真夏の創痕

あの日の真相

　現実はいつも予定を裏切る。

　まるで2020年の夏のように――。

　＊

　例のコロナ禍による自粛とそれに伴う連鎖的な倒産で、国中から活気が消えて早（はや）数か月。俺のようにバイト先が潰れ、親からの仕送りも途絶えた大学生はけして珍しくない。家賃が払えずアパートを追い出された俺は他に行くあても無くて友達の下宿に転がり込んだ。

　友達――村上翠（むらかみすい）は、行きつけの定食屋の従業員だ。彼は店の2階のオーナー宅に間借（まが）りして暮らしている。

　俺は住む処（ところ）が無くなる前から、酔いつぶれた時などは翠（すい）の部屋に泊めて貰っていた。それに加えて家主のオーナーがコロナを恐れ、翠（すい）に店を任せて離島に疎開してしまったことと俺が宿無（やどな）しになったことが重なって、今に至っているというわけだ。

　お陰様で衣食住の不安は無い。俺はランチの配達を手伝う以外は特に何をするでもなく日がな1日ごろごろしている。

　＊

　「酒がないな……」

　うだるような暑さから逃れようと冷蔵庫に首を突っ込んでひとりごちた。翠（すい）が働いている昼間は話し相手がいないので、つい考えを口にしてしまう。

　ビールを貰いに行こうとつっかけで外（そと）階段に出た。するとケース入りの瓶ビールを重そうに提（さ）げた翠（すい）が上がって来ようとしているところだった。

　「言ってくれれば取りに行くのに」

　もう何度となく翠（すい）に言った台詞だ。

　こいつは変なところでプロ意識が強く、未だに俺を厨房に入れない。コロナのせいで客足が遠のいたとは言えデリバリーの需要は増えている。オーナーが不在の今、この店を切り盛りするのは翠（すい）1人だ。忙しくないわけがないのだから少しは俺にも頼って欲しい。

　だが翠（すい）は俺の言葉にやんわり笑う。

「大丈夫だよ。僕はこう見えて力持ちなんだから」

　そう言って玄関の上がり框（かまち）にビールケースを置いて屈（かが）んだ時、くたびれたTシャツの襟ぐりから翠（すい）の痩せた胸と臍（へそ）が丸見えになった。

　翠（すい）はキッチンに入りビールを冷蔵庫に移す。

「もうお昼だね。今日は何がいい？」

「うーん。何か美味しいもの」

「んもう、そーゆーのが1番困る」

　話しながらも翠（すい）は休まずに作業する。冷蔵庫とケースを忙（せわ）しなく往復する白い腕。袖口から覗く華奢な手首と細くて長い指は、まるで女の子のそれのようで、俺の内心の庇護欲（ひごよく）を掻（か）き立てる。

　今頃、沖縄の浜辺で寛（くつろ）いでいるだろうオーナーは、どうしてこんな無防備な奴を東京に残して行ってしまえたのだろう？

　そんな俺の思案など知らず、翠（すい）は空になったビールケースを提げてカンカンと小気味良い音を響かせながら鉄階段を降りて行った。

　＊

　「海にでも行くか？」

　定休日でも翠（すい）は朝早くから店の厨房に降りて当たり前のように俺の為に朝飯（あさめし）を作る。そして2階まで運んでくると、寝汚（いぎたな）い俺が観念して起きるまで食事に手をつけずに待っている。オーナーとの暮らしで身についた生活習慣なのだろうが、俺といる時くらいもっと自分本位でいい。翠（すい）に気晴らしをさせてやろうと、俺はドライブを提案した。

　「いいよ。連れて行って」

　翠（すい）がOKしたので、俺達はオーナーのワゴンで東京から1番近い海へと繰り出した。未だ国からの自粛要請が続いているというのに8月の由比ガ浜は流石の人出（ひとで）だ。水着姿のカップルやファミリーが海水浴だバーベキューだと思い思いに楽しんでいる。

　結局ひとは愉（たの）しむことを諦められないのだ。

　愚かな生き物を嗤（わら）うように真夏の太陽は照り付ける。

　容赦のない陽射しに晒された砂浜は素足では歩けないほど熱く、潮を含んだ風は肌に張り付いて不快感をいや増していく。

　それなのに翠（すい）はこんな炎天下でさえパーカーを羽織っていた。冷え性だと言い張っているが、はだけた胸もとにはいく筋もの汗が滴り腹をつたってハーフパンツのウエストに染（し）みを作っていく。

　俺は素早く翠（すい）の汗に濡れて光る肌を盗み見た。

　オーナーが欲しいままにしていた、こいつの肢体（からだ）を――。

　あれはまだ俺に自宅と呼べるものがあった頃。店で酔い潰れては翠（すい）の部屋にやっかいになったものだ。

　そんな日々が何日か続いたある夜のこと。

　呻（うめ）くような――喘（あえ）ぐような声に目を覚まして、ほんの少し開（あ）いていた襖（ふすま）の隙間からオーナーの部屋を覗き見た。

　中年男の汚い尻と彼に組み敷（し）かれて小刻みに震える若い男の太腿――。

　見たくはない筈なのに目を背けることが出来ず、俺は翠（すい）の嬌態（きょうたい）の一部始終を目に焼き付けた。

　「どうしたの？」

　翠（すい）の声に我に返る。

「なんだか目が怖いよ？」

　心配そうに俺を覗き込む切れ長の目。長い睫毛（まつげ）が涙袋に濃い影を落とす。

　俺は無言で笑い返した。

　俺が2人の仲を知っているということを彼には決して気取（けど）られてはならない。翠（すい）の性的嗜好がどうであれ、誰に責められるべきことではない筈だ。だがもしそれを彼に質（ただ）したら、俺達のバランスはきっと崩れる。そんな気がする。

　＊

　「「「おーい！　着いたぞー」」」

　振り返ると懐かしい顔ぶれが道路の方から歩いてきた。

　「あれ藤木達じゃない？　呼んだの？」

　いかにも奴らは４月の頭に緊急宣言が出るまで店の常連客だった3馬鹿トリオだ。ダメもとで声を掛けてみたのだが、まさか全員揃うとは。奴らのフットワークの軽さには恐れ入る。

　「取り敢えず集まってみたけど、何するべ？」

　まずは再会の記念に写真を撮ろう。そう言いだしたのは吉田だった。彼がスマホを掲げたので、俺達は海に背を向けて横1列に並ぶ。

「おっと、密集・密接はダメだぜ、ばらけてばらけて」

　吉田の指摘に、俺達は苦笑いしながら並び直した。

「あー、それだと横に広がりすぎだな。前後斜めに散って……横はもう少し寄ってくれよ」

　インスタをやっているという吉田はとにかく『映（ば）え』に執着する。

「あと翠（すい）もさー、このクソ熱いのになんでパーカーなんだよ。脱げよ」

　吉田の横柄な言葉に、俺の2ｍ斜め右後ろ辺りで苦笑いと衣擦（きぬず）れの気配がした。

「そうそう。じゃあ……」

　吉田が俺達のふいをついて『チーズ』も言わずにシャッターを切ると

「あ、このヤロ、顔作ってる暇なかったじゃねーか！」

　3馬鹿の中でも群を抜いて阿呆な田中が吉田に飛び掛かった。

　おいおい、ソーシャルディスタンスは？

　そう思う間もなく、彼らは追いかけっこだ砂遊びだレジャーボートだと、思いつく限りの幼稚な遊びを繰り広げた。もう濃厚接触なんて気にもしない。いや、そんなこと気にして何になる？　どうせ人類はコロナに勝てないんだ。いずれ終わる命なら、何を躊躇（ちゅうちょ）することがあるだろう？

　あっという間に日が落ちて、締めはやっぱり花火だった。

　俺達は近くのコンビニで買った花火に次々と火を点ける。

　それらはやがて最後の1本になり、俺達はその先端がシューと音をたてながらススキのような火花を散らすのをしんみりと見守った。最後の花火は次々と色を変え、束（つか）の間（ま）の夏休みのエンディングを彩る。

　花火が勢いを失うと共に、俺達もいつしか無言になった。

　家に帰りつく頃にはきっと、はしゃぎ過ぎてしまったことを後悔するに違いない。

　＊

　思いのほか下道（したみち）が渋滞していて、店に辿り着いた時には日付が変わっていた。

　シャワーもそこそこに畳の上に倒れ込む。

　全身の日焼けに体力を奪われて、部屋の灯りを消すのさえ億劫（おっくう）だ。押し寄せる睡魔に身を委（ゆだ）ねたいのに、眠りに落ちる寸前で体が痙攣（はね）る。何度も何度もおかしな夢を見て、目が覚める度に電気を消そうと思うのに、どうしても身体が言うことをきかなかった。

　夢の中で俺は翠（すい）を追いかける。俺の方が背も高く脚も速い筈だが、走っても走っても追いつかない。しまいには足が縺（もつ）れてふたりで砂浜に倒れ込んだ。

　呼吸を整えようと仰向けになると、翠（すい）は身体を起こし被さるように俺の顔を覗き込む。俺は腕を伸ばして翠（すい）の頬を両手で包み込んだ。そのまま引き寄せようとした時、掌（てのひら）の中で翠（すい）の顔が――

　腐ったオーナーの首になった。

　はっとして見開いた目の前に、俺を覗き込む生身の翠（すい）の顔があった。

　「翠（すい）？」

　自分の声に、まるで恋人を呼ぶような甘さが潜（ひそ）んでいて、俺は狼狽（うろたえ）た。

　だが翠（すい）は何も応えずに、顔を描き入れる前のドールヘッドのような、端正だが無表情な眼差しで俺を見下ろしている。

　そうやってどれほどの時間を俺達は見つめ合ったのか？

　やがて翠（すい）は俺に覆い被さり、奴の緋（あか）い唇で俺の唇を押し包み――こじ開けた。

　翠（すい）との接吻（くちづけ）。

　望んでいたのか、怖れていたのか。

　夢と現（うつつ）の狭間にあって、翠（すい）という美しい生き物を飲み込みながら、俺は再び意識を手放した。

　＊

　オーナーの奥さんと弁護士が店を訪ねて来たのはそれから数日後のことだった。

　奥さんによれば毎月きちんと送られてきていた生活費が遅れ、メール以外の連絡がなくなってからひと月以上になるという。「弁護士を通じて夫の口座を確認したら、店の近くのATMで数回お金を引き出していた。彼の居所（いどころ）に心当たりはないだろうか？」。彼女の要件は凡（およ）そそんなところだった。

　その翌朝、今度は警視庁がやって来た。

　彼らは令状を持っていたが、家宅捜索という程の手間も掛けずに目当てのモノを探し当てた。

　それは厨房の奥。

　大型冷蔵庫に押し込められたオーナーの絞殺死体。

　＊

　そして今。

　俺は腐った畳の臭いがするトイレシャワー共有の木造アパートに住んでいる。

　薄い蒲団に寝転がり、相も変わらず暇を持て余す日々だ。だから手持無沙汰でスマホを手に取り、長らく放置していたSNSをくだらない記事で更新してみたりする。

　そしてそんなことを繰り返すうちに、例の3馬鹿トリオどもからのDMが届いていたことに気がついた。

　そこに添えられていたあの日の記念写真――。

　皆、無邪気に白い歯を見せて笑っている。

　俺も、翠（すい）も、誰も彼も。

　パーカーを脱いで上半身を曝（さら）し、刹那的に哂う翠（すい）。露（あら）わになった両腕に、その五線譜のような防御創（指の跡）はあった。

　翠（すい）が長袖で隠し続けていたもの。

　オーナーの断末魔（だんまつま）は、刺青（いれずみ）のような創痕（きずあと）を翠（すい）の両腕に焼き付けていたのだ。

　俺は死後硬直のように微動だにせず、その画像を睨み続けた。

　その日以来。

　俺はずっと待っている。

　コロナか貧乏か絶望か、それとも翠（すい）が――

　誰かが俺を殺しに来るのを。

（了）