(その9)
浮多郎はおぼつかない足取りで、木場へ向かった。
まず、深川の浄心寺裏の百姓家の廃屋を覗いた。
すでに甚六の遺体はなかったが、血の跡はべっとりと囲炉裏の向こう側の板間に残っていた。
お勝を吊り下げていた縄はなかった。
木場の工場の頭は、頭を白い布でぐるぐる巻きにした浮多郎を見ると、「おっ」と声をあげた。
あれだけの重傷だったのが、平気で歩いているので、お化けだと思ったのかもしれない。
「この辺で町駕籠なんか拾えますかね」
と、たずねると、頭は首を振った。
・・・それはそうだろう。
『犯人は、じぶんを殴り倒し、甚六を殺した。お勝を連れもどさなければならない。まさか担いで走るわけにもいくまい。かといってこの辺で駕籠は拾えない。となると、はじめからお勝を連れもどす算段で、駕籠といっしょにやって来た』
そう考えた浮多郎は、じぶんをここまで運んでくれたふたりの職人を呼んでもらった。
「きのう、浄心寺の先あたりで駕籠なんか見なかったかね」
浮多郎がたずねると、ひとりが、
「そういえば、目明しさんを抱き起したとき、ちょうど浄心寺の角を曲がる駕籠を見たねえ」
男がひとり駕籠のあとを追っていた、ともいった。
「どんな男で?」
「背の高い、がっちりした男でさ。ああ、・・・侍ではなく町人だった」
もうひとりが横から口を挟んだ。
「駕籠はどうでした?」
「この辺ではめったに駕籠なんざ見ませんが、ごくふつうの町駕籠で」
ひとりが答えると、
「なんか、駕籠かきの半纏の背に屋号があったねえ」
もうひとりが、いった。
「どんな屋号か思い出せませんか?」
「う~ん。丸の中に、何か字があったような」
ひとりが腕組みすると、
「・・・吉かな」
今度は、もうひとりが助け船を出した。
―奉行所に顔を出すと、
「おい、きのうのきょうだぜ。平気かい?」
岡埜にしてはめずらしく、気遣うようなことばをかけた。
「へい。前に三角形の殺人みたいなこと口にしたのを、お詫びに参りました」
「大馬鹿野郎の手前にしては、殊勝じゃねえか」
元の辛辣な同心にもどった岡埜は、きついことをいった。
「三角形のように、互いに殺し合う複雑な構図へ、犯人がわざと導いたのです。じつは、お勝の情人を皆殺しにした。それだけのことです」
「ということは、まさか・・・」
「はい、そのまさか、・・・です」
岡埜と浮多郎は、しばし見つめ合った。
―日本橋あたりは常と変わらず、金儲けに明け暮れる商人たちには、寛政のご改革とやらなどどこ吹く風の賑わいだった。
大通りの裏道一本のところにある越路屋も、客の入りはそこそこだった。
帳場に座っている番頭に、十手をチラと見せて、御用の筋でと小声でいうと、主は病気で休んでいるという。
『以前ひとに貸していた家作を、別宅として使っている』と、番頭に教えられた浮多郎は、京橋上手の大根河岸近くの別宅の裏手に回り、中をうかがった。
小半刻ほど潜んでいると、女の呻き声がかすかに聞こえて来た。
裏木戸を開け、坪庭に入り込んだ。
目の前に、灌木に囲まれた小さな池があった。
呻き声は、池の向こうの座敷の障子戸の中でするようだ。
「縛られた女をいたぶるのははじめてだが、けっこうおつなもんだねえ」
これは、幸兵衛の倅の半次郎の声か?
「しかし、よく濡れるねえ。いたぶられると、ひといちばい感じる女なのかい」
半次郎の声は、興奮で上ずっていた。
「これでどうだい」
お勝は、縛られた上に、猿轡でもされているのか、くぐもった呻き声が庭まで響いた。
「親父に渡すのが、惜しくなってきたぜ。・・・これは、譲ってもらわなくちゃ」
低い笑い声が続いた。
・・・この時、浮多郎の脳裏に、三角形に代る新しい構図が浮かび上がった。
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