葉桜の下で
翌日からの出勤は気が重かった。春川が休んでなければいいと思いながら教室に顔を出すと友達と普通に談笑している。俺の顔をチラッと見たがその表情には、ああ先生が来た、以上のものは現れていなかった。
平日はあっという間に過ぎる。夜くたくたになって帰宅すると玄関に置いてある薄いピンクの傘が俺を出迎えた。朝早く学校に持って行って教室の傘立てに置いておこうという考えは、毎朝ギリギリまで寝ている俺に実行できるはずもなく週末を迎えてしまった。例によって土曜日はほぼ寝だめで終わる。
日曜日。奇しくも咲良から連絡があった日と同じ4月の最終日曜日24日を迎えた。その日は朝からピーカン照りで気温もぐんぐん上がっている。春というよりは初夏の陽気の中、俺は明らかに女物と分かる傘を手にして公園に向かう。すれ違う人の中に目ざとい奴がいて俺に奇異の目を向けた。
天気がいいので公園に入ってすぐの広場は多くの家族連れで賑わっていた。キャッチボールやフリスビーなどで親子が楽しく遊んでいる。就学前の子供を見ながらチクと心が痛んだ。自分にもあのように子供と一緒に遊ぶ未来があったかもしれない。自ら閉ざしてしまった可能性のなんと重いことか。
奥の方まで進み、さらに土がむき出しの小道にそれる。歩みとともに土ぼこりが舞い上がった。角を曲がったその先に期待していた姿は見えなかった。俺はそのままぽくぽくと歩き続け、古ぼけたベンチに腰を下ろす。ベンチの手すりに傘を立てかけると、すっかり花の落ちてしまった桜の木を見やる。
もう葉桜と呼べるのは今日ぐらいまでかもしれない。そんなことを考えていると疲れが取りきれていなかったのか、ぽかぽかした日差しにいつの間にか瞼が重くなってくる。
その俺の顔をべろんと湿ったものが触れた。顔に手をやりながら目を開けると金色の毛の塊が俺を見ていた。
「ジョン。ダメよ。いい気持で寝てたのに」
笑いながら春川が立っていた。少しベンチからずり落ちかけていた体制を直すと俺は上ずった声を出す。
「い、いつからそこに?」
「ちょっと前からですよ。先生って実は睫毛長いんですね。たっぷりと寝顔を堪能しちゃいました」
えへへと笑う春川は、とすんと隣に腰を下ろす。それきりワン公の頭を撫で、桜の木に視線を送ったまま口を開こうとしなかった。
今日は沈黙は許されない。俺は必死にもつれる舌を動かした。
「すまん。この間はすぐに答えを出せなくて。1週間考えたが俺にはその答えが分からない。期待にそえなくて申し訳ないがそれは自分で答えを出して貰うしかないな」
春川の目が大きく見開かれる。
「俺にできることはある男の話をしてやることぐらいだ。その男はある頼みごとをされて断ったんだ。頼んできた相手はとても大切な相手だったのに。その結果が何を招来するか良く分かって無かったんだ。その相手がどれほど大切なのかも本当には分かっていなかったんだよ。そしてその選択を後悔して10年も逃げ続けている。情けない話さ」
俺の言葉は重荷を背負わせるだけだろう。何の助けにもなっていない。まだ若い子供が先達の知恵を借りたいと言ってきたのに答えは良く考えろでしかない。ただ、俺は人生の選択をそれと知らずに気軽にしてしまったが故の贖罪をずっと続けている。春川にはせめてその重みを分かった上で決断して欲しかった。
春川は神妙な顔をして聞いていた。あまりに熱心に聞いているものだから俺は急に恥ずかしくなる。慌てて傍らの傘をつかむと春川に差し出した。
「春川。忘れ物だ」
春川はため息をつく。
「ねえ。ジョン。1週間経ったら言ったことを忘れるのって、私を軽んじているか、若年性なんとかかどっちかだと思うんだけど。どっちかな?」
ワン公は2回吠えた。ばうばう。俺はそのどちらでもないことを示すために言い直す。
「桜子。忘れ物だ」
春川はすっと立ち上がると傘の持ち手をつかんで言った。
「ありがとう。でも子は要らないよ」
その瞬間、ぐるぐると視界が渦を巻き俺は意識を失った。
***
「きょきょきょ。そのまま甘い夢を見続けていれば良かったものを」
子供の背丈ほどの巨大なキノコに手足が生えたものが左右に飛び跳ねていた。毒々しい紫色に緑の斑点がついている。こいつは……。その瞬間両ほほに強烈な平手打ちが飛んできた。首がぐらぐらとする。
「ちょっと。葉太。いつまで寝ぼけてるのよ。口から涎たらしちゃって。可愛い女の子の出てくる夢でも見ていたんでしょ。イヤらしい。ねえ。ジョン。あんたからも何か言ってやってよ」
濃い緑の服に身を包み、金棒みたいなものを持った女性が首を後ろにねじ向けて声をかける。桜子にしては、ちょっと大人びていた。
見事な金髪をオールバックにした大柄な男が首をこきこきさせた。人懐こそうな黒い目が俺を見て歯をむき出す。
「ヨータは抵抗力が低い。仕方ないだろう」
そして俺に向かって何かを投げた。
思わず受け取った俺の手に収まったのはどう見ても桜餅。鼻を近づけてみたら独特の芳香が鼻を打つ。その途端に意識がはっきりとした。
「はっ。この感じ。精神攻撃かっ?!」
叫ぶ俺に冷ややかな視線が刺さる。
「はいはい。今頃気が付いたのは葉太、あなただけだから。さっさとそのグロテスクなものやっつけてくれない?」
咲良が手にしたメイスで俺を指さす。
「自分でやればいいじゃないか」
「やだ。武器が汚れる」
ああそうですか。俺は手にした槍を構えると踊る茸パプフンガスの変異体に近づいていく。そいつは体をくねらせると傘の部分から茶色い煙を噴き出した。
「きょきょきょ。眠れ!」
俺はすたすたと歩いていくと槍でそいつの胴体を串刺しにした。
「ば、馬鹿な。さっきはあれだけあっさりと幻覚にかかったのに。今度は108人の美少女にかしずかれる男の夢を……」
俺は手にした桜餅を一かじりして高説を垂れる。
「ああ。この葉の効果を知らんのか? 心の迷いを断ち切り精神を爽やかにする……」
「もう死んでるわよ」
なんだかんだで疲労した俺たちは一旦森の中の村に戻ることにする。村の中心にあるその木に近づいただけで疲労が回復し心が軽やかになるのを感じた。緑の若葉と白い花弁が同居する永遠の葉桜がそよ風の中に屹立している。咲良は木に近づくとその傍らに立ち、そっと手を伸ばして樹皮を撫でた。
振り返るとにっと笑って俺に話しかけてくる。
「ずいぶんと桜子ちゃんに鼻の下を伸ばしていたじゃない? 途中で何かおかしいと気づかなかったの?」
「別に。教師として当然のことをしたまでだろ?」
「ふーん」
咲良は俺の傍に寄ってくると俺をそっと抱きしめた。耳元に囁いてくる。
「葉太があのパプフンガスの幻覚にかかったのを見て間に合いそうになかったから、夢の中身を書き換えたの。あの時、私の頼みをあなたが断ったらどうなったかってね。ずっと気になっていたの。あなたを巻き込んで良かったのかって」
俺は頭をかいた。
「そりゃ。自分は並行宇宙から来た人間で、元の世界のために一緒に戦って欲しいとか言われた日にはびっくりしたさ。でも、後悔はしてないよ」
俺は樹高300メートルもあろうかという葉桜を見上げる。
「俺のいる場所はここしかない」
「ここってどこ?」
「世界樹の巫女『葉桜の君』の隣さ」
「ちょっと声が裏返ってる。イマイチ決まらなかったわね。でも……」
ちょっといい雰囲気になったところに邪魔が入った。
「父上。母上。おかえりなさいませ」
今年6つになる双子の兄妹が駆け寄ってきて俺と咲良に飛びついた。その後ろから獣人のジョンが穏やかな笑みを浮かべながらのんびりとした声を出す。
「仲がいいのは結構だが、また育児で3年も不在になるのは勘弁してくれよ。あの時はきつかったぜ」
そう言ってハッハッハと豪快に笑う。葉桜の間を抜けて響き渡るその笑い声を聞きながら、俺たちは顔を見合わせて顔を赤らめる。ちょうど桜の花びらにさす紅色のような色で。
-完-
葉桜の君に 新巻へもん @shakesama
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