春雨の下のプラリネ
「お願い。私には葉太しかいないの」
遠距離恋愛中だった郷里にいる彼女の咲良からの電話。東京の大学に進学した俺は忙しい毎日を送っていた。授業にサークル、バイトと時間に追われまくる生活で深夜に帰宅して倒れるように眠ってからまだ3時間ほどしか経っていない。
始発に乗って郷里に帰ってきてくれと懇願する咲良に俺は今日は無理だと告げ電話を切った。携帯電話の通話切断のボタンを押す直前に悲痛な声が漏れる。
「葉太。待って」
そして、それがこの世で咲良の声を聴いた最後となった。
俺は全身汗びっしょりで目を覚ます。手元のスマートフォンを見ると午前5時過ぎだった。咲良からの着信がないかスマートフォンを操作する。あるはずがなかった。まだ夢と現実が混在しているような頭でぼんやりと考える。こんな夢を見た理由は簡単だ。昨日公園で会話をした春川桜子。よりによってあの場所で会ったのがいけなかった。
咲良が姿を消した後に唯一の遺留品が見つかったのが公園のあの桜の根本だった。彼女の履いていた靴の片方が見つかった。何かの事件に巻き込まれたのだろうという警察の見立てから11年の歳月が流れ、咲良はまだ見つかっていない。
その間、俺は心を閉ざしたまま生きてきた。俺が駆け付けたところでどうなったのかは分からない。間に合ったのかも不明だ。しかし、俺は救いの手を求めてきたのにすげなく振り払ってしまったという良心の呵責に耐えられなかった。惰性で生き、惰性で取得した教員免許で今の学校で職に就いている。
一応教壇に立っているときは精いっぱい教師として正しくあろうと努力はしている。自堕落な俺と教師としての俺を切り替えるスイッチがワイシャツを着てネクタイを締めるという行為だった。同僚にはジャージ姿やポロシャツ姿で生徒の前に立つ者もいる。別に俺はそれを非難するつもりはない。俺にとっては教師を演じるのにネクタイ姿が必要というだけだった。
浴室に干してあった春川のハンカチを取り込みシャワーを浴びてから丁寧にアイロンを当てた。鼻を近づけてもビールの臭いはしない。ほこりがかからないように小物入れにハンカチをしまうと簡単な朝食を取って着替えをする。教師の仮面をつけると俺は家を出た。
教室では春川は昨日のことなどおくびにも出さない。授業中こそ真面目に話を聞いていたが、休み時間ともなれば机に腰かけて同級生と笑いさざめいていた。まさに青春真っただ中。これから無限の可能性を持っている若者の姿にかすかな羨望の念を覚える。
教員の仕事は忙しい。担任しているクラスの生徒に何かあればすぐに連絡が来る。何かの費用の徴収がまだと事務室から話が来ることもあるし、親からのクレームもある。当然担当する教科の準備もあれば、小テストの採点もしなければならない。さらに校務の分担もある。うちは女子高なので共学よりはマシだが生徒指導部の業務も時間をとられた。
こうして1週間はあっという間に過ぎる。土曜日は夕方までその週の疲れを取るためにベッドから起きられない。もそもそと起きだすと15分ほど歩いて街の洋菓子店に出かけ小さなチョコレートを買った。咲良にねだられてプレゼントをした品を買った店だ。
翌日の日曜日はあいにくの雨だった。しかもかなりの雨量で風も強い。きっと桜の花はすべて散ってしまっただろうなと頭の隅でちらと考える。こんな日に外出するのは正直おっくうだったが、約束をしてしまった以上は仕方ない。咲良なら絶対に約束したことを破らないし、ちょっと強情で元気が良くて生命力にあふれていた。
女性をたとえて花のようなということがある。ただ、咲良の場合は花というには元気が良すぎた。よく笑いよく怒る。皮膚の下から放射される生命力の輝きは、新緑の時期の若葉を思わせた。そのことを告げるとくるみを頬袋に貯めたリスよろしくほっぺを膨らませ腕を振り回したんだっけ。
「どーせ私は可憐さとは縁のない女ですよ」
ハンカチとお礼の品を持って家を出た。公園までは自転車で10分ほどかかる。この雨では歩いていくほかはない。バラバラと傘にあたる雨音をBGMにてくてくと道を歩いて行った。公園の入り口につくとこの雨だというのに無人ではない。揃いのレインコートを着て犬の散歩をする女性とすれ違った。
さすがにアスファルト舗装の道から外れるとぬかるんだ道に足跡はない。最初から濡れるつもりで履いてきたサンダルで踏みしめると冷たい泥が足に触れた。ぴったんぴったんと歩いていき道を曲がると薄いピンク色の傘をさした人が見える。濃い緑の中、けぶる雨に打たれて1輪の巨大な桜の花が咲いているようだった。
最初にジョンというワン公が俺に気づいて小さくバウと吠え、傘をさした人はこちらに向き直る。傘と同じ色の長靴にデニムパンツとパーカー姿の春川が空いた手を肩のところで小さく振った。その姿が咲良のしぐさと重なる。俺は300円のビニール傘を高く差し上げた。
ペタペタと歩いて近づくとぺこりと春川が頭を下げる。
「こんな雨の日にすいません」
「もとはといえば俺が悪いんだ。そうだ、これ」
雨に濡れないようにビニール袋で包んだチョコレートの箱とハンカチを差し出す。
ハンカチ以外の重みを感じ取ったのか春川は小首をかしげる。
「先生、これは?」
「ほんの礼だ。家で食ってくれ」
「ここで見てもいいですか?」
うなづいて見せるとがさがさとビニール袋を開けて、中を覗き込んだ。
「わあ。パティスリー・ミサキのプラリネじゃないですか」
「箱も開けずにわかるのか?」
「もちろんです。こう見えても女の子ですから」
春川は首に傘の柄を挟んでさらに紙袋から箱を取り出そうとする。
「傘を持っててやるよ」
「あ、先生ありがとうございます」
器用にリボンを外すと箱を開けて、春川は目を細めた。
「8つも入ってる。いいんですか。こんなに」
「ああ。ほんの気持ちだ」
「社会人の経済力を見せつけますね。ジョシコーセーにはそうそう手が出ませんよ。そうだ。先生もお一つどうですか?」
「いや。それは礼の品だ。春川が食べてくれ」
「こんなものを一人占めしたら罰が当たります。お嫌いじゃなかったら」
ぐいと箱を俺の目の前に突き出した。少し雨の降り方が収まってきたもののこんなところでいつまでも立ってはいられない。俺は適当に一つつまんで口に放り込む。
春川も一つ口にいれるとうーんという声をあげた。そのまま小雨の中で二人で口の中のチョコレートを味わう。ほのかにブランデーの香りがするプラリネは確かに旨かった。もうとっくに失ったはずの記憶を味蕾が呼び覚ます。咲良と食べた味とおんなじだ。
「ごちそうさま」
俺が口にすると春川の言葉があふれ出す。
「いやあ。まさに幸せの味ですね。しかし、先生も隅に置けないなあ。ミサキのプラリネで女の子を釣ろうとするなんて悪い大人ですねえ」
「人聞きの悪いことを言うな」
「今までに何人の女の子にこれをプレゼントしてきたんです? まさか生徒に手を出してたりして」
きゃあきゃあと嬌声を上げる。
「そんなわけはないだろう」
ぶすっとした声を出すと春川は更に喜んだ。
「ちょっとからかったらすぐそんな顔になるなんてかっわいい」
「おい。春川いい加減にしろ」
春川は俺の声を無視して何かぶつぶつと言っている。
「やっぱり1個じゃやめられないな。もう1個だけ食べちゃおうかな。うん。そうしよう」
もう一つ摘み上げると春川は口に入れて陶然とした表情をした。
「なあ、春川」
呼びかけを無視して舌を転がしていた春川はやっと口を開いた。
「桜子です」
「は?」
「桜子って呼んでくれないと返事しませーん」
「春川。あのなあ、教師の俺が生徒を下の名前で呼べるわけがないだろう」
つーん。春川は明後日の方角を向く。そしてしゃがみ込むとワン公に話しかけた。
「ねえ。ジョン。あなたはおりこうさんだから私の名前は分かるわよね。私は桜子」
ワン公はわんと吠えて頭をなでてもらっていた。
「なあ。桜子」
仕方なく呼びかけると勢いよく春川は立ち上がった。
「なんだ。ちゃんと呼べるんじゃないですか。やればできるのに大人ってめんどくさいですね」
「それでいつまでこんなコントを続けるつもりだ?」
「んー。先生がちゃんと質問に答えてくれるまでかな」
「質問って?」
「もうボケちゃってるんですか? このミサキのプラリネをプレゼントした相手の数です」
「なんでそんなことを言わなきゃならないんだ?」
「あ、別にいいんですよ。明日学校に行って言いふらそうっと。先生に公園に呼び出されてチョコを渡されて口説かれたって」
「おい」
「冗談ですよ。それで、悪い女たらしの秋田先生。ミサキのこの季節限定の商品ってもちろん知ってますよね?」
「いや」
「その名もサクラ。桜の葉を漬けた汁が練りこんであってほんのり香るんです」
あ。咲良の言葉が蘇る。
『へえ。私とおんなじ名前だ。今度はそれが欲しいな』
春川が箱を大事そうにビニール袋にしまい終えたのを見計らって、俺は傘を返そうとしたが、なぜか受け取らない。
「もう帰れ」
そう言っても胸に抱えた袋に視線を落としたまま動こうとはしなかった。
はあ。面倒くさいのはどっちだよ。教師を10年近くやっていると分かってくることがある。何か心に抱えているものがあってそれを話そうかどうか迷っていることとかだ。春川は明らかに何か悩み事を抱えている。しかし、俺の教師としての営業時間は終わっているわけで、相談に乗ってやるのもどうかと思った。
くぐもった声で春川が問いかけてくる。
「あの。先生。私悩みがあるんです」
春川はきっと顔を上げると俺の顔を射るような視線で見た。
「私にはやらなきゃいけないことがあるんですけど、とても一人ではできそうにないんです。大げさですけど命がけって言ってもいいくらいのことで。色々と事情があって逃げ出すわけにもいかないし、でもこのままだと上手くいかないのが分かっていて。助けて欲しいのだけれども、それではその人に物凄い迷惑がかかるんです。それこそ人生が変わっちゃうぐらいに。私は私は……どうすればいいと思いますか?」
春川の質問は俺を打ちのめした。その中身もそうだったが絞り出すような声は咲良が俺に助けを求めていたときのことを嫌でも思い出させる。俺は何も言うことができなかった。言えるはずもない。一人で頑張れとも言えないし、気にせず助けを求めればいいとも言えない。咲良の求めに応じなかった俺にその資格はなかった。
春川の真剣な眼差しが痛い。先ほどまでのはしゃぎっぷりはこの悩みを韜晦するものだったのだ。俺は必死に答えを探す。たかだか10年ちょっと長く生きているだけの人間に答えられる質問じゃない。いくら教師と言ってもできることとできないことがある。それに今、俺は教師の仮面を被っていない。生身の俺だった。
沈黙を回答拒否と受け取ったのだろうか。春川はくるりと背を向けるとまだ小雨の降る中をぱっと駆け出して行った。一瞬だけ目元がキラリと光ったように見えたのは、雨なのか、それとも涙だったのか。俺は両手に傘を持った間抜けな姿で春川が飼い犬を連れて走り去るのをただ見送るしかなかった。
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