(その8)
深川から泪橋まで駕籠で帰った浮多郎だが、障子戸を開けるなり土間に倒れ込んだ。
二階から駆け下りて来たお新が、「浮さん、どうしたい」と、取りすがった。
それで安心したのか、浮多郎はお新の膝の上で再び気を失った。
―それからどれだけの時間が経ったのだろう?
目が覚めると、天井がぐるぐる回っていた。
障子に強い日が当たっていた。
頭が割れるように痛い。
額に手を触ると、包帯が何重にも巻かれているのが分かった。
・・・起き上がった浮多郎は、壁を伝って階下へ降りた。
「浮さん!」
足音に驚いて、台所から顔を見せたお新が、悲鳴をあげた。
「ちょっくら出かけて来らあ」
上がり框に腰を下し、草履を履こうとするのを、お新は必死に止めたが、浮多郎はなおも行こうとする。
「お義父さん。止めてください」
お新が、政五郎を呼び立てた。
奥座敷から這い出してきた政五郎は、
「お新、行かせてやれ。浮多郎は、敵討ちに出かけるんだ」
それを聞いたお新は、あわてて神棚から火打石を取って、出かける浮多郎の背に切り火を切った。
・・・目指すは、根岸の越路屋幸兵衛の隠居宅だった。
幸兵衛は、奥座敷で雪舟風の山水画を描いていた。
「おや、浮多郎さん。具合はどうです?」
勝手に上がり込んだ浮多郎を咎めるでもなく、幸兵衛は眉ひとつ動かさずに、筆先を細やかに運んでいた。
「お勝さんは、もどりました?」
「いえ。行方知れずです。今、ひとを頼んで探させています」
『奉行所など当てにならない』、幸兵衛の顔にはそう書いてあった。
「殺されたとは思わないので?」
幸兵衛は、ここではじめて筆を止め、浮多郎を見上げた。
「そうかも知れません。あるいは、どこかで生きているか」
「心配ではないのですか?」
「心配?・・・大いに心配です」
幸兵衛は、心配しているようには、とても見えなかった。
「幸兵衛さん、下手人の目当てがつきました」
「ほほう。例の三角形の殺人者ですか?」
「いや、あれはとんだ勘違いでした」
幸兵衛の顔に、はじめて不安の影がほのかに浮かんだ。
「はじめは、お勝さんの情人が情人を、別の情人がその情人を、・・・順ぐりに殺したとばかり思ったのです」
「・・・・・」
「殺人者が、われわれにそのように見立てさせるために仕組んだのです。単に、お勝さんの情人を皆殺しにしたかっただけのことです。とりわけ、最後の絵師の甚六は、どうしても殺したかった。ですから三角形でこの殺人はお終いです。四角とか五角にはなりません」
「なるほど。それでその殺人者とは、・・・だれなんです?」
幸兵衛がごくりと生唾を呑む音がしたような、気がした。
「それは、まずお勝さんを探し出してから、ご披露させていただきましょう。深川の甚六の画室で宙吊りになっていたお勝さんは、目の前で情人の甚六が殺されるのを見たでしょうから」
・・・そこまでいった浮多郎は、身をひるがえすようにして座を立った。
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