第4話
平陽公主は弟の愛する者達に魔の手が忍び寄るのを察知して、劉徹に書簡を送る。曰く、「太皇太后と館陶公主の衛氏への憎しみはこれまで以上に深まっています。あの者たちはこれまでにも彼女の弟、衛青に狼藉を働いていますが、直接彼女を害するやもしれません。陛下にとっては不本意かもしれませんが、陳皇后の許へと通うと良いでしょう。妾のもとにやってきてあれやこれやと言ってくるのは館陶公主で、衛青拉致を企んだのは彼女でしょう、陳皇后は陛下以上に太皇太后や館陶公主に抑圧されたその被害者なのかもしれません、その点を留意してください。韓嫣にも気を配るとよいでしょう、太皇太后たちが彼に対して何かを言っていると言う事は直接は聞き及んでいません、ですが皇太后は何か含むところがある模様。暫くは彼と起臥を共にするのを慎むか、できる限り噂にならぬように動くのが良いでしょう。未だ、太皇太后の意向で天子となったという事実に依って、太皇太后に与するものは多く、陛下の権力は限られたものなのですから」と。
劉徹は衛子夫の身が脅かされることは無いだろうと考えていた、彼女は驕らぬ人柄で宦官や宮女から広く慕われているから。太皇太后の威光によって陳皇后に媚びへつらうものは未だ多いものの、衛子夫は自分の寵愛とその人柄から後宮に於いてある一定の力を持つようになってきている、彼女に偽りの罪を擦り付けることは太皇太后であっても難しいだろう。また衛青が拉致された際、公孫敖が迅速に彼を救出したことからも分かるように、武力に訴えて何か事を起こそうとしても、既にそれを解決し得る十分な力、自らの意を組む優れた手勢が自分にはあるから。
となれば、韓嫣か。衛青と異なり、彼自身が気づいているように誹謗に晒されることは未だ多い。武辺者であるにもかかわらず自分に媚びへつらう佞臣と侮る者は多くおり、また李当戸が殴打した際のように、太皇太后たちが自分との睦まじさからくるその不遜さを論って罰を与える可能性がある。ただ、韓嫣との距離を離せば彼は悲しむだろう、何としても彼には匈奴討伐の遠征を率いてもらいたい、それは彼自身の悲願のためでもある。そのためには今と変わらぬ愛幸を与え、自分の許に繋ぎとめて置く必要がある。
そこで劉徹はこう考えた、後宮に足繁く通っているふりをして、しかしながらそこで韓嫣を抱けば良いのだと。これを思いついた時、真っ先に衛子夫と相談したが、彼女はさすがに匿う事は出来ないと拒否した。しかし、何人かのまだ顔も知らぬ宮女を紹介された、高い官位を持ち竇氏との繋がりを持ちそうな家の子女ではなく、低い身分の幼い女たちを、そんな無垢な彼女たちであれば劉徹の寵愛を受けて衛子夫のように夫人としての地位を得るために尽くすだろうと。
劉徹が韓嫣を連れて後宮に入ろうとすると彼は固辞しようとした、何しろ、後宮は男子禁制であり女人もしくは宦者を除き、天子以外の男が足を踏み入れることは死罪にあたるからだ。彼はこう言う「衛の霊公の寵愛を受けていた彌子瑕という少年が居ました。衛の国の法では、君の車を勝手に用いることには足を斬られる罰が与えられるとされていましたが、母が病に伏せたと夜中に聞き慌て、君命と偽って君の車に乗って会いに行きました。霊公は親孝行者としてこれを赦しました。また彼が霊公と共に果樹園に向かい桃を食べた際あまりにも甘く美味しかったため食べかけのそれを霊公に差し出しました、霊公はこの無礼を自分への愛故にそれを直ぐに食べさせたかったのだと許しました。しかし彌子瑕の容姿が衰え寵愛が薄れると、霊公は君命を偽り君車に乗りまた余りの桃を自分に食わせた、と彼を処罰しました……」と。劉徹は「朕の王孫への愛は霊公のように弛むものではない、いつまでもそなたを寵愛し続ける」と少し機嫌を損ねたが韓嫣は引き下がらず「小臣は主君の愛が変わって後に罰された、情愛の移ろいに依って法が変わるという事に思い煩って言っておるのではありません。寧ろ、法を貴ばず情愛によってそれを捻じ曲げる事が良くないと言っておるのです」と反駁した。躊躇する韓嫣の手を「朕は天子である」と劉徹は強引に引っ張り後宮の中へと入っていく、それに逆らう事は韓嫣にはできなかった、この時、彼は後に自分は後に死を賜ることになるだろうと予見した、彌子瑕のように後に罰するということを劉徹は決してしない、しかしながら自分を恨む者、特に皇族による糾弾であれば天子とは言え自分を庇いきれないだろうから。「衛子夫から秘密を固く守る者を紹介されておる、安心すると良い。どちらにせよ、この外ではもうそなたと起臥を共にすること叶わぬのだ。其方と共に居るところを他の者に見せなければ、そなたが誹られ恨まれることも無いだろう」と、韓嫣は小さな一室に連れ込まれる。幼い女がそこにいた、夫人の側仕えの宮女だろうか、華美な装飾品を纏っていない所を見れば良家の子女ではない卑しい身分の者である事は分かる、そう、権力争いからは遠く離れた無垢な少女であると。彼女が見ている中で彼は強い力で寝台の上に組み伏せられる、武人であるが故、それに逆らう事は容易ではあるものの彼は決して劉徹に逆らおうとしなかった、こうして後宮で睦みあい情愛を交わしている所が決して誰にも見つからなければいいのだが、と思いながら。そんな心配とは余所に彼の陽のものには血が滾る、秘密の情事に人は興奮を覚える、それもとくに危険な秘密というものは人を強く魅了するから。
はじめのうちは、この情交を危険なものだと認識していた韓嫣であったがしばらくしてこれが露見する危険が無いと分かると、彼の方から劉徹を誘うような仕草をするようにもなった。何せ、両者ともに胤が空になるほど何度も交わり劉徹が寝静まったあとにも、韓嫣には楽しみがあったからだ。彼が眠る劉徹の傍らで兵書に読み耽っていると秋の虫のような鈴の音が彼の気を引く、あの幼い宮女が目配せをし、手で招いている。恐らく、彼女と密通しても劉徹は怒りはしないだろう、だが韓嫣にはそのつもりは無かった―――彼が外風だけを好み女人には一切惹かれない、という訳ではないが。寧ろその彼女と暗い夜の中話をするのを好んだのだ、何せ、この自分に対して「どのようにすれば天子の寵愛を受けることができるのか」であるとか「天子はどのような者を好むのか」と聞いてくるからである、この問いは彼を強く満たす、周りから見ても天子が最も寵愛しているのは自分である、と聞かされているようなものだから。次第に多くの宮女たちが夜な夜な劉徹の傍らの韓嫣のもとに集まってくるようになった。
ただ、多くの者達が韓嫣が天子とともに後宮に出入りしていることを知ってしまえばそれが皇太后や太皇太后の耳に届いてしまうのは避けられない、人の口に戸を立てることは出来ないから。ある宦者から韓嫣が天子と共に後宮に入り宮女と密通しているという告発を受けた皇太后は、同じような告発を受けているであろう太皇太后や館陶公主と何度か書簡を交わし、多くの者が同じ内容の密告をしており、事に偽りはないと確認すると彼に死を賜った。皇太后による賜死の使者が韓衛尉のもとに向かったという報告を聞いた劉徹は我を忘れたかのようにすぐさま自ら馬を走らせ彼女の邸宅に向かった、天子が自ら馬を駆るなど異常な事態である、それを目にした者すべてが一度口を開けて立ち尽くし、彼が走り去ってから遅れて平伏した。
「母上、賜死を取り消してもらいたい。あの者は朕のみを愛する故、宮女と密通など決してせぬ男だ。そもそも周りの者達が彼の優れた武と将器を素直に認め妬んだりせねば、わざわざ後宮で隠れて交わると言う事もなかったのだ」
顔を赤くし怒気を孕んだ声でそう言う自分の息子である皇帝を見て、皇太后は一度大きく溜息をつきこう言った。
「良いでしょう、天子がそう仰るのなら」
しかしながらこう続けた。
「これは最後に一度だけ、子の母として言います。これまで多くの功がある大夫たちを差し置いて、情愛を以てして九卿になった男を良く思わない者などいないでしょう、例え彼に確かな将才があったとしても。また、彼は江都王に無礼を働いたようですね?あなたの車だと勘違いし平伏した江都王に何も言わずに走り過ぎたとの事。それでも、あなたには彼が驕っていないように見えるかもしれません。……これまでに多くの佞臣が居ました、夏、殷、周、七雄の時代、そしてあなたが皇帝になるまで。媚びへつらわれる、それもあのように勇壮な外見で才覚豊かで麗しい顔の者からであれば、その非を僅かでも認めたくない気持ちはよく分かります。虞の君は晋から送られてきた美男たちを寵愛しました、自らに媚びへつらう彼らを寵愛し、国を亡ぼす事になると分かっていてもその讒言を受け容れ賢臣・宮之奇を追放しました、それが晋の策略であることは分かっていただろうにも関わらず……。はっきりと言います、彼はこの国に不和を齎します、呉楚の乱のときの様に、この国が二つに割れる争いを起こすやもしれません。彼は韓王信の後です、高祖の事を悪く言うつもりはありませんが、彼は高祖に疎んじられ、辺境に遷され、そして匈奴に降り、柴将軍に敗れ斬られました、恥辱に塗れて死んでいったのです、高祖のせいで。彼が漢帝室を恨んでおらず、決して自分に背くことは無いとどうして言えるのでしょうか」
穏やかな声色であったものの確かにその心の奥には強い覚悟を持っているのが劉徹にもはっきりと分かったが、それでも劉徹は反駁する。
「母上は分かっておらぬのだ、彼の忠義は本物である。韓候も文帝の寛大さに報いるために忠義を尽くし、自ら戦場に向かい戦ったではありませんか。王孫は漢に叛旗を翻すつもりなど毛頭もなく、寧ろ匈奴を討ち破り、その汚名を晴らさんとしております、……そう朕に語ったのだ!どうしてそんな彼が裏切るだろうか!匈奴から勝利を得る、高祖が成し遂げることが出来なかったそれは、文景により溜められた財を用い集められた優れた帯甲、壮健な馬、その漢の精鋭を引き連れる夷狄の戦に詳しい者によって成し遂げられる―――王孫は必ずや匈奴を討ち破る、その才覚は確かだ、その武は確かだ、朕には彼が萬騎を率い砂漠を駆け匈奴を蹂躙し漢の地から追い払うのが見えておる!」
「確かにそれは疑いようのないことかもしれませんが、後に残るものは一体なんなのでしょうか。匈奴を討ち破るという大志、それは見事なものです、泰山からあなたを望む高祖もさぞ喜んでいるでしょう。しかし必ずや、その後には不和による乱が待っています、戦が終われば新たな土地や更に大きな軍を保持するためにより多くの税が必要となり民は疲弊するでしょう、例えば韓衛尉や、衛氏の男など新しい将が大きな功を挙げ、賞を与えればそれに嫉妬する者は多いでしょう。太皇太后の派閥にないものがそうして高い官位につけば、この国は二つに分かれます。一つはその戦で功を挙げることに成功した新しく若い者達、もう一つは古くからの者達で、時代についていけなかった者達。そのような不和に、遠征の出費による国の疲弊が合わされば、また乱が起きます、私はそれを憂いているのです、匈奴を討ち果たすのはそれほど大切な事なのでしょうか」
「母上、それではこれからも匈奴に謙り、公主を差し出し続けろ、そうおっしゃるのですね」
皇太后には、劉徹の背に炎が立ち上っているのが見えた、天を焦がし、そしてその身をも焼きす尽くすような。彼女はもう何かを彼に言おうとは思わなかった。
「よろしい、正義を解さず、官位の高低、自らの財の多寡に一喜一憂し、他人を妬み、剣を手にせず口先だけで戦う情けない臆病者たち、朕を傀儡として操ろうとしこの国を牛耳ろうとした太皇太后たちも漢帝室の敵である、いつか必ず匈奴共々全て除いてやろう。そして泰山にて封禅の儀を行い、高祖に朕の勝利とそれによって手に入れた漢の栄光を伝えるのだ」
拳を握りそう高らかに宣言した彼は近くの者に、韓嫣のもとに向かい賜死は取り消されたと伝えるように命じた。
韓嫣が賜死を伝える書簡に目を通した時、劉徹の顔が彼の脳裏に浮かんだ。そして思案する、自分が居なくても衛青や公孫賀は匈奴との戦いで勝利を挙げるだろう、李将軍も自分が居なければ彼らと協力し、遠征の勝利をより確実にするだろう。この国の中の不和を取り除くためにも自分は素直にここで死んだほうが良い、今この時は確かに彼は大いに悲しむだろう、もしかしたら自分の事を想い涙を流すかもしれない、しかしその後に自分のせいで苦しむことも無いだろう、と。自分が韓王信の汚名を晴らすこと、そして劉徹の為に戦うことはもう叶わない、それを悲しくも思ったが、それよりも劉徹を煩わせることもないかと思うと、そんなことはどうでもいいことだと感じた。彼は素直に剣を手にし首に添えた。
劉徹による使いが韓嫣の邸宅に着くと、朗々とした歌が聞こえた。中原では聞くことが無い旋律、恐らくは西域の歌謡なのだろう、そのどこか物悲しい旋律に心打たれた使者は我を忘れ唯立ち尽くし涙を流しながらそれに聞き耽った。
韓王信不赦、弓高侯遂帰、有功於呉楚、而猶萬民誹。
願将萬餘騎、連翩西北馳、斬首虜数萬、揚聲沙漠垂。
興上共臥起、望萬騎攜旗、帯甲何燦爛、而不可避危。
臨賜死之時、志在伐四夷、為鬼将撃彼、應弦倒胡騎。
歌の終わりと共に、我を取り戻し韓嫣のもとに向かった彼が目にしたのは自刎し果てたその姿であった。
韓嫣 姫百合しふぉん @Chiffon_Himeyuri
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
異常中年独身万年助教/姫百合しふぉん
★3 エッセイ・ノンフィクション 連載中 21話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます