5. 化猫

たびのモノの怪は犬のである」

 だまが巡り、声を人々の耳元に落として行く。

 

各々おのおの、家に埋まる護り犬を掘り出し、沢へ流して水葬とせよ。のちのち、犬の背を下に埋めてはならぬ。地獄へ落ちた犬の魂はやがて変じ、ような災いとなろう。奴らは埋めた骨をたどり、家々に現れたのだ」


 沢へ流すのは、文字通りの意味だ。災いのきっかけを土地から追い出す。

 ここからが本題。


「黒犬は、女の身から零れる血が呼び寄せたモノにあらず。土の人形が呼び寄せたモノにもあらず。奴らは月の巡りを受けた女から、血と揺りかごを盗みに現れたモノである。そも、月によって我らの身体から零れる血は、けがれなどではないのだ。我々が新たな命を宿すための、小さな輪廻によって溢れるものなのだ」


 ユエ自身、月のものは来る。下腹に居候を抱えてなお、きっちり満月に来る。


「痛みを覚え、睡魔に襲われるのは、ひじりなる世に我らがほんのわずか近づき、この世からほんのわずか遠ざかるがゆえ。此度のモノの怪はその隙につけこんだ卑劣なるモノである。我らが身体の、我らが同胞の尊ぶべき揺りかごを冒したモノを、わたしは許しておかぬ」


 偶像の演説としては上出来だろうと思う。

 ほうぼうで犬の遠吠えが聞こえる。

 ただの野犬か、それとも獲物を見失った黒犬が上げる声か。


「日の出まで屋敷から出ることなかれ。だが約束しよう。次の満月も、その次の満月も、黒犬に怯える夜は来ない」


 言い切るのは、まじない師としての作法。生ける偶像としての務め。

 陳情の間を後にしながら、ユエはひとつ言い置いた。


「わたしの戦いはおぞましいぞ」

 


 ※ ※ ※



 ズレないといいな、とユエは思った。

 これから行う事を考えれば、小さな心配なのだけれど。

 下帯は念入りに固く締めたけれど。

 筒袴も赤いのを用意して来たけれど。

 ズレないといいな。


 屋敷を出て、広く埃っぽい裸道へ出る。

 目の前に広がる水田が満月に輝いている。


 犬の遠吠えが増える。

 平笠から垂れる五色の布が、夜風に揺れる。

 屋敷から掘り出した犬の骨が、目の前にある。

 

 ここで待っていれば、においに惹かれて黒犬は来るだろう。家という結界の外にあって、月のものを迎えている女はユエしかいない。

 けれどお腹はきりきり痛いし、こんな事はさっさと終わらせてしまいたい。


(月の巡りが悪いな)

「うまいこと言ったつもり?」

 

 リールーの冗談にげんなりとため息をついて、ユエは意識を開いた。

 周囲に満ちる魔力を吸い込み、体に留める。

 使役できれば万々歳だが「地獄に落ちた護り犬」なんてものは今まで扱ったことがない。


 犬の骨を依代にし、魔法の文脈でモノの怪を呼び出す。


「おいでませ、黒犬!」


 間髪をおかず、ユエめがけて骨から影が飛びかかった。身を屈めたユエから、平笠ひらかさが跳ね飛ぶ。

 行き違って着地した影が、よろめいて腹ばいに倒れた。

「猫の爪は、鋭いよ?」

 立ち上がり振り返ったユエの髪はどす黒く返り血に汚れ、人と猫の相貌が爛々と輝いている。


 すれ違いざまのひと掻き。


 猫の魔法「引き裂く指」

 王族猫リールーから引き出す魔法のひとつ。


 ユエが手についた血を舐めとる。その口が裂け、牙が覗く。真っ白で細かな毛が顔や首を覆って、頭頂から三角の耳が突き出る。

 真珠の光沢をもつ白猫の頭。稲穂色の毛をひとふさ流し、琥珀色の左目と金の右目が月に光る。

 右手を血に濡らし、人の身に猫の首を戴いた異形のモノがそこにいた。


 右目が震える。

(準備よろし。喰えるぞ、ユエ)

「いただきます」


 ユエは牙を剥き、立ち上がろうともがく犬型の影へ覆い被さった。


 ばりん。


 悲鳴を上げる間も与えず、黒犬の頭を噛み砕いて飲み込む。

 屋敷の方から悲鳴が聞こえる。ちらりと目をやったが、どうやらこの姿を見た誰かのものだった。

 ならば問題はない。

 この姿を見る者に親しまれてはならない。

 リールーの魔法で猫をまとい、偶像として集めた情念と畏怖でモノの怪に近づいた人間。



 それが化け猫ユエだった。



 ばりん。


 モノの怪に味はしない。食べ応えもない。噛み砕くそばから黒犬は存在を失って、下腹の居候に吸収される。

 「食べる」という形をなぞるのは、居候がモノの怪を「喰らう」ために必要な手順に過ぎない。

 今まで感じていた焦燥感のかわりに、満足感と恍惚感が腹を満たしていく。


 黒犬の大きさはオオカミ程度、喰うのにそう時間はかからない。あっと言う間に全身を平らげると、化け猫は立ち上がって耳をそばだてた。


 遠吠えがやんでいる。裸道に、水田の中に、あぜ道に、猫の目が犬の影を捉える。周りを取り囲んで、じりじりと包囲の輪を狭めてきている。

 

「やっぱり、多いなぁ……」


 口の周りにこびりついた残骸を舌でこそいだ。埋められた骨の数だけ黒犬が在る。

 ごふごふと息を荒げる犬どもの頭の上、月光に嫌われたかのような人影が宙空に在る。

 擦り切れてぶかぶかの貫頭衣に、くさわらの平笠を被った男の影へと、化け猫は喉の奥で唸った。

 

 影は誰にも見えていないだろう。

 あれは亡霊だ。

 おそらく、何匹もの護り犬を地獄に落とした呪い師の怨霊。

 ずっとああやって、女たちの腹が喰われるのを見ていたというのか。

 自らの平笠を拾って、ユエはひと言吐き捨てた。


「悪趣味」

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