6. 黒犬

 黒犬の群れから一匹目が飛び出す。周りの犬どもが一斉に吠え出す。

 右手の「爪」はかわされて、その隙を二匹目が後ろから狙う。

 後方へしなやかに跳ね上がったユエの左脚、いわば後ろ脚の「爪」で犬の喉を六つに裂き、その勢いのまま化け猫が前方へ一回転する。手に持った笠の五色布は弧を描き、鞭のように一匹目を打ち据える。

 新手の三匹目を笠の背で払い、鞭にひるんだ一匹目の額へ右の指を突き刺すと、そのまま首の骨を掴んで引っぱり延髄を噛み千切ぎる。


 化け猫が一歩踏み出すと、合わせて包囲の輪がずれる。二歩踏み出せば、その方向に輪は厚みを増す。

 笠で払った三匹目も輪に戻り、ひっきりなしに上がる吠え声で猫の聴覚が乱される。


 瞬発力や敏捷さで猫は犬に勝る。

 犬は持久力で猫に勝る。


 襲い掛かると見せかけては引き、引いたと見せかけて左右から襲い掛かる十数匹の黒犬。

 宙の亡霊がぱっくりと口を開けたのを見て、ユエは心底気分が悪くなった。


(ユエ)

「わかってるよ」


 両脚に魔法を宿す。

 猫はく跳ぶ。

 犬どもをはるかに越えて、夜風になびく稲穂の向こうへ。

 眼下を矢のように黒犬の群れが追ってくる。


 着地して、あぜ道を駆けながら眼前の藪を見る。笠を捨て、ユエは藪に飛び込む。落ちた笠が、犬の目からユエの姿を隠した。


 鋭く息を吸い、魔力を取り込む。

 「見られていない事」を条件に発動する魔法がある。見られていない場所から見られていない場所へ、空間を飛び越えるのだ。

 そうやって群れの背後から襲い、混乱を招く算段。しかしユエの魔法は発動しない。


 ──亡霊ごときが!


 口だけを赤くぱっくり開けて、亡霊が見下ろしている。犬の群れが突っ込んでくる。

 ユエは跳ね起きて、文字通りに腕を

 猫はく伸びる。

 みゅん! と伸ばした腕で檳榔樹びんろうじゅの若木を掴み、腕を縮めてその場を逃れる。陸葦オカヨシの葉が化け猫の肌をなぜる。

 若木のしなりで別の木へ飛び、枝を走ってまた別へ跳ぶ。的を絞らせずに犬どもを分散させ、幹を駆け降りては一匹、また一匹と切り裂きかじり散らかしていく。

 細く白い両腕も、真珠の頭も血で染まる。


 瞬発力や敏捷さで猫は犬に勝る。

 犬は持久力で猫に勝る。


 時間が立てばユエは疲弊し、同じことを繰り返せば犬は学習する。


「おいでませ、雷蛍らいけい!」

 魔法の碧い電光が七匹目を撃ち、動きの止まったところへユエは音もなくとびかかる。その時、右目リールーが鋭く警告を発した。

 胴を分断したきり喰えずにいた一匹が、すぐそこに転がっていた。下藪に隠れるように、待ち伏せて。

 おかで魚の跳ねるがごとく、犬の前半分が跳ねた。とびすさろうとしたユエの左脚に七匹目がまとわりつき、はね跳んできた半身の犬が右肩に食いついた。


 ぼり。


 肩甲骨と鎖骨から、そんな音が首を通って頭蓋に届く。

「んあああああ!!!」

 左手で右肩の犬を切り裂き、左脚の七匹目を狙った時には、八匹目が飛びかかってきていた。

 とっさに喉をかばい、左腕の自由を奪われる。

 仰向けに倒され、激痛で左目の視界が霞む。

(ユエ!)

 リールーが気を張って、右目の視界を保っている。ユエは牙をむき、覆いかぶさる黒犬の鼻柱をもぎ取った。そこに九匹目、十匹目と重なってくる。

 封じられた左脚と自由な右脚の間に、一匹いるのが分かった。

 足の「爪」で切り裂こうとするが、膝の内側に入られている。爪先が届かない。

 そして、右の太腿に食いつかれた。

「ぎっ! んやぁああああ!」

 肉が裂けて、悲鳴が喉をつく。ほうぼうに牙が食い込んですり抜けられない。


 ──くそっ。


 奥歯をぎりぎりと噛む。

 身体の中心から末端へ、熱が満ちてくる。

 前に、けりをつけたかった。

 こいつらは月の巡りが来た女の、子宮を喰う。

 わたしのみやには何がいる?


 猫纏ねこまといが内側から解かれる。化け猫が人に戻る。

 もう痛みは感じない。ひたすらに熱い。

 

「ごめん、リールー」

(気にするな、ユエ)

 情けなくて、涙が出てきた。


 ──負けか。


 笑いの口を張り付けて、呪い師の亡霊が降りてくる。


 ──笑えない。

 ──みじめだよ? あんたもわたしも。


 宿主の危機が居候に伝わってしまっている。


 ユエの子宮に間借りし、モノの怪を喰らって飢えをしのぐもの。

 十五歳の娘が迂闊に手を出した、翡翠のランプで永遠に燃える灯火。

 世界のことわりと心通わせる生き物が、繁殖のために人の子に植え付ける自身の一部。



 魔女の魂が目を覚ました。

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