4. 呪師

(ユエ、すまぬ。まぶたを……)

 水浴びを済ませて間もなく、リールーが震えた。

「眠い?」

(うむ。ちと張り切りすぎた。ユエも早く休みたまえ)

「うん。おやすみ」

 右目を閉じてやる。

 猫の目が使えなくなって、急に真っ暗になったように感じた。窓のそばだけが月でくっきり明るい。

 

 化粧台に置きっ放しの手鏡を、なんとなしに手に取る。

 十四歳の時に母から、祝いの品として贈られたものだ。初めて月が巡ってきて、痛くて不安で、なのにいわわれて、ふわふわと落ち着かない日だった。


 あの家の子も、わたしみたいに遅かったら死なずにすんだのかな。


 そう思った。


 犠牲になった娘は、十二歳だったという。


 あの家の「人形」は、もともと曾祖母が北の小国から持ち込んだ風習だった。

 月の巡りを迎えた娘が土をこねて作り、その後一年、月のものが来るたびに経血を塗って仕上げるおまもり人形なのだと。


 その人形が黒犬を呼び込んだのではないか。

 お前たちが全ての始まりなのではないか。

 荘園の農民たちから、そう疑われているらしい。



 だからあの家族は、ユエの来訪におびえたのだ。

 ユエが退治しようとしている悪いモノは、すなわち自分たちの事だと思いこんでいたのだ。



 ──みんなが、言うんだ。


 昼間、帰路についたユエを、「始まりの家」の少年が追いかけて来た。


「み、みんなが、言うんだ。姉ちゃんが事をしたから、だからモノの怪が出たんだって。得体の知れない人形なんか作ったからいけないんだって」

 

 雨季が明けて緑濃く、日の暮れかかる裸道で、少年は情念を吐き出し続けた。

 

「おれ、おれ、言っちゃったんだ。姉ちゃんが変な事してたから、ヘンなことしてるって言ったら、泣かせちゃったんだ。そしたらおっも、おん婆様ばさもおれの事怒るから、腹が立ったし、友だちに言っちゃったんだ。姉ちゃんが股から血が出て、土こねたって。気持ち悪いって言っちゃったんだ。そしたら、そしたら、姉ちゃん、死んじゃったんだ」


 娘の墓は家のすぐ裏に立てたが、ある夜誰かに倒されたと言う。

 少年は甲高く泣き声を上げながら、最後にこう言った


「姉ちゃの、はか、立てたっていいよな? 姉ちゃは、汚くないよな? 汚れてなんかないよな?」


 少年の気持ちは量れない。しかし、娘の境遇には感じるものがあった。

 初潮を迎えて、驚いただろう。不安だっただろう。その日、母親や祖母から何を聞いたのだろう。

 そんな夜に無残に殺された娘を思った。人形を作らせた母を思った。それを受け継いだ祖母を思った。それを持ち込んだ曾祖母を思った。

 その時だけ、ユエは偶像になりきれなかった。


「汚くなんか、ないよ」




 ──手鏡を置く。

 

 あの後、他の家をもう一度訪ねて慎重に確認を取った。どの家の犠牲者にも月のものが訪れていた。

 月の巡ってきた女が狙いであるなら、黒犬の由来もそれに近い何かであるはずだ。


 満月は明日。もうあまり時間はない。

 

 焦燥感がまた来る。

 下腹の居候が飢えてきている。今日明日という話ではないが、飢えが極まれば居候はモノの怪の代わりに、ユエの魂を喰いにくる。


 紛らわせようと、下腹部をさする。

 こいつも屋台の平麺で満足してくれればいいのにな、と思って、ふと閃いた。


 モノの怪とされていないので、考えから漏れていた。


 以前に喰った小盗コン小鬼・イオン

 この鬼をけるために、犬が捧げられる。



 ※ ※ ※



 荘園の住人たちがぞくぞくと屋敷に集まってくる。

 西の空を血のように赤く染めて、日が沈んでいく。

 

 不安げな住人たちが陳情の間に入っていくのを、苦い顔の荘園主と共にユエは見守る。顔は覆わず、五色の布を垂らした平笠に赤い筒袴、深紅の胴布イェムと軽装だ。

「これでモノの怪を退治できるのだろうな?」

「もちろんです」

 即答してやった。


(しかし、護り犬を悪鬼に転じさせるとは、ずいぶんと回りくどいことだ)


 リールーがぼそりとつぶやく。


 まじないは、手順さえ合っていれば誰がやっても一定の効果を持つ。そして、手順を変えればまじないはのろいになる。


 子盗コン小鬼・イオンから妊婦を護る為に捧げた犬は、家の中に埋めて護り犬とする。家の女が身ごもると、寝床を犬の真上に移して護ってもらう。これが大まかな手順だ。

 この屋敷の犬は離れの床下に埋まっており、掘り返させて確認した骨は、背骨が下になっていた。


 天地を逆転させる埋葬方法。意味は「地獄へ落とす」

 家という結界の綻びは、この骨だ。


 右目がまた震える。

(発現するのに五十年とは、気の長い事だよ)

のろいを仕掛けた本人も、もう死んでるんじゃないかな」


 五十年前、この荘園で死産が続いた頃にまじない師がやってきて、護り犬をやり直させたと聞いた。

 それから今まで、護り犬が改められなかった理由は不明だ。死産の流行がたまたま治まったのか、それとも小鬼コン祓いとしては一応効いたのか、確認する時間も意味もない。

 護り犬にのろいを含めた理由にも、ユエは興味がない。

 この荘園がまじない師の怨みを買ったのだとしても、それは自分に関わりの無いことだと思っている。


 ただ、のろいの結果については心底気分が悪かった。

 趣味のいい呪いなんて全く思いつかないけれど、悪趣味だと思った。

 ただでさえ痛くてしんどいというのに、それをモノの怪に狙わせる神経が理解できない。

 もし当の呪い師がここにいたら、下腹部をぎゅんぎゅんと締め付けるようなこの痛みを味わわせてやりたい。


 「始まりの家」の家族が最後にやってきた。他の住民たちがどよめく中、ユエは彼らに頷いて見せる。

 彼らが原因ではない。彼らの娘が原因でもない。

 そのことぐらいは、示しておきたい。


 陳情の間で一段高いところへ登り、ユエは「木霊」を呼び出した。

 偶像として、まじない師として、仕事の仕上げが始まる。

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