(その4)

岡埜は浮多郎を連れて、根岸の隠居宅に幸兵衛をたずねた。

息子に商売は譲って隠居したとはいえ、越路屋を一代で築き上げた幸兵衛の屋敷は総檜造りの二階屋で、大きな屋敷の多いこの辺でも、その豪壮ぶりは際立っていた。

奉行所に喚問するのはまだ早いと考えたのか、目明しの浮多郎にいろいろとたずねさせ、じぶんは横で幸兵衛と若い嫁のお勝ににらみをきかせようと岡埜は考えたようだ。

「まずは、喜之助さんのことでおうかがいします」

お勝は、それまで畳に「の」の字でも書くようにして、目を伏せてもじもじしていたが、この時はじめて顔をあげた。

・・・歌麿の美人画から抜け出たような、二十歳を過ぎたばかりの、たおやかな女房だった。

「喜之助と、池の端の茶屋で会ったのは、まちがいないですね?」

お勝は、柳眉を寄せて困ったような顔をした。

「何でも正直に答えなさい」

と、優しくいう幸兵衛にうながされたお勝は、消え入りそうな声で、「はい」と答えた。

浮多郎は、この日はじめて幸兵衛に会った。思っていたよりも数段若く、隠居とはいえ、まだ精気にあふれた顔をしていた。

「・・・何でも、家業のことで相談があると」

「たしか、喜之助は浜町の呉服屋の跡取り息子でしたね」

「ええ、呉服の買い付け資金を融通してほしいとの相談を持ちかけられ・・・」

「それで、池の端の茶屋で?」

お勝は、ここで目を伏せて黙り込んでしまった。

これでは、どれだけ時間がかかるか知れたものではない。

「失礼ですが、お勝さんは資金を用立てるだけの身上はお持ちですか?」

「いえ、旦那さまに話をつなぐしかありません」

「広小路で別れたあと、喜之助はひょっとこ面の男に刺されました。この男にこころ当たりは?」

お勝は、小さく首を振った。

「ひょっとこ面は、好次朗の実家の技巧堂で造ったものでした。好次朗は、あの日池の端で会おうと誘われて出かけたが、あなたにすっぽかされたといってました。これはどうです?」

「そのようなことは、ございません」

訴えるような目で、お勝は浮多郎を見上げた。こころなしか、目はうるんでいた。

「日暮里のお琴の師匠の家で好次朗に会いましたね。使いを出して、そこで会ったのでしょう」

「いえ、使いなど出していません。好次朗さんが押しかけてきたのです」

「今度は何の談判ですか?」

「書き溜めた黄表紙の原稿を刊行したいので、・・・資金を出してくれと。これも旦那さまにお話をつなぐしかありません」

「ふつう、たずねてきたひとを返してから、じぶんが家を出るのに、あなたは先に家を出たようです。これはどうしたことでしょう?」

「『じぶんは必ず大戯作者になる』などと、あまりにしつこく頼むので、嫌になって先に出ました」

「別れた時、好次朗は丸裸でしたか?」

この問いに、俯いたお勝は、黙り込んでしまった。

しばらく、気まずい沈黙の時が流れた。

「将棋の駒などを、好次朗は持ち込みませんでしたか?」

これにも、お勝は首を振るだけで、答えない。

「将棋の駒など、今度の殺しに何か関係があるのですか?」

首を伸ばした幸兵衛が、浮多郎にたずねた。

浮多郎は、岡埜を横目で見た。

岡埜がわずかにうなずいたので、

「好次朗は、下帯もない丸裸で殺されました。喜之助と同じく、心ノ臓を匕首でひと突きです。将棋の駒の玉将が額に五寸釘で打ち込まれていました」

浮多郎は、事実だけをいった。

・・・お勝の驚きようは、尋常ではなかった。振袖で口を押さえ、目を見開き、倒れかかるからだを片手でかろうじて支えた。

しばらく腕組みしていた幸兵衛だが、

「内弟子というほどではないが、水墨を教えていた男がいる。その腕は天才的といってもいい。だが・・・」

と口を開いたが、ここでいいよどんだ。

「どうも、お勝に色目ばかり使って・・・。水墨を習うためでなく、お勝に会うために、弟子になったような気がしてならない。それで、出入禁止にした。・・・この男の実家は、囲碁・将棋や花札・双六を扱う店をやっています」

幸兵衛の声には棘があった。

「この男が怪しい、とおっしゃるんで?」

「甚六というのですが、まだお勝にまとわりついているようで。この辺りで、ちょくちょく見かけます」

幸兵衛の眼光は鋭く、声は干からびていた。

―「しかし、いい女だな」

大川橋たもとの屋台で、どじょう鍋を食べながら、岡埜は感に堪えないようにいった。

もっと伝法な女とばかり思っていた浮多郎も、お勝の可憐な若女房ぶりにすっかりこころを奪われてしまった。

「その甚六という男を洗いましょうか?」

浮多郎が話を仕向けたが、岡埜は箸の先を宙に浮かしたまま、何事かをしきりに考えていた。

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