(その3)

翌日の昼下がり、床屋の二階で寝転がって黄表紙を読む好次朗に、使いの者が文を届けに来た。

文を読んだ好次朗は、階下に降りて髪を整えると、不意に飛び出していった。

顔を輝かし、前だけを見て歩く好次朗の後をつけるのは、与太にとって造作ないことだった。

好次朗は、広小路から上野山下を抜け、日暮里の善性寺裏のしもた屋に吸い込まれていった。

門には、お琴教授の札が下がっている。

与太は、門を入ったすぐ横の枝折り戸を開け、紫陽花の咲く坪庭に入り込んだ。

障子戸がぴたりと閉じた座敷の中から、琴の音が聞こえる。

与太が縁の下に潜り込むと同時に、琴の音が止んだ。

襖を開けた好次朗が、

「お勝さん、ひどいじゃないか」

と声を掛けた。

「喜之助さんが、あんな目にあってさ。すぐに会えるわけがないじゃないか」

女の媚びを売るような声がした。

「下手人は、ひょっとこ面を被っていて。しかも、お前さん、そのひょっとこ面は技巧堂が作った物だそうじゃないか」

「どうもそうらしい。きのう、目明しがやって来て、根掘り葉掘り聞かれたね。あの日には、お勝さんに呼び出されて、池の端にいたことまでいわされ・・・」

「おや。それは、はじめて聞いたね。あの日はお前さんを呼びつけたりなんかしなかったさ」

「だれかが悪戯を?・・・いや悪戯じゃねえ。ひょっとこ面を被って喜之助を殺したやつが、俺を池の端に呼び出した。俺に喜之助殺しの濡れ衣を着せるために」

「・・・・・」

やがて、着物が摺れ合う音がした。

ふたりは口を吸い合っているのか?

「いやねえ。真っ昼間から・・・」

「お琴の稽古にことよせて、・・・はなからそのつもりなんじゃないのかい」

「ああ。いきなり、そんなところに手を・・・。いやらしい」

「お勝さん、そのいやらしいことが、だれよりも好きなんじゃないのかい」

「ひとを、・・・好き者みたいないい方はよしとくれ」

「好き者を、好き者といってどこが悪い。ほら、こんなに・・・」

「ああ、そんなにいじめないでおくれ・・・」

「いや、いじめちゃうね。ほら、これでどうだい」

「ああ」

やがて、帯を解く音が・・・。

これ以上聞いてられなくなった若い与太は、縁の下から抜け出して、しばらく善性寺の庭の躑躅をながめていた。

半刻ほどすると、ほつれた髪を撫でつけながら、振袖の若い女が根岸のほうへ歩いていった。

しもた屋の門の横の植え込みに隠れて張っていたが、それから小半刻経っても好次朗は現れない。

『これは、裏の勝手口から出たか?』と、与太は裏へ回った。

勝手口は半分開いていた。

・・・中から血の匂いが漂ってきた。

座敷に踏み込むと、下帯もない丸裸の好次朗が仰向けに倒れていた。

心ノ臓には、匕首が突き立てられていた。

知らせを受けた浮多郎は、奉行所に与太を走らせ、じぶんは日暮里の善性寺へ向かった。

わざと用事を作って座をはずしていた琴の師匠がもどって来て、悲鳴をあげた。

そこへ、岡埜同心がやって来た。

「なんじゃいこれは」

丸裸の好次朗の死体を見るなり、岡埜は素っ頓狂な声をあげた。

・・・好次朗の額に将棋の駒が五寸釘で打ち据えてあった。

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