夏のひとり言

砂田計々

夏のひとり言

 交差点は、信号機を青色にして待ち構えていた。

 これでもう七度目である。


 夏の開始を体現したような、特別な日照りに思わず窓を下すと、夏の匂いが一息に吹き込んできた。風は熱気に蒸れた車内を縦横無尽にかき混ぜる。汗で湿ってはりついた袖を折り込んでまくり、半袖にしておけばよかったと少し後悔した。

 真正面の先に小さく見えている次の信号は赤だった。ただ、そこにたどり着くころには待ち伏せたように、また青に変わるのだろう。

 どういうわけか今日は運がきていて、ここまで順調に七連続の青だった。まさか狙って速度を落としたり、車線を変更したりといったズルは一切していない。平常通りの安全運転を心がけているだけだった。

 八度目も直前でやはり青になった。

 カーステレオの女性シンガーは近ごろ人気急上昇で、恋愛に執着した歌に感嘆させられながら、俺にもシンガーソングライターの元カノがいればなぁ、などと考えていると、早くも次の交差点に差し掛かった。

 九度目の青。

 二人だけの過去について、あけすけにあれこれと暴露されてしまうのはあまりいい気がしないけど、音楽という形で堂々と美化して歌われるのなら、元恋人たちも悪い気はしないだろう。歌い継がれる限り、永遠に想ってくれている人がいる、という幻想で文字通り、ノーミュージック・ノーライフ、余生を生きていける。全国のライブ会場で、観客にまみれた元カレの面々が、これは俺のことに違いない、とほくそ笑んでいる絵が浮かぶ。

 記念すべき、十度目の青信号は→だった。

 矢印式信号機の意志に身を任せて、ハンドルを右に切る。とっくに自宅は通過済みだった。あみだくじという遊びが具えている運命性に似たものを感じながら、機械的に矢印の方へ流されていくのは楽でよかった。一体、右には何があるのかと期待しながらも、何があっても関知しないという無責任さで軽率に車を走らせた。

 二、三個連続で青が続いたところまでは、ただただ気持ちがよかった。それが五個、六個となるうちに異様なことだとさすがに疑い始めた。良いことであっても、あまりにそれが重なると訝しむのが人間で、経験上、そのような際には必ず裏があるのだ。それが証拠のように、いつからか前方車両がすっかり消え失せている。見通しの良くなった前方で、アスファルトの表面が直射日光にじりじりと焼かれて黒く揺れていた。バックミラーに目をやると、どうやら後続車もないようだ。日差しがますます強くなる正午過ぎ。加工のしすぎで白飛びしたような街並みに目を細める。肩透かしを食らった今年の夏は、むなしく威張る暑さだけが確かにあった。

 次の青を直進する。

 女性シンガーが口にする言葉の端くれがときどきぐさりと刺さり、その度に、勝手に結びついてしまう過去のいくつかのシーンに無意識にトリップさせられていると、一体ここがいつの夏なのかわからなくなる錯覚があった。このまま車を走らせて、昔住んでいたアパートにでも行けば、読まないままの漫画が足元に積まれていて、カーテンレールで黒々としたバンドTが干された1DKがそのままで、相変わらず当時の恋人と暮らしていそうな気さえした。歌うのは苦手な人だったから、残念ながらその後もシンガーソングライターにはなっていないのだろうけど。それにとって代わる、充実した生活は手に入れていると思う。

 そうこうしているうちに、もう何度目の青なのかはわからなくなってしまっていた。

 前方には交差点。当然、信号は青だった。

「――フフ」

 交差点にたどり着く手前で突然、女性シンガーが笑った気がした。その一瞬、目を離した隙に信号は青から黄になり、赤に変わっていた。俺はブレーキを踏んだ。

「ちょっと、急ブレーキするって言ってよ」

 助手席で前のめりになった彼女が不機嫌に言う。あの頃と少しも変っていない。

「ごめん。行けると思った」

 彼女は不満たっぷりな顔で「フフフ」と笑った。

 現在地を確認すると、そこは古巣のアパートへと続く大通りだった。次の信号を直進して、すぐ左の路地に折れれば、その外観の一部が見えるはずだ。心もとない錆びた外階段がついた二階建て。西向き、二階の角部屋だった。もう、十年近く前になる。

 青になったのを確認して、発進する。交差点の先で路地の入口が見えても、左には折れなかった。

「あれ、どこ行くの?」

「ちょっとドライブしよう」

 少しの間、沈黙がひろがった。

 手元の携帯に目を落とした彼女の横顔を盗み見る。美醜は横顔に集約されるのかもしれない。眉間から鼻先、唇、顎に至るまでの高低差に彼女の魅力が凝縮されていた。

「しょうがないなぁ」

 彼女の声はそれほど嫌そうには聞こえなかった。


 この後はまた、どこをどう走っても信号は青ばかりだった。

 幹線道路、駅前、線路沿い、山道、海辺、堤防、ドライブは順調に距離だけを伸ばし、二人の時間はどうにも間が持たなかった。

 当時、二人は何についてよく話し、時間を過ごしていたのか。さっぱり思い出せない。とは言え、当時をうまく再現できたとしても、その先に待っている未来は破滅で、碌なことにはならないんだけど。

「これ、だれの曲?」

 カーステレオのボリュームを操作しながら久しぶりに彼女がしゃべった。

「〇△※▽×□」

「えー知らない。けど、良いね」

 今もってガラケーを携えて現れた人間が知るはずがない。

「最近の歌手だから」

「ふーん」

 近ごろ、運転中はもっぱらこの歌手を延々とリピートしている。音楽的な嗜好は彼女と昔からよく合った。相手が好きそうな音楽を聞かせあったりもした。だから、良いねと言われて、今の俺と当時の彼女が同じ感性でいることが変に嬉しかった。

 彼女は覚えたての曲を鼻歌でなぞって上機嫌にしていた。


 クイズで『今、何問目?』というのがあるけど、今、何連続目なんだろう。一回、赤に引っかかりはしたけど、それから数えても異常な数字だった。

「どこまでも青が続くと、遠くの世界に連れていかれるような気がして不安になるな」

 ひとり言のように言ったけど、車中は二人だけだし、彼女の耳には届いたはずだから何か言ってくれるのを待っていたけど、何も言ってくれなかった。彼女の関心はただ携帯に向いていて、俺の言ったことは敢え無くノーカウントとされた。ミクシィでもしているのだろうか。

「あ」

 と、俺は閃いて、閃いたことをわざとらしく声に出した。

「なに」

 食いついた。

「行きたい場所がある」

「どこ」

「信号のない場所」

 俺は彼女の意見も聞かずに、車の方向を転換させた。


 行きたい場所が明確であれば、このうす気味悪い青信号地獄もそう悪くない。到着予定を巻きにまいて、あっという間だった。

 この町唯一のラウンドアバウトに徐行で進入する。サークル状の道路をただ旋回して、ゆっくりと出口を吟味する。

「え、何、この道、面白いっ」

「これも最近できた」

 一周、二周と旋回して、思案する。

 すると、どこからか他の車が次々とサークル内に進入してきて、同じように時計回りにぐるぐると旋回し始めた。どの車も行先を見失ったようにここに集まってきては、出口を見つけられずにいつまでも旋回している。彼女はくるくると目と首を回転させて「これぶつかったりしないのかな?」と楽しそうだった。

 今年の夏は蟠った不思議な力で満ちている。去年までとはまるっきり違っていた。

 誰も口にはしないけど、共通認識として誰もが心でそう感じているはずだ。例えば、行き場をなくしたエネルギーが夏の暑さに暴発して、こんな青臭い白昼夢を見させているのだとしても、十分に納得ができる。それほど、夏は不可思議な季節になってしまっていた。

「目、回るね」

 彼女にも疲れがきたのか、先ほどまでの元気が見えない様子で言った。

「うん」

 俺は返事すると、勢いをつけてハンドルを切り、車を元来た道の反対車線になんとか滑り込ませる。このドライブの目的地は、一つしか思い浮かばなかった。

「帰ろうか」


 帰りは海沿いの道を選んだ。

 助手席のシートを倒して、寝るのかと思ったら、カーステレオに合わせてお気に入りのフレーズを鼻歌で歌っている。

「シンガーソングライターにでもなれば?」

 思ってもみない俺の提案にこちらを一度見やり、彼女はまんざらでもない様子で「フフフ」と笑って、茜色になった窓外を眺めた。

 それ以上、かける言葉は見つからなかった。

 もう日が沈む。彼女とも、もうすぐ別れになる。昔の俺と彼女が暮らすアパートがすぐそこまで来ていた。彼女を送り届けるまでのドライブ。


 「夏が始まる」

 ひとり言は静かに響いた。

 

 道路わきに立ち並ぶだけの信号はどこまでも青く、耳にさわる鼻歌がへたくそだった。

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