葉桜の君に
新巻へもん
出会いは教室で
目が覚める。ちゅんちゅんという鳥の鳴き声が思ったより近くから聞こえた。
ここはどこで俺は誰だ。まだ寝起きのせいか頭がはっきりしない。もう一度目をつむって考える。俺は秋田葉太30歳。もう一度目を開けると意識がはっきりとしてくる。ここは自分のアパートでベッドの上。まだ寝ぼけているのか、見慣れたはずのシーリングライトが何か見知らぬもののように感じた。
カーテンの隙間から洩れる光の明るさに飛び起きる。まずい遅刻だ。壁のカレンダーを見るまでもない。今日は新学期の初日。こんな日に寝坊をするなんて、きっと夢見が悪かったに違いない。忘却の彼方に引っ込んだ夢を追いかけるような無駄なことはせず大急ぎで着替えネクタイを締めると朝食抜きでアパートを飛び出した。
わき目も振らずに走ってなんとか間に合った。額の汗を拭い、今年度受け持ったクラスの教室の前で深呼吸をする。新しい生徒と顔を合わせると思うと緊張してしまう。もう何度目かの春だったが、なかなか慣れることはできなかった。がらりと扉を開けて中に入る。一斉に品定めをするような視線が俺に刺さった。
俺の担当する生徒である68の瞳が教卓に向かう俺の一挙手一投足を追う。その目を意識しないように全体を背景だと思いこもうとしながら生徒に向き直った。そして、最後列の一人の生徒の顔を見て、俺は第一声を放とうとしたまま凍り付く。無言の俺を見て生徒たちがクスクス笑うのを感じなんとか挨拶の声を放った。
「お早う。今年から君たちのクラス担任になる秋田だ。教科は歴史を受け持ちます」
「年はいくつですか?」
「センセー、結婚してる?」
黄色い声の質問を適当にはぐらかしながら、座席表を頭に浮かべる。俺を驚嘆させた生徒の名は春川桜子。俺のかつての恋人に生き写しだった。
***
俺はゆっくりと歩く。ほんの2週間前までは人で溢れかえっていた公園も今は落ち着きを取り戻していた。花見でごった返していた頃の名残で『ゴミは各自持ち帰ってください』という掲示が少し傾いて揺れている。日曜日の朝ということでちらほらと犬の散歩をする人やジョギングをする人を見かけた。人がいるアスファルト舗装された園路から外れると俺は少しぬかるんだ道を歩き出す。昨夜気が付かぬうちに少し雨が降ったようだ。
デデーポッポーという山鳩の声を聴きながら道行く人も少ない道を進み、築山の向こう側に回り込む。視界が開けると北向きの斜面にその桜が立っているのが見えた。日当たりがあまり良くないせいか他の木よりも開花が遅い分、まだ桜の花が残っている。昨夜の雨は強くはなかったのだろう。
小道にできた水たまりを慎重によけながら、桜の花びらが土にまみれた道を進むと塗りが剥げあちこちが欠けた古い木のベンチに腰を下ろす。いかにもうらぶれた風情だが俺はこの場所が好きだった。誰もわざわざ見に来ない1本だけの大島桜。その葉桜は俺の境遇に相応しい。
雲の切れ間から太陽が顔を見せると急に明るくなった。もう初夏の日差しと言ってもいいような強い光に目を細めながらビニール袋から缶ビールを取り出すとタブに指をかける。プシという音とともに少し泡があふれ出し、指を濡らした。噴出が収まるのを待ってタブにかけた指に力を籠めると飲み口を大きく広げ一口飲んだ。
じわりとごく僅かな頭痛が広がり一瞬混乱する。何か大切なことを忘れているような気がする。頭を振ると目の焦点が合い、2割ほどの白い花弁と8割ほどの青い葉が目に入り、食道を滑り落ちていくビールの冷たさがしみた。もう一口飲もうとする俺の視界に人影の姿が入る。自分だけの空間を邪魔されたような気がして不快になった。
視界から外すように桜の木に視線を移して、もう一口を含んだ時だった。
「秋田先生? おはようございます」
不意に自分の名を告げられてビールが気管支に入ったのか激しくむせる。胸を濡らすビールから立ち上る臭いに顔をしかめた俺の目の前に白い物が差し出された。
「これ使ってください」
きれいにアイロンを当ててある白いハンカチだった。視線を上げると教室で俺を困惑させた春川が困ったような顔をして立っていた。なぜ、こんな辺鄙な場所に春川が? 急に声をかけられたものとは別の驚きが加わった。その答えらしきものが顔をのぞかせる。金色の毛に日の光を反射させた大きな犬の人懐こそうな目が俺を興味深そうに見ていた。
「急に声をかけたりしてすいません。これどうぞ」
「いや。俺が勝手にむせたんだ。この陽気ならすぐに乾くさ。それにそんなきれいなハンカチを使うのは申し訳ない」
「だめです。風邪をひきます」
誰かと似ているのは顔だけではないようで春川は引き下がろうとしない。仕方なく俺は目の前に決然と突き出されたハンカチを受け取ってビールを拭き取った。その間に春川は俺の横に腰を下ろすと犬の頭をもしゃもしゃと撫でる。犬はパタパタと尻尾を振っていた。
ビールをしっかり吸って酒臭くなったハンカチを未成年に返すわけにもいかず、俺はもう一方の手に持った缶の存在を重たく感じていた。まだ朝の範疇に入る時間帯に一人でビールを飲んでいる姿なんて担任している生徒に見せていい姿ではないという程度の良識は俺にもあった。
「いいところですね」
不意に春川が言う。
「静かでここだけ別世界みたい。桜まだ残ってるんですね。ちょっといいですか」
何がいいのか戸惑う俺の手に春川はリードを押し付けると水たまりを避けるように飛び跳ねながら桜の木に寄っていった。幹に片手を預けて目をつむる。一瞬その姿がニンフのように見えた。ゴールデンレトリーバーは俺の手にあるハンカチに興味をそそられたのか鼻を寄せる。
「ジョン。ダメよ」
春川の声にワン公は体をびくっとさせると少し距離を置いた。春川は木から離れて戻ってくる。
「先生はここで何を?」
「自由を謳歌しているだけさ」
「確かにそうですね」
春川の視線が俺の左手とそれが握るものに注がれていたが、別に非難の色は感じなかった。
「朝から飲んでる姿を見て軽蔑しただろ?」
「別に。意外だなとは思いましたけど。法律で禁じられている年齢でもないですよね?」
「まあ、そうだが、朝から飲んでいるおっさんを見て怖くないのか?」
「それは相手によります。先生なら平気ですよ」
「そりゃ光栄だ。そこまで信頼されてるとはね。だが、人気のないこんなところでそれほどよく知らない相手に気を許すのは危ないと思うがな」
「大丈夫ですよ。いざとなればこの子が守ってくれますし、それに……先生ぐらいなら私の方が強いかな」
俺は精悍な春川の顔を見る。若い女性に相応しい形容詞ではなかったが、春川の場合その言葉がぴったりだった。
「で、春川は何しにここへ?」
「この子の散歩です」
「だったら向こうの道の方がいいだろう? 他の犬もいるし」
「それが良くないんです。あまり躾のなってない犬もいますから。この子はこう見えて大人しいので吠えかけられるとストレスなんです」
自分のことが話題になっていると分かるのかワン公はちぎれそうな勢いで尻尾を振った。いつの間にか春川はまた俺の隣に座っている。
「あ。ひょっとしてお邪魔でしたか?」
俺は苦笑を返す。
「公共のスペースに邪魔も何もないさ。まあ。ここなら誰かに見られる心配もないだろ」
「やっぱり生徒と二人きりでいるのは気になります?」
「俺は構わないが、世間はそうじゃないだろうな」
「ずいぶん投げやりなんですね。教室じゃそんな風に見えないのに」
「ああ。俺はネクタイを締めると変身するんだ。教師秋田にな。いまはただのおっさんだ」
春川は黙って桜の木を見つめながらワン公を撫でている。雲の動きが早く日が差したり陰ったり、時折強く風が吹くと残っていた桜の花を散らしながらざわざわと木が揺れる。俺は残っていたビールを飲み干すと握りつぶして立ち上がった。
「それじゃあな。春川。ハンカチは洗濯して返すよ」
「別にそのままでいいですよ」
「それはさすがに悪い」
春川も立ち上がりながらニコリとほほ笑んだ。
「でも、教室で返されたらそれこそ大騒ぎになりますよ」
痛いところをついてきやがった。確かにそうだ。副校長の呼び出しは確実だろう。ただ、この悪臭を放つハンカチを返すのは気が引ける。飲んでる分にはいいのだが、ビールというやつはこぼすとどうしてこれほど臭うのか。逡巡する俺を見て春川が助け舟を出した。
「それじゃあ、来週の同じ時間にここで会うってのでどうですか?」
「俺は構わないが春川に負担だろう」
「どうせ、ジョンの散歩もありますし気にしないでください。それに……」
春川は年齢に不相応な艶っぽい上目遣いをして見せる。
「禁断の逢引みたいで、ちょっとドキドキしません?」
「大人をからかうな」
春川はワン公に合図を送ると元気よく走りだす。見えなくなる寸前で振り返ると大きく手を振った。
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