狼の狂夢

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狼の狂夢

 いつの間にやら揺らめき始めた視界を見落とし、木々の隙間を縫ってかの高台へ走る私は、何時いつぞやからか此処ここに立ち込めた霧の先に、見失った正気をの瞬間にのみ再び手にしたような気がしていた。痛みがあったからだ。もしくは痛みがあると思い込んでいたのか……

 少し酔うているのか。尖った枝や剃刀のように鋭利な岩肌に削られる四肢を感じ、痛みを覚え、の事が嬉しく思えたのは、突然狂い死に始めた私の集落の仲間達の最後の一匹である俺は仲間達から取り残され、逸脱し、死に見限られて、生に連れ去れれていく恐怖をめしいではなく、生々しく眼に刻む事が出来るゆえに、の苦しみこそが彼らへの手向けになろうかと、己の中にたった今生まれた宗教に感謝したからだ。

 気はれている。

 だが、私の正気も、狂気も、れらを立証する仲間達はもういない。私の全ては狂気に埋もれたのだ。私は私の周りの狂気を見送り、最後にここにいる。

 月が雲に隠れ、老いにともない効かなくなった私の夜目の代わりに、私の嗅覚が私の後ろへと消えていくねずみ百足むかでなどの存在を教えた。目的の場所は四肢が覚えている。まだ若い頃、この先にある岩の上で私はよく吠


 ※ ※ ※


 魚の鱗みたいにうごめく、プールの水面。その中で僕は投げ出した体を極限まで放棄して浮かんでいたのだけれど、いつの間にやら端の方へと流されていて、ゴツン、漂流者の頭の天辺が青色したプールサイドに殴られた。殴られた事に大きな興味はなく、青空とそこに浮かぶ獣じみた形の雲を眺めていると、視界の端で小さな視線と目が合い、無機質ながらも愛嬌のある黒いまん丸の目に思わず微笑んだ。

 カナヘビは僕をしばらく見降ろしてて、何故なぜだか憐れむような視線に思え、このちっぽけな、寒い時期には体すら動かせなくなる爬虫類に、そんな複雑な思考が存在するのだろうか、と吃逆しゃっくりのように湧き上がった物思いの相手をした後、僕自身もそれほど複雑じゃないさね。結局のところ、みんな好きと嫌いの組み合わせ。僕は体がでかいだけの愚かモンだな。心の中で呟いて、それからゆっくり水の中に沈んでく。小さな空気の玉が鼻の穴から逃げてって、上の方、青い方、明るい方に飛んでった。外で鳴いてた蝉の音は消えて、代わりに水のうねりが耳に響いた。何故だかこの前、花壇の脇から出てきた蛇の事を思い出してた。


「縁起がいいんじゃないの?」

 彼女はそう言って両手を広げ、マニュキュアを気にしてる。ライトグリーンが彼女のお気に入り。なんでも願掛けをしてるらしい。ツルツル光沢のある爪の先が剥げ掛けてるのが素敵なんだとか言っている。

「だって、蛇とか爬虫類って金運の象徴じゃん」

「……あー、そう」

 ソファーにしゃがみ込んで、ひらひら手を動かして、いろんな角度で爪を眺めてるから、熱帯地方にいるような気味悪い、派手な蝶々が部屋の中に迷い込んだみたいな気がした。その蝶からはプラスチックを噛み潰したようなケミカルな匂いがしてて、僕は窓を開けるんだけど外には物売りが卵の入った籠を大事そうに抱えていて、時折、思い出しては卵の奥底に隠した財布をめくりだして何やら安心した顔をしてる。

「夢占いで言ってた。蜥蜴とかげも金運の象徴。でもすぐ逃げちゃうから注意」

「あれはカナヘビだった」

 椅子に座って資料を捲ってから、書きかけのレポートを読み返して、ざっくりと赤ペンを入れていくけど、泳いでからと言うものどうにも目がかすんで仕方なく、自分が書いた赤い線がぼやけて広がり、淡く太く滲んで見える。何度か目を強く閉じて、ちょっとはマシになると虫食いだらけの資料を覗き込み、この資料の左下の角には茶ばんだ染みが付いてるのだけど、これは元々柿渋を付けたあと。数百年の時間をた今は鮮やかさは失われてるけど、柿渋独特の香りがするんじゃないかと鼻を近づけてみたりする。

 プラスティックみたいな臭いしかしない。

 資料には墨と筆で書かれた文字が並び、その大半は漢字で、読み方も現代とはちょいと勝手が違い、文法にも少々違った趣のアルゴリズムが適応されてる。とはいえ文法的なギミックはそれほど難解ではなく、容易にその習性に馴染むことはできるが、難しい点はもっと深い認識の部分に存在し、言うなれば数百年前に咲き乱れた黄色も、現代に狂い咲いた黄色も同じ花ではあるのに、片方はツヅミグサ、片方はタンポポと言った風に違えてしまう。

 違えるのだ。

 見えてるものは同じはずなのに、違ってしまうから僕達はいつでも真っすぐ落ちる事無く、流転する。苦し紛れに転がっていく。真っ逆さまには消えはしな


※ ※ ※


 まず、私が、私を取り戻したのは、土の上に投げ出されてヒタヒタと痙攣した舌先からで、ざらつく砂粒と細かな土の感触が、渋味しぶみを帯びて舌から口の中へと這い上がってくる、その嫌悪感が私という者の縁取ふちどりを埋め、そのおぞましさゆえに未だ私の中でわずかに揺れていた嫌悪の炎があおりを受けたように踊り始めるさまを感じた。しくも私は満たされていたのだろう、私が憎み、私の集落の者達を殺した狂気に心臓を打たれ、血液を巡らされているのだと、死に場所を選べとむちを入れているのだと。吐いた息は湿っぽく、目は見えぬが口から漂う狂気の香りに嗅覚は敏感である。

 あの鉄砲が憎い、奴らが狂気を運んで来たに違いない。奴らに追われて行くうちに狂気に飲まれる者が増え、元々、私達が居た土地は今や禿げ上がり、死に絶えた虫の音の中を乾いた土が舞っている。逃げて逃げて逃げ回る後ろには、あの鉄の筒が此方こちらに向けられて、私達は走って走って走るうちに、俺の友は千切れた腕に気づかず、俺のすぐ脇で顔面を山道に擦り付けながら、れでも走り続ける友が「てなんてえさね」と、れでも走り続けるうちに奴は狂気に飲まれてしまった。かたわらを走ってた我が子に噛みついて、後は私の知るよしもない。友のうめき声と、友の子供の悲痛なうなり声がずっと後ろに聞こえ、その声もすぐに遠くなり、最後には雷のような


 四肢に力が戻り始めている事に気づいた私は、肉体の動かし方を頭の奥の方から手繰って、まず四肢を確認するように闇雲にではあるが、ゆっくりと動かして空を掻くと、そのさま、まるで陸で水練をするような惨めな姿だろうと容易に想像できた。だが肉体は呼吸する毎に私の元へ戻ってきたのだ。むせるような狂気を吐き出す事、私は正気に近づいているのか、れとも、れは狂気その物に我が身が喰わ


※ ※ ※


反物たんものおろし生業なりわいにしている柴屋しばやには孫兵衛まごべえという名の下男げなんが居り、この男、身の丈も恰幅かっぷくも特筆する点のない姿であるが、血生臭い性根しょうねの持ち主で、暇な時があれば禅寺などへおもむき「儂には獣が付いとるのです」と常に平静を欠く事を恐れて坊主にすがるような男だった。孫兵衛まごべえ御縄おなわになったのは、禅寺と柴家しばけの間にある道祖神を祭った古びた御宮おみやの中で、誰の物かわからぬ男根だんこんを手に項垂うなだれ、そのさまは顔中血にまみれ、身にまとった鮮やかな藍色した女物の着物を黒々と汚していた。孫兵衛まごべえの口の中には臓物の欠片が挟まっていたそうな。ともすると人を食ってたのかもしれんが、町内に行方知れずの者は居らず、行きずりの者を襲ったのか、どうなのか、まったくもって謎が残って……』

 資料を訳している間は勝っていた好奇心が、次第に疑問と恐怖に削がれていくのを感じ、顔を上げた。窓の外にいた卵売りは立ち去っていて、後ろのソファには座ったまま眠る女。女は広げた手を投げ出して、その爪は赤色。僕が机に向かっている間に色を変えたのだろうか。

 立ち上がり台所へ行って水を一杯飲む間、自分がどれほど水を求めていたのか実感し、背中に張り付いた、汗ばんだシャツを感じていた。日が随分と傾き始めていた。外がオレンジがかって見えた。

 資料に書かれているのは、天保てんぽうの時代に外様とざま大名である藩主に献上した年貢や、御上おかみへの嘆願たんがん、年貢の引き下げや遅れの相談に、害獣、主にを追い払うためのおどづつの借用、といった事柄のはずだった。

 机に置いたグラスの中で揺れる水が、西日を浴びて艶めかしく輝く影をノートに落とし、はばかりながらおどづつの借用を嘆願たんがんする文面を読むうちに、わずかながらウツラウツラした僕が、そこにありもしないぺーじめくりだしたのだろうか。首の周りをさすって机に戻ると、開けていた窓から忍び込んだ風に古文書の資料が閉じられ、再び僕が腰を下ろして先程まで訳していたぺーじめくるも、そこに書かれていたのは荏胡麻えごま油や酒が何升なんしょう何斗なんと上納じょうのうされたか記されているのみ。

 やはりあの文面はうつつを抜かしていた僕が見た夢なのだろうが、少々猟奇的な内容に今更になって悪趣味な好奇心が沸き上がり、夢の続きを見るすべがあれば、と苦笑いし、気配を感じて振り向いた先で女が寝てる。ソファに上半身を投げ出して、いよいよ本気で眠り始めている様子だから、僕は椅子から降りて腹ばいになった。

 音を出さないように努め、女の方へ近づきながら、床に転がっていたガラスの破片を見つけ、落ちていた長い髪の毛に顔をくすぐられ、女の足の爪に塗られたマニュキュア、足の爪はペディキュアと呼ぶらしいが、こちらの色は手の方とは違い、真っ黒に塗られていて、それが妙に僕の胃のあたりをただれさせるから、女の足首に飛びつき、アキレス腱に噛みつ


※ ※ ※


 血の味は我が身の味か、将又はたまた噛み殺した敵の名残か、生臭い吐息とよだれと共に剣歯けんしから滴る血が点々と私の通った道の後に残る。

 れは目印になるだろう。私の命を奪おうと躍起やっきになっている軍勢にとって、私は詰まらぬ獲物に違いなかったが、私の目的はすでに敵には無く、いや、初めからあのような連中どうでもよかった。私達は私達の掟の中、静かに暮らしていただけだが、連中は唯の下郎げろう共だ、奴らは何もわかっていない。我々と同様、いずれ死ぬ事を免れないが、ああも容易たやすく手にかける醜悪さは、永遠に生きる幻を見続ける呪いを掛けられている証だろう。

 木々の枝に隠れた夜の空が雲を抱き、孕ませた白い輝きがにじみ、の下に反り立つように黒い影となって立ちすくむ岩がある。数年前まで我々が根城にしていた岩場であり、あの岩の下で生まれた私にとって、其処そこに行く事は何かしらの意味があるはずなのだが、私が足を踏み出せば、狂気も私の中に歩み寄ってくる。私が何故あの場所へ向かうのか、数時間前までは知っていたはずなのだが、今は目的を見失いながらも、唯々ただただ行動のみが何者かに操られたがごとく突き進み、夢幻の世界に迷い込んだように私は走り、記憶の奥底、白黒に色褪せた幼少の頃合いをなぞるように、そうだ、あの日も、私は、一人群れを離れて、川辺を只管ひたすら下り、のうちに自分の知らない臭いが広がっていく下界におののき、日の暮れた山中を駆け戻って木々の隙間からあの岩を見たのだ。岩の下には狩ってきた獲物を囲む懐かしい顔が、そうだ、この臭い、仲間達の臭いが岩の方からする。その光景が嬉しくて俺は岩の天辺に駆け上がる。

 爪を立てて岩を掴み、駆け上がった時、雲が割れて白く眩い月が顔を出して、俺を照らし出し、岩の下には気の振れるずっと前の仲間達が、死んだ動物の周りで欠伸をしたり、眠ったり伸びをしたり、俺は連中に帰ってきた事を知らせたくて、月に向かって吠えようとした時、山のふもとの方から火の臭いがした。火は鉄の筒をたずさえて、俺の眉間は殴られたようになって、頭の中が熱くなり、溶けていくのを





                        完



追記:近況ノートの方に解説を追加いたしました。

リンクを張っておきます。https://kakuyomu.jp/users/D-ghost-works/news/1177354054898072907

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