韓嫣

姫百合しふぉん

第1話

光と影―――高祖の敗北により結ばれた公主を単于に差し出し貢物を毎年贈るという屈辱的な約定、それを武を以て覆した男。彼は外戚でありまた遊牧民族に詳しい衛青・霍去病を抜擢し西域に当たらせ、両将軍の稲光の如き進撃と奮戦により匈奴を打ち破り、またそれにより西域への道を切り開いた。彼は更に南越および朝鮮半島の異民族をも伐ち破り前漢最大の版図を築き上げた。版図の拡大は異文化との交流を盛んにさせ、それによる恩恵を漢に齎し大いに国を繁栄させた。然しながら晩年は悪政が続く。増税、改鋳、塩鉄の専売による国土の荒廃。まるで火にかけられた水の様に湧き上がり爆ぜる彼の怒りにより軽い罪や無実であっても処刑された者も多い。雄材大略であり漢の最盛期とも言える時代を築いたが、それ故に文・景帝の治世による蓄財を浪費し民衆を疲弊させた、と評価される第七代前漢皇帝劉徹は死後孝武皇帝と諡された。


劉徹は今上である劉啓の子であるが先に生まれた男子は多く、四歳の時に中原から離れた、夷狄が跋扈する朝鮮を海の先に臨む膠東の王となる(※当時の朝鮮王族の衛氏は後述する臧荼の反乱による燕からの亡命者であり、数多くいた漢からの亡命者が集まり異民族国家を乗っ取ったような形になっていたのでこの表現はあまり正確ではない)。封土の削減に反発した劉家の諸王が連合し謀反を起こした呉楚七国の乱において膠東王劉雄渠が敗れた後、一年の間、王が不在で郡となっていた地である。中央の権力争いとは無縁な生を歩むかと思われた彼だがその三年後に皇太子となる。漢王朝に於いて女の権力は強い。かつて呂太后が漢の皇室を専横したように太后が皇室に於いて強い権力を振るうことがある。竇太后、つまり今上の母にあたる彼女は、夫である文帝が専ら鄧通という男を寵愛したことへの強い妬みからか皇室を牛耳ろうと動き始めたのである。十男にあたる劉徹に、彼の従妹でありまた竇太后の孫にあたる陳阿嬌(※阿嬌は小説・漢武故事が出典の字、若しくは諱であり、史書とされているものには記されていない)(※近親者との婚姻については、同氏不娶というように忌まれたが氏が異なれば問題は無かった)を娶らせようとした。何故皇太子に娶らせようとしなかったか、それは今上の夫人の一人であり、当初皇太子であった劉栄の母である栗氏と陳阿嬌の母でありまた竇太后の娘である館陶公主との仲が悪かったからである。彼女は劉徹を傀儡にすることで自らとその縁者に権力を集中させようとしたのである。

劉徹はその意図に気づかないほどの愚鈍ではない、寧ろ幼い頃より気骨に溢れた男子であり、英雄となるだけの気質を備えていた。皇太子になってからは四書五経はもちろん、それだけでなく諸子、特に法家の勉学に励むようになる―――太后が自分を傀儡の天子としようとするのならばそれを利用して漢に栄光を齎すのだと。そんな彼が十二の時に運命的な出会いを果たすことになる。彼が封土の見聞を行っている時、ある美しい音を聞いた、それは矢羽が風を切る音であるのは確かであったがこれでまで聞いたどの音よりも鋭利で、鏃が鎧を貫くことを想像させる雄々しさを持ち、その射手が優れた人物であることがはっきりと分かったのである。彼はその人物を目にしたいと思い垣沿いに馬を進める―――それはある種、慕情を抱いた心持に近く、彼の鼓動を馬が駆ける音のように大きくさせる―――近づくと遂にその射手の容貌を見ることが叶う。果たして、その射手は美しい男であった、劉徹より少し歳は上だろうか。背丈は八尺は優にあるだろうか、許嫁の阿嬌には纏う事が出来ない強かさを持った優艶さ―――切れ長の瞳は燦燦と輝き、玻璃や玉璧のような雫が彼の細身でありながら筋ばった身体を彩る。馬の嘶きが聞こえる―――彼の傍らには静かにその時を待っていた馬がいた、矢筒を背負い弓を片手にそれに飛び乗った彼は広い練兵場を駆け始め、疎らに立ててある藁を集めて作った的に向けて矢を放ち始めるのだ。薄い布だけを纏っているからか、弓を引き絞るその肢体の美しさが際立つ、張り詰めた弓とよく似たその身体は奔る馬の背でも何ら乱れることは無い。その身体の緊張が解かれると矢が空気を貫いた震えが劉徹の身体まで伝わってくる。驚くことに目にもとまらぬ速さで空を引き裂いた矢は寸分の狂いもなく百歩以上先の藁の敵を射抜き砕いた、しかも馬の背に在っても一度も外すことは無いのだ、弦を引けばその都度、硬く纏めた藁に深々と突き刺さる音が聞こえてくるのだ。彼がぐるりと回り全ての的を射抜き終えると劉徹の姿に気づいたのか馬を降りて頭を下げる、そうすると彼の姿は垣に隠れてしまい見えなくなってしまうから劉徹は馬を寄せ、垣の上から彼を見下ろす。

「膠東王足下、無礼をお許しください」王の前でもそれに目を呉れずに騎射を続けていた無礼に対し彼は陳謝する。これに対し劉徹は叱責するつもりは毛頭もあるはずが無かった、なにしろ何よりも美しい光景を見ることが出来たから。「見事な腕前だ、顔を上げ名を名乗るとよい」朗々とした声―――劉徹は皇帝の血を引く者であり、皇太子である。例え幼くともその威厳は確かである。弓を引く時の身体の緊張とは異なる強張りを僅かに湛えながら騎射の彼は劉徹の目を見る。

「小臣は韓嫣王孫、弓高候の孫です」

韓嫣、字は王孫(※生年不詳のため劉徹の三歳年上でこの時既に成年しているものとしてある。漢書・佞幸伝では「及上為太子,愈益親嫣」とあるため劉徹が七歳になる以前に出会っていることになるがそこは考慮していない)。弓高候とは韓頹当という人物で戦国七雄韓の王族の後である。その父である韓襄王の孽孫(※庶子の子)・韓信(※淮陰侯韓信ではない)は高祖に仕え多大な戦功を挙げ諸侯王に封ぜられるが、劉一族への権力集中を目論んだ高祖から西の端である太原に左遷され、軍備も整わぬ間から匈奴の侵略を受け、已む無く投降することになった人物である。以降匈奴の将として漢と幾度が交戦し、柴将軍(※剛侯柴武、陳武とも)に敗れ斬られた。後に韓頹当は文帝に許され漢に戻り、匈奴での生活によって騎兵の運用に通じた彼は呉楚七国の乱で群を抜く戦功を挙げて弓高候に封ぜられた。韓嫣はそのような高貴な血を持つ優れた武人の孽孫にあたる。彼の言を聞いた劉徹はその秀でた体躯、優れた容貌そして射御はその出自によるものかと納得した(※韓王信の背丈は八尺五寸あったとされている)。劉徹はそんな彼を手元に置きたいとすぐに思った。劉徹は父や祖母に書簡を送り許しを請うた、韓嫣は庶子の子に当たるため何らかの候位を継承できるわけでもないが貴い血筋であるため、劉徹の学友として側仕えすることをすんなりと許された。

彼ら二人はすぐに仲良くなり何をするときも共に過ごした。共に四書五経を学び、法家や兵家を読んだ。韓嫣は撃剣射御そして容姿に優れるだけでなく聡明な男であり劉徹はそんな彼を愛さずにはいられなかった、初めて彼を見た時は手元に容姿に優れた武人を置いておきたい、程度のものであったが学友として共に勉学に励む度に彼の聰慧さを知り片時も離さず彼と共に居たいと思うようになってゆくのである。最も好んだのは共に狩りに出かける一時である、弓を引き絞る韓嫣、その死を齎す所作は心胆寒からしめる恐れを抱かせる確かな恐怖を感じさせながらも優雅で艶めかしいその姿を劉徹は瞬きもせずに見つめ続けた、その全ての所作のどこを切り取っても詩を詠めるほど、いや、詩では表す事ができないほど美しく見惚れてしまうものであったから。古来より王や天子は内外を好む。漢においては高祖には籍孺、恵帝には閎孺、そして劉徹の祖父である文帝には鄧通という愛人がいた。周や春秋・戦国時代からありふれた事であり、晋の武公の家臣であった狐突は「君主が女色を好めば太子の地位が、男色を好めば相室の地位が危うくなる」という言を残している(※戦国策では外征を好めば内政が危うくなり、内政を好めば外敵に苦しむとしている。国語では外征を好めば国の大夫達が危うくなり、内に籠って色に溺れていれば嫡子の地位が危うくなるとしている。韓非がこれを脚色した)。

劉徹もそれと同じように内外を好む気質を持っていた。韓嫣との仲は時と共に深まりついには起臥を共にするようになる。劉徹に跨り彼の陽の物を咥え込む韓嫣は嬌声を上げながら快楽に震える、艶やかな黒い長い髪を振り乱す。その姿、馬に跨りながらも僅かも乱されずに凛と弓を射続ける姿、劉徹が一目惚れしたそれとは全く異なるその姿も、彼にとっては愛しいものであった。野外で矢を射るときには見ることが出来なかったその裸体、背は高くも身体は線は細く柳のような手足には決して手折ることができないと思わせる筋が密に詰まっている、弦を引く時には冷えきる切れ長の目は、夜の中で灯を内に迎え入れどのような玻璃よりも美しく赤く煌くのだ。彼が高まった熱気を胤として韓嫣の中に注ぎ込むと、劉徹の顔には冷たい鏃ではなく暖かい姫姓の胤が降り注ぐ、それを手で掬い集めて飲めばどのような仙薬でも与えることが出来ない力を劉徹に齎す、だから何度も何度も、夜を通して韓嫣を愛し続けるのだ。

「彘はこの国をどのように導くのですか?」

寝台の上で韓嫣は劉徹にそう問うた。彘は豚を意味する言葉で、魔除けのために名付けられた劉徹の幼名であるが、自分と韓嫣が最も親密な仲であることを示すためにそう呼ばせるようになっていた。

「漢を正しい国に、民のためにこの国の不正を全て正す、明確な法、公正な道理を布すのだ。漢を強い国に、不正は国の中だけでない、匈奴との間にある不平等な約定。公主や貢物を差し出すことが無くなる様に彼らが平伏すまで打ち破る」

劉徹はそう雄弁に傍らに横たわる韓嫣の頬に触れながら言う。

「陛下の道を塞ぐ胡騎は小臣が全て射倒しましょう」

韓嫣も劉徹の事を慕うようになっていた、劉徹と共に過ごすたびに韓嫣は彼が偉大な皇帝になることを確信するようになったから。西域では苦しい戦いが待ち構えている事、それは祖父から幾度も聞いた昔話から想像がついている、それでも彼は劉徹と同じく匈奴を伐ちたいと胸の奥で願っていた―――先祖の名誉を取り戻すために、二度と情けない裏切者の一族と罵られないために、そのためには弓高候の様に国内の乱で功を上げるのではなく匈奴との戦いで功を挙げる必要があるから。

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