第3話

劉徹は匈奴を打ち破り、彼らとの不平等な約定を撤回させるための軍備の増強に励む傍ら、自らの意向汲む者を軍に携わる官職を中心として多く取り立て始める。この部分は未だ多くの実権を握る竇太皇太后が詳しくは把握しているものではなく、劉徹の自由が利いた。まず、韓嫣がそうであるし、呉楚七国の乱で功があり兵法に明るく即位前は太子舎人であった公孫賀もそうである。それに加え公孫賀は衛子夫の姉を娶り、その下には衛子夫の弟である若き衛青をつけた。軍人を中心として劉徹に近いものを高い位に取り立てていくことで竇太皇太后の力を少しずつ削ろうと政争に励んでいたのである。

ただ余暇があれば彼は韓嫣を連れて、幼き頃から二人の楽しみであった狩りに出かけるのである。未だ竇太皇太后による抑圧を受け、それを跳ね除けるために駆け引きを常に続けている劉徹にとって、愛する韓嫣が弓を射る姿を近くで見ることが出来るこの時は彼にとっての癒しであった。とはいえ、幼少時の様に僅かな共だけを連れて狩りに赴けるほど、皇帝というものに自由はない。狩りは貴族の子息がその武を皇帝に示し、あわよくば取り立ててもらおうとする場でもあるからである。

この日は上林で行われた狩りも韓嫣とそして近しい者だけが集まる場ではなかった、江都王劉非(※劉徹の異母兄)をはじめとして多くの者が参加することになっていた。自らの寵愛する韓嫣の優れた射御を知らしめる機会と言えなくはないものの少しくらいは彼と二人だけの時を過ごしたいと思った劉徹は彼を先に行かせ、その後を追い、人が集まる前に僅かな時間でも二人で狩りを楽しもうと考えた。

期せずして劉非は皇帝より先に狩りへと向かう韓嫣の車を見かける、それを見た劉非は天子の乗る車だと思い道の脇に平伏した。彼はその車が通り過ぎるのをゆっくりと確認しかの車が遠く離れたのを確認すると、続いて上林へと向かった。狩りの場に到着した劉非は唖然とした、そこにいたのは天子ではないではないか!その偉丈夫の名を周りの者に聞けば韓衛尉であるという、この男、劉家の王が天子と間違えて平伏しているのに目も呉れずに走りすぎたというのか!劉非の心中に沸々と怒りが沸き上がっていく、彼が韓嫣に怒りをぶつけようとしたその時、天子がその場に現れた。劉非は強い怒りを鎮めなければならず、五臓六腑が熱い炎に焼かれてる苦しみに耐えなければならなかった、何しろ異母弟とは言え、劉徹は皇帝である。彼の前で彼の寵臣に怒りをぶつける等あってはならぬのだ。劉非は勇敢かつ将才のある人物で、後継者争いなどには毛頭も興味はなく軍を率いて大成したいと思っており、呉楚七国の乱でも父景帝に請願し軍を率い反乱軍の首魁である呉王劉濞と対峙した。そんな彼はこの日まで実のところを言えば韓嫣と相まみえるの楽しみにしていた、どのような武人なのだろうか、その優れた容姿を以て媚びてその位を手にしただけであると罵る者らが多い一方で、武人の多くは必ずその騎射の技術と将器を認めているからだ。しかしながら今は彼への怒りが強まるばかり、飛ぶ雁を容易に射堕とし、馬を駆りながら百歩は先にいる鹿を屠るその極めて優れた弓術を見せつけられてもただ憎しみの念が湧くだけなのだ。日が正午になる前に彼はその怒りの余り気分を悪くしてしまい帰路についた。

後日彼は王皇太后の元に向かった、そして涙ながら皇太后に「韓衛尉の車を陛下のものだと思い平伏していた寡人の事に目も呉れずに彼奴は通り過ぎたのです!嗚呼、寡人は江都の地を返上し韓嫣のように陛下の側仕えになりとうございます!もし寡人が劉家に生まれていなければ陛下に媚びへつらい、万騎を率いる将軍を目指していたでしょう、そう、韓嫣のように!」と直訴した。王皇太后にとって劉非は腹を痛めて産んだ子ではないからか、彼が涙ながら訴える姿に胸を打たれるところはなかった。しかし彼女は自らの子である劉徹が韓嫣を寵愛するあまり国が乱れるのではないのではないかと思うと心が痛かった。また王皇太后には韓嫣には含むところがあった、娘、金俗の事である。王皇太后はもともと金王孫という男と結婚しており、金俗という娘が間にあった。しかしながら二人の仲は、娘二人が富貴になるという占いを信じた彼女の母、臧児(※燕王・臧荼の孫娘、奇しくもこの臧荼は高祖の代の諸侯王であり、また高祖に叛旗を翻して斬られている。韓王信と異なり高祖ではなく項籍によって封せられた王であるが、淮陰侯韓信に帰順するかたちで高祖に従っていた)によって引き裂かれ、彼女は後宮に入れられることになった。彼女は金俗の身を慮り民間に隠していたが、韓嫣がその噂を聞き及び、劉徹の為を思ってか彼女を探し出し劉徹に引き合わせたからだ。劉徹は彼女を貴び、湯沐邑の地、屋敷とともに多くの奴婢と公田を与えられ修成君と号された。皇太后は金俗と再会を果たしたとき胸が一杯となり涙を抑えられなかったが、彼女は金俗が外戚の一員となるより静かに暮らして欲しかったと思う心の内は変わることがなかった。加えて、太皇太后や館陶公主に対しては特に何らかの意見を持っているわけでない皇太后であっても、彼女たちが韓嫣そして衛子夫を憎んでいることは非常に大きな問題であると思っていた、何しろ彼女たちの影響力は未だ大きいから。皇室の女、特に今上の生母というものはどうしても情報が集まってくるものである、劉非も自らが劉徹の生母であるから直訴したのだろう―――悩ましいものである、外戚同士の争い、即ち太皇太后の一派と今上皇帝に近しい者たちの派閥争いには自分からは関わりを持ちたくない、できる限り、である。そう思案しながら王皇太后は劉非の顔をまじまじと見た―――このように劉家の者たちの間の関係すら悪くするならば、やはり韓嫣は除かなくてはならない男なのではないのだろうか、そう思うようになった。彼女には更にもう一つの懸念があった、それは彼の出自。彼の先祖である韓王信が漢を裏切ったのは、猜疑心に捕らわれ一族への権力集中を狙った高祖が諸侯王を左遷したことが原因である。あの時代は謀反が続いた、自らの先祖である燕王臧荼もそうであるし奇しくも氏と諱を同じくし楚漢戦争で大きな功績があり国士無双と謳われた淮陰侯韓信もそうだ。彼は戦後、謀反の疑いをかけられた際に「狡兔死して、良狗亨らる」と越の范蠡の言葉を引いて嘆いたとされる。これまで多大な功績をあげてきた功臣であっても戦が終われば用済みどころか謀反の種でしかない、韓王信もそうであった、彼もまた高祖に殺されたようなものなのである―――つまりは韓嫣は劉家を恨んでいる可能性があるのだ、ましてや彼は七雄の後である、姫姓を持つ由緒正しい……。やはり韓嫣は危険だ、またこの国に呉楚七国の乱の時のような災禍が降りかかるやもしれぬ、そう思うと王皇太后は韓嫣の悪い噂を集め死を賜ろうと密かに動き始めた。ただこの時は直訴した劉非に対して「あなたの言い分はわかりました、実を言えば妾もあの男を危険なものだと思っています。しかしながら我が子はもう妾の手を離れているのです、……できる限り陛下の気を損ねぬように、韓嫣への偏愛を改めるように伝えます」と言うだけしかしなかった。


劉徹は軍事およびそれに関わる実権を掌握するようになってきていたが、それを除いたものは依然として太皇太后である竇氏が牛耳っていた。しかしながら太皇太后は焦っていた。陳皇后が劉徹に愛されていない事は後宮の者でなくても膾炙したものであり、また上大夫には武官(※文官武官の住み分けは前漢においてはあまり明確ではなかったが……)を中心として劉徹の意を汲むものが増えて来ていたからである。劉家の縁者でないにも拘わらず衛尉である韓嫣は劉徹から非常に寵愛されている、また太僕である公孫賀は劉徹の寵姫である衛子夫の姉・衛君孺を娶り、また衛子夫の弟である衛青はその卑しい出自にも関わらず劉徹に重用されている。竇太皇太后、その娘の館陶公主、そしてその娘である陳皇后は韓嫣よりは衛氏の台頭に強い危機感を抱いていたのである。ある時、館陶公主と陳皇后は衛子夫を憎むあまり、その弟である衛青を拉致、監禁した。これはすぐに公孫賀の縁者であり、公孫賀、韓嫣、そして衛青と共に漢の騎兵の訓練・育成に当たっており仲が良かった騎郎・公孫敖によって救出された(※明確に公孫賀・公孫敖の間に血縁があるとは記されていないが本貫は両者ともに北地郡の義渠である)。しかしながら当時の大理(※景帝の代から少しの間改称されていた延尉のこと。上大夫であり刑辟を司る)は竇氏の口利きによって取り立てられたものであったためその意向を汲みこの横暴を不問とした。

館陶公主はまた陳皇后を慮り、ある日、彼女が劉徹の寵愛を受けるためにはどうしたら良いかを劉徹の姉である平陽公主に尋ねた事もある。彼女は聡明でありまた気骨のある人柄でその性質はよく劉徹に似ているといえる。直言を好む彼女は「子がいないからでしょう」そうしれっと館陶公主に答えた。もっとも、もう一つの理由―――それは別に韓嫣などと関係なく太皇太后の影響力がこれ以上強くなる事を劉徹が避けているということ―――それを口にすることは無かった。

それから数日後、館陶公主、陳皇后は太皇太后の邸宅に集っていた。

「妾の娘が天子に寵愛されぬ理由は子がないからと平陽公主は言っておったが……」館陶公主はそういうとため息をつきながらこう続ける。「なぜこんなにも美しい阿嬌ではないのだ、衛子夫への寵愛は深まるばかりではないか」と憤りを交えて吐き捨てた彼女のほうを太皇太后は見る。

「韓嫣」

その厳かな呟きにその場は静まりかえる。彼女は病で盲いてからが長いためか、正確に人の顔を見ることが出来た、その光の宿らぬ瞳で娘と孫を見据えているのだ。そう、碌に物を見る事叶わないその目で、二人を見据えながら忌々しげにその名を口にする。

「あの男じゃ。あの男は妖艶な身なりで天子を惑わし、漢に厄災をもたらす魔物じゃ、七雄の亡霊なのじゃ」

もともと黄老思想に傾倒しており晩年となってからは特に神仙思想に染まっていた彼女の言はどこか浮ついており、妄想によるものなのか、それとも何か確かなものから推察しているのかが難しくなってきている。母の館陶公主は怒り、祖母は狂ったことを言うばかり。陳皇后にとって針の筵である、まるで自分に魅力がないから愛されないと責め続けられているようなものなのだから。陳皇后は咽び泣くよりほか無かった。

「見よあの男、今宵も漢帝室の胤を飲み込んでおる」

暗闇のなかにあっても彼女には確かにその様が見えているのかもしれない。それとも、彼女はすでに狂ってしまっており韓嫣と愛する夫の寵愛を奪った男、鄧通とを混同しているだけなのかもしれない。


太皇太后の目は確かだったようで、この時ちょうど劉徹の陽のものを咥えこんだ韓嫣が胤を受け止めているところだった。それと同時に自らの子種を劉徹の腹に打ち撒けた彼はそれを掬い口に含み、劉徹の口を吸い興にその味を愉しむ。行為が一頻り終われば劉徹は目を閉じる、腕にすがる韓嫣の温かさを感じながら。劉徹は一人思案する―――そろそろ何か問題が起こるかもしれない、いやもう起きているのだ。奴らは愛する衛子夫の弟の衛青にちょっかいをかけてきた。次は韓嫣の身に何かが起こるかもしれない、しかしながら九卿の多くは未だ竇氏の息がかかったものばかりだ、大理もそうであるから罪をでっちあげて死を賜り、あの者らを粛清することもできない。何らかの大義を手に入れて直接兵を送り誅殺する必要があるのかもしれない、とにかく韓嫣を失うわけにはいかないのだ。「王孫、朕はそなたを守る、下らぬ国内の争いから」と劉徹が呟くと韓嫣はまだ起きていたのか「はい、彘はきっとそうしてくれるでしょう。小臣はまだ死ぬわけにはいきませんから。韓王信の後であることを謗る声は未だ嫣の元に届いてきます、嫣はどうしても匈奴との戦で功を立てて雪辱を果たす必要があるのです。彘に愛していただいてこのような立場に取り立てていただけたのは僥倖でした」と言うと、多少劉徹は悲しそうな顔をしながら「朕を利用するつもりだったのか?」と彼に問うと「はい、はじめはそうでした。でも今は違います。あなたの寵愛を受けていれば小臣は万里の先まで駆け、彘に従わぬものを討ち果たすことが出来るでしょう。西でも東でも北でも南でも休みなく駆け続け、放つ矢は外れることなく全て敵を射抜くでしょう」と韓嫣は笑顔で答えた。

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