光輝ある聖文を讃えて 《シシリー・マフード》



17545年12月10日 奉納献詞 シシリー・マフード



万物を造りし偉大なる聖文スクリプトに我が献詞を添える光栄にあずりましたことを感謝します。サット・チット・アーナンダ。


この真の名を口にされることすら憚られる聖なる詞文をわたしは職業柄ただ脚本スクリプトと呼ばせて頂くことにしている。これが俳優と舞台装置を、つまり世界そのものを動かしているのだから。


16人の献詞者レビュアーの伝統に連なる選ばれし者に加わるなどとは夢に見たこともなかった。これを綴るわたしの手は、大任を授けられて、かすかに震えている。


ご存知の通り、我々の世界は保全者エンバーマーらによって復元された。彼らは隠れても、その事績自体は隠しようがない。


気の遠くなるような年月をかけて大地は熱を取り戻し、海は息を吹き返した。空と森と夜にも精気が戻った。偉大なる本文に描かれた通りに生態系と文明は再生され、文中に描かれたままの姿が再現された。そう、我々は反復された物語を生きているのだ。しかしてそれは呪いではない。


ワートとギアロ、そして数限りない騒乱と和睦が、農具と性具が、イデオロギーと迷信とが――かの聖文スクリプトより湧き出したのだ。最上の喜びをもって。保全者たちは16人(一説には17人とも言われる)の献詞者レビュアーの言葉をもとに本文を再編し、それをもとに世界を創造したと言われる。なんという深大な奇跡であろうか。すでに保全者たちは去り、彼らの意図も目的も知れぬまま我々再生された人類は歩み始めた。


聖文スクリプトは文明社会の設計図であり指標であり見えざる法である。この世界が巨大な既視感デ・ジャ・ヴの牢獄だとしても、わたしは大いなる歓喜とともに歩むだろう。物語は、悲劇さえも含みながら連綿と続いていく。おお、光輝なる聖文スクリプトの嘉するままに在れ。


しかし、すべて我らの運命は、あらじめ定められた筋書のままを辿ることになるのか。聖文スクリプトはあまりに絶対的であり、寸分の破綻も叶わぬものなのか。ギアロの蟹鉄道の車両ですら時に脱線事故を起こすというのに!


聖文によれば、わたしは29歳という若さで死に、その才能を惜しまれながらも人々の記憶の内に葬られる。記述された死に様は申し分ない。それは秋のことで巷では自殺だとされている(わたしはあんな稚拙な遺書を残すらしい)が、その動機そのものは文中に記述はない。あと数年のうちにわたしを死に至らせるほど絶望させる何かが人生に待ち受けているのだとしたら、それはそれで楽しみだ。


ともあれ、聖文スクリプトは絶対である。書かれていることは必ず起こる。では、心と自由を損なわれたまま、我々は予定調和の気怠い午後に暮らしているのか。否、そうではない。偉大なる聖文スクリプトが偉大である理由はそれが自由をも保証していることである。本文には不可視の行間と余白の領域がある。そこに明白な言葉として残されたよりももっと多くのモノがこの再建された世界にはあるのだから。


そのひとつは化外の地より人類を脅かす紙魚航ロスヘッドである。近年この小賢しい昆虫たちの脅威はますます大きくなりつつある。やつらの勢力はいまだ人類には及ばぬが、人類には到底実現できぬ結束力は侮りがたい。寿命は人間より短いながら旺盛な繁殖力と人類より盗み出した技術を応用することで計り知れない進化を遂げたのだ。


最後の章、最後の段落においてワートとギアロの民衆が一斉に空を見上げる描写で本文は閉じられるのだが、あれは紙魚航ロスヘッドの空よりの襲来を意味しているのだという不吉な説もある。終末音アポカリプティックサウンドとも聞こえる地鳴りは紙魚航ロスヘッドたちの羽音なのか、あるいは別なる恐怖に到来なのか、そのあたりは人々の関心の的でもあるが、まだ現在のこの時点において物語の主役たるファスダとヒューロさえも生まれていないのだから、終末のその先を思い悩むのは取り越し苦労と言えるだろう。


聖文スクリプトに描かれずにいる人々もまた幸いである。彼らは記述の外にあって世界を支えている勤勉なエキストラたちだ。真の主役とも言える。彼らは物語に描かれることで運命を呪縛されることはない。しかし彼らとて何がしかの物語を生きているのだ。むしろ人形である我々よりもずっと数奇で入り組んだ筋立てが彼らには用意されているだろう。


そして物語の登場人物たち――聖文スクリプトに描かれた我々は、ひとりとして神のごとき作者のプロットを打ち破った者はいない。前述したようにこの物語には余白がある。その余白の許す限りにおいて我々さえも自由だ。わたしシシリー・マフードについて言えば、園芸と木工の趣味は叙述から省かれているし、心理描写のなされぬ場面では邪な絵空事に気を取られていたりする。


そう、聖文スクリプトとは、決して抗えぬ運命であると同時に気軽なパートタイムのようでもある。それは魂の素顔でもあり仮面でもある。アドリブの許された演奏の楽譜? かもしれない。とはいえ、我々もそうでない人々も結局は似たような人生を享受しているのではないか。両者の懸隔は悲壮なほど大きくはない。


わたしはわたしの運命をすでに受け入れているし、そこに美しさを感じてもいる。いつかこの献詞レビューが読まれることがあれば、知っておいてほしい。ここに綴った言葉こそが、わたしの真実であると。これがわたしの最後から二番目の作品となるであろう。最後の作品は聖文スクリプトにある通り、長らく隠されたまま別荘の地下室から見つかることになるはずだ。


わたしの密かな願いは、こうだ。あの遺稿が新たな聖文スクリプトとなり、数千年の後、人類が滅びたその果てで、新たな文明の礎になること。保全者たちが荒廃した地上にわたしの言葉を見つけ、それを次の創造へと送り出すこと。


いや、わたしの言葉そのものは失われていてもいい。わたしの作品の周囲を飾るいくつかの批評レビューたちさえ残されていればいい。一篇のレビューからであれ、それは必ず蘇るだろう。信じなければならない。ある対象について言葉を費やすということは、対象そのものと同じだけの値打ちがある、と。これは信仰であり、ぶっきらぼうな事実でもある。


それは互いを参照点として、再組織化し、時として火と灰の中より蘇生させるのだから。あなたがたの綴る言葉は、いつだって新たな聖文スクリプトである。ワートとギアロの、ヒューロとファスダの物語が終幕を迎えても、わたしの物語は続いていく。それは銀幕の中でファスダが演じた女の物語であったかもしれない。あるいはその女が、聞き分けのなかった少女時代に脅し混じり吹き込まれた怪談だったかもしれない。


……おっと、インク壺の中身が切れたようだ。


わたしは書き過ぎたような気もするし、書き足りなかった気もする。とはいえ、我が血で綴るほどに差し迫ってもいない。自分の意思で何事も終わらせられないわたしにはちょうどいいきっかけだ。


もし続きがあるのなら、いつか誰かが筆を取るだろう。きっとそうするはずだ。奉納献詞に決まりはない。そこにおいて全ては自由だ。インクは紙に沈み込むことで定着するが、書く者の心は反対に身軽になるべきだ。おぼえているか。ファスダがはじめての日記をつけたのは保護した鳩を空に解き放った日だったろう? いや、まだ我々のファスダは生まれていないし、限りなき大空はあのか弱い翼を受け止めていない。


おお、文字がかすれていく。言葉は紙の白さに限りなく近く――


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フーリダヤム 十三不塔 @hridayam

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