(その5)
甚六は、深川の浄心寺の裏の廃屋に住んでいた。
それなりに大きな百姓家だが、壁は剥げ落ち、屋根も傾いていた。
前方は大きな霊厳寺と浄心寺が連なり、裏は仙台堀川と木場なので、見張ろうと思ってやって来た浮多郎だが、隠れる場所がまるでない。
当たって砕けろとばかりに、浮多郎は障子戸を引いて声を掛けたが、応えがない。
土間のすぐの居間のとば口に、大きな囲炉裏が切ってあり、自在鉤が太い梁から吊り下がっていた。
居間の正面の襖に肉筆画が張ってあった。
土間に上がり、近寄って見た。
・・・しどけなく赤い襦袢の帯をほどき、片手を後ろに突いて胸のふくらみと太ももをわずかに見せ、艶然と微笑むお勝の肖像画だった。
その時、「何者じゃ!」と、雷のような大きな声を浴びせかけられたので、浮多郎は心ノ臓が止まるかと思った。
振り向くと、戸口に蓬髪の若者が立っていた。
「勝手に上がり込んで、すまん」
と謝ったが、ずんずんと向かってきたので、殴りかかるのかと思ったが、若者は襖のお勝の肖像画を恭しく外して大きな画帳に挟み込んだ。
「甚六さん。きょうは、奉行所の用でやって来ました」
そういって、十手の房を見せたが、甚六はチラとも見ずに、自在鉤にぶら下がった鍋を引き寄せて口を付け、中の雑炊を直に食べはじめた。
「奉行所の犬が、何を探りに来た!」
雑炊を食べ終えた甚六は、はじめて見たような目で浮多郎を見やった。
「浜町河岸のお勝さんのことでやって来ました」
「お勝さんの何を聞きたい」
狂犬のような目の光は、浮多郎の動きを一瞬たりとも逃さない。
「いちばん最近では、いつ会いました?」
「きのうだ」
「きのうのいつで?」
「日暮れ前だ」
「どこで?」
「ここで」
岡埜と浮多郎が根岸の隠居宅に幸兵衛とお勝をたずねたあと、大川橋のたもとでどじょう鍋をたべているころ、お勝は木場近くまでやって来たということになる?
「お勝さんは、何と?」
甚六は、なりもみすぼらしく、痩せた野良犬のような男だが、根は正直そうに見えた。水墨画の腕もなかなかのものだ。
「『逃げて』と」
「どうして、また」
「『殺されるから』と」
「だれに殺される、と?」
「そいつは分からねえ。ただ、『じぶんといっしょに逃げて』というばかりさ」
喜之助がひょっとこ面の男に殺され、犯人と目された好次朗が殺され、額には甚六を犯人と示唆する将棋の駒が打ち込まれていた。
ふたりとも、お勝の情人だった。
お勝の妖しげな肖像画を描いたということは、甚六も情人にちがいない。
喜之助を好次朗が殺し、その好次朗を甚六が殺した。
・・・とすると、甚六が喜之助に殺されれば、情人の殺しの三角形が成り立つ。
まさか?
しかし、お勝は、次に殺されるのは甚六だと知って、ここへやって来た!
「・・・だが、甚六さんは逃げなかった」
「当たり前だ。『あぶな絵美人画』と題した浮世絵を、泉屋さんから刊行するする話を進めている。もっときわどいかっこうをしたお勝さんを描いて世の中を、『あっ』といわせるんだ」
泉屋は、蔦屋重三郎の耕書堂と張り合う大手の版元ではないか。
甚六の画家としての成功は、目の前にあった。
・・・命があれば、の話だが。
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