふと最後の黒犬を喰い、
「わたし、幸せよ。母さまの子でとっても幸せなのよ?」
と夢みる子のように歌い、すやすやと眠りに落ちた。
※ ※ ※
──今度は、何をなくしたんだろう。
ユエは声なく呟く。
最初になくしたのは右目だった。次になくしたのは使い魔だった。続いてなくしたのは名前だった。
やってみれば何でもできる、そんな無根拠な自信。老いて死を待つ魔女を騙した小狡さ。手に入れた魂で魔女の力を取り込めると思った無知。
過去に戻れるなら、小癪な娘の横っ面をひっぱたいてやりたい。
魔女は人の子を拾い、名を聞き、魂を分け与えて魔女にする。
一つの身体に複数の魂を宿すのは女性にしかできず、魔女の魂と緩やかに統合するのは、子供の時しかありえない。
月の巡らぬ女児だけが魔女の適格者なのだ。
それを知らず、都合よく自分を「まだ子供」と定義づけた娘は、すでに個として固まった魂を喰われかけた。
娘を救ったのは、
使い魔は
約定を破った使い魔は、傷つけたのと同じ部分を主に奪われる。その仕組みを逆手に取り、リールーは右目に魂を乗せて入り込んできた。
娘の構成が変わった事で魔女の魂は混乱し、喰うべき相手を見失って子宮の中に収まった。
だがひとたび誰かが娘の名を呼べば、魔女の魂は喰うべきものを認識して、乗っ取りにかかる。
だから故郷を遠く離れた。
だれも自分を知らない土地に行かねばならなかった。
魂を魔女に喰われたらどうなるか、ユエにもわからない。
おそらく、かつて騙した「月明かりの魔女」の生き写し、先ほどの魔女がそのまま身体を得るのだろうと思っている。
魔女の魂が活性化するたびに、または過度に飢えるたびに、娘は何かを失う。自分を形作っていた何かを。
例えば思い出。
例えば
例えば人らしさへの執着。
──
お腹がきりきりと痛んだ。魔女が出てきて傷が治っても、この痛みは去ってくれない。
ふと左目に、亡霊が所在なげに漂うのが見えた。黒犬を全て失い、存在意義も失った喰われ残りだ。
月明かりの魔女は亡霊を嫌う。食物的な意味で。
──みじめだね。
けれど同情はない。ユエは魔力を取り込んだ。
亡霊退治なら、
月夜。揺れる葉。暗中の影。
あいまいさを依代にユエは呼び出す。
「おいでませ、
たとえば影に実体を持たせるような、
あちら側の亡霊もこちら側に引き込んでしまえば、のろまな人と大した違いもなくなる。
ふわふわと漂う霊が、重力に従ってぼとりと落ちた。
突然の変化に、霊が人間くさく両手を見たりしている。
「おいでませ、
亡霊の混乱には構わず、ユエは痛みに宿るものを呼び出した。
「荘園の人たちからいろいろ預かってるの。恨みとか。しっかり受け取ってね」
まずはお腹の痛みを味わってもらおう。そこからだ。
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