(その6)

浮多郎は、奉行所に寄って、岡埜に甚六の話をした。

「駆け落ちを迫ってまで、お勝は甚六を逃がそうというのかい」

「へい、どうもそのようで。片や甚六は浮世絵に夢中で、逃げる気なんざこれっぽっちもありません」

「あんないい女に惚れられる野郎が、羨ましいな」

ひと晩経っても、岡埜のお勝への惚れ込みようは、変わらない。

「甚六は、殺されるなど微塵も思わず。お勝は、すぐにでも殺されると思っている。この落差は何でしょうか?」

「さあ、な」

どうも、岡埜と浮多郎の思いにも落差があるようだ。

「少なくとも、お勝は何か知っているようです。この三角形の殺人の構図の・・・」

「三角形の殺人だって。そりゃ何だ?」

『殺した男が殺され、その殺した男がまた殺され。その殺した男がまたまた殺される三角形の殺人』という構図を、きのう甚六と話していてひらめいた、と浮多郎が話すと、

「お勝の情人たちの殺し合いかい」

と、岡埜はあきれた。

―奉行所を早々に退散した浮多郎の足は、版元が軒を並べる日本橋通油町の耕書堂へ向かった。

帳場に座っていた番頭が、

「おっ、泪橋のお役者目明しの浮多郎親分、とんとお見限りだねえ」

などと、吉原女郎のようなあいさつをした。

お目当ての蔦屋重三郎は、きょうはにわか病で本宅だという。

「五月興行の写楽の大首絵は、今でも重版出来でさ。ところがあとが続かねえ。あのあと東洲斎が抜けて、洒落斎ひとりじゃどうにも回らねえ。今も、裏の蔵の中でひとり呻吟している。親分さん、なんとか東洲斎を引っ張り出せんのか」

番頭は、主が不在のときに手柄を立てようとやっきだった。

「それは、その話として、番頭さんにひとつお伺いしたい」

浮多郎が軽くいなしたので、番頭はきょとんとした顔になった。

深川の浄心寺裏に住む甚六という絵師のことをたずねると、

「ああ、知ってるね。泉屋さんから何か版行するらしい。今は雅号を考え中とか」

さすがに同業者の動きには詳しい。

・・・ただ、中身までは知らなかった。

日本橋の越路屋を一代で築き、若くして隠退して画業に打ち込んだ久兵衛のことをたずねると、

「ああ、あれはダメだね。しょせん素人の手すさびさね」

あっさりと否定した。

前代の番頭で今は戯作者になった瀧澤馬琴の時に、自費で出版したいと持ち込まれたが、即座に断った話を番頭はした。

「いくら金を積まれても、歌麿級ならいざ知らず、いくらなんでも素人を扱っては耕書堂の名折れだと、いったととかいわなかったとか」

なおも話そうとする番頭に頭を下げた浮多郎は、日本橋を後にした。

―日本橋に来たついでに、越路屋をのぞいてみた。

なんと、幸兵衛が帳場に座っていた。

「倅が、持病の通風で寝込んでしまったので、昔とった杵塚だかで番頭手代の監督にやってきました」

と、すまし顔でいうので、これ幸いと、

「きのう浄心寺裏の甚六さんの画室をのぞいてきました」

あたりにだれもいないのを確かめてから、たずねた。

「どうでした。怪しいでしょう」

「たしかに。三角形の殺人というのを思い立ちました」

「ほほう。何ですか、その三角形の何とやらとは?」

「ひと言でいえば、お勝さんの情人たちが順繰りに殺し合う図式が三角形に見えて来たのです」

「・・・・・」

「幸兵衛さんは、お勝さんをずいぶんと気ままにさせているようですね。ふつうは、あれだけのうら若い美女は、家に縛りつけておくものではないですか。失礼ですが、だいぶお歳も離れています」

だれもが肚では思っていても、なかなか口にできない疑問を、浮多郎はずばっと聞いた。

幸兵衛は、いつでも答えが用意してあるかのように、

「惚れた弱みです。金でも、習いごとでも、男でも、好きにしていいよ・・・という条件でいっしょになってもらったのです。お勝が嬉しそうにしているのを見るのが、わたしの幸せなのです」

・・・これだけのことをいえるのは、お大尽の越路屋幸兵衛だけだろう。

「でも、甚六さんだけはダメなようですね」

幸兵衛は、浮多郎の意地の悪い質問にたじたじとなった。

「ああ、あいつは・・・。喜之助も好次朗も幼馴染で、気のいい若者です。お勝を弁天さまのように崇拝していました。だが、甚六だけは・・・」

「どうしてダメなんで?」

「見かけも野良犬みたいで、それこそ狂犬です。お勝を狂わせてめちゃめちゃにしてしまいそうで恐いのです」

ここで、番頭が客を連れてきたので、話は途切れた。

「きょうはお帰りは遅いので?」と小声でたずねると、「月末ですので」と、久兵衛がうなずくいたので、浮多郎は踵を返した。

―根岸の隠居宅へ行くよりこっちだろう、と浮多郎は木場へ向かった。

甚六が画室に使う百姓家に着くころは、だいぶ日が傾いていた。

西日が障子戸を茜色に染めていた。

障子の破れ目から居室をのぞくと、・・・白襟の緋色の襦袢の前をはだけ、白足袋を履き、縛られた両手を天井の梁から吊り下げられているお勝が目に入った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る