第3話 逃亡と好奇心

 夢と現実の境界線を見つけるのは、難しい。「これは夢だ」と分かっていても、感覚の鋭くなった身体が、虚ろながらも鮮明に見える視界が、夢の世界に現実性を与えてしまうからだ。現実性を持った夢は、実際の現実よりも現実的に見える。本来は聞こえない筈の声が、悲痛な叫びとなって、眼前の光景に注釈を与えているからだ。


 注釈は、彼の心にこう訴える。「どうか、助けて欲しい」と。救いを求めて伸ばされた手には、哀願よりも苦しい、懇願の意思が感じられた。「自分を救えるのはもう、目の前の貴方しかいない」と。口では何も言わなかったが、彼を見つめる目は、そう無言の内に訴えていた。


 レウードは、眼前の罪人に手を伸ばした。眼前の罪人を救おうと。観客達の罵声を黙らせ、大天使の眼光を退ける力が無かった彼には、そうする以外の方法が見つけられなかった。今の自分には……悔しいが、これ以上の対抗策はない。罪人の身体を立たせ、周りの聖天使騎士団達を掻い潜り、安全な場所(そんな場所があれば、だが)まで罪人を逃がす方法しか。


 彼はほとんど無策にも等しいそれで、眼前の罪人を救おうとした。


 だが、「クククッ」


 罪人が不気味に笑ったのは、正にその思った瞬間。彼が自分の無力さに苛立ちを覚えた瞬間だった。罪人は今までの「それ」が嘘のように、彼の腕を強引に掴んで、「なっ!」と驚く彼の顔に眼光を突き刺した。


「お前も、だ」


 地の底から聞こえて来るような声、聞く者の心を思わず凍らせてしまうような声だ。


 罪人は彼の手をさらに握り、自分の足下に彼を引っ張り込もうとした。罪人の足下には……いつの間に現れたのだろう? 巨大な沼が広がっている。光はおろか、闇すらも通さない、ただ灰色の沼が、果てしなく広がっていた。


 レウードはその沼に脅えたが、それも長くは続かず、罪人がまた「クククッ」と笑った頃には(それに怒った事もあったが)、いつもの冷静な顔で、罪人の手を振り解いていた。


「そんな所に墜ちていられない。俺にはまだ」


 やらなきゃいけない事がある! その寝言が部屋に響き渡った事で、夢の世界に苦しんでいた彼は、現実の世界に戻る事ができた。現実の世界は、朝だった。窓から差し込む朝日は、昨日よりも眩しく感じられたけれど。その空に浮かぶ雲や、彼の鼻をくすぐる温かな匂いには、いつもと変わらない朝の雰囲気が漂っていた。


 彼は口のあくびを噛み殺し、自分の頭を軽く掻きつつ、椅子の背もたれに寄り掛かった。記憶は曖昧だが、どうやら昨日も机の上で眠ってしまったらしい。裁判記録の頁には昨日加えた新しい情報が書き足されていたが、それ以外の資料はほとんど散らかったままの状態になっている。それこそ、「無秩序」と言わんばかりに。資料の近くに置かれていた歴史書も、彼が自分の上半身を起した事で、机の端からもう少しで落ちそうになっていた。


 レウードは所定の場所にそれらを片付けると、外出用の服に着替えて(例の地味な服だ)、鞄の中に雑記帳と筆記用具を入れ、部屋の中から出て行った。部屋の外は、やはり静かだった。廊下を歩く自分の足音はもちろん、屋敷の外から聞こえる……いや、聞こえる音は同じだが、そこには妙な違和感があった。己の心をザワつかせる、ある種の危機感を覚えさせるのだ。小鳥達の囀りは、彼に対する警告のように。廊下を歩く自分の足音は、「それ」を大きくする合唱のように。すべてが、彼の警戒心を巧みにあおっていた。


 廊下の角を曲がった時も、自分の影にふと違和感を覚えてしまった。自分の影が、いつもより濃く見える。実際は光の当たり具合が違うだけで、影の濃さ自体はそれ程変わらなかったが、先程の違和感が忘れられないレウードには、その光景が何かの前触れのように思えていた(実際、廊下で一人の奴隷達と擦れ違わなかったのも、その予感を強めていた)。

 

 今日は、が違う。

 そのが何なのかは、分からないけれど。

 

 彼は一抹いちまつの不安を抱きつつも、真面目な顔で屋敷の食堂に向かった。食堂の中は……眺める事すら面倒くさい。いつもと変わらぬ光景が広がっていた。母親は周りの奴隷達に罵倒を飛ばし、父親は黙って自分の朝食を食べている。嬉しそうに笑っているのは、母親の前に食べ物や飲み物を運ぶ奴隷達だけだった。

 

 レウードはその光景に溜め息をついたが、今日の日課をやる方が大事だったので、憂鬱ながらも自分の定位置に行き、自分の父親に「おはようございます」と挨拶した。


 父親は、その挨拶に応えた。最初は、「おはよう」と穏やかに……だが息子の髪が目に入った瞬間、その息を思わず飲み込んでしまった。


「お、お前」


「なに?」と返すレウードだったが、母親の「そ、そんな」には流石に反応せざるを得なかった。「ど、どうしたんだよ?」


 母親は「それ」を無視して、息子の髪をただ指差しつづけた。


「髪が、髪が」


「髪?」と瞬いたのは、数秒だけ。数秒後には先程の予感が蘇り、それが今の状況と見事に結びついていた。今の状況は、見ての通り。彼の髪に脅える奴隷達が、その主人達に釣られて、主人の一人息子を見つめていた。


 奴隷達は阿鼻叫喚をも超える、醜悪な態度でわめきだした。


「堕天使だ! 『お坊ちゃま』が堕天使になったぞ!」


 主人の前に朝食を運んでいた奴隷も、彼の事を指差しながら叫んだ。


「お坊ちゃまを捕まえろ! 町の断罪所に今すぐ連れて行くんだ!」


 奴隷達は果物の乗ったお盆やら主人が飲み終えたコップ類やらを投げ捨てると、互いの顔を素早く見合い、そしてまた堕天使に視線を戻して、自分の顔に殺気を浮かべつつ、眼前の堕天使に向かってサッと走り出した。レウードも、その場から逃げるように走り出した。


 彼らは追う者と追われる者に別れ、食堂の中から勢いよく出て行った。


 ラフィナは、眼前の現実に泣き崩れた。


「ああ、そんな! うちの息子が、堕天使になってしまうなんて!」


 最早、息子の名前すら呼ばなくなった彼女。それが辛い現実から来ているのかは分からないが、嗚咽に喘ぐ口からは「息子、息子」の言葉がでるだけで、「レウード」の名前は一度も出て来なかった。自分の愛する息子は、もう二度と戻って来ない。彼女が愛情を持って育て、その成長を見守って来た息子は、親の意思はもちろん、社会の秩序すら破った、ただの犯罪者になってしまった。犯罪者に待っているのは、文字通りの断罪。「ウェステリアの社会から追放される」と言う、息子にとっては最大最悪の汚辱おじょくだけだった。


 ラフィナはその未来を哀れむあまり、狂気とまでは行かないものの、しばらくは獣のように叫いたり、床に散らばっている食器類を拾っては、それを壁に投げ付けたりしていた。

 

 ダリッシュは彼女の傍に行き、その身体をそっと抱きしめた。


「君の所為じゃない。アイツは自分の所為で、堕天使になったんだ。僕達の言う事も聞かず……。アイツが『ああ』なったのはすべて、アイツの責任だよ。文字通りの自業自得だ。ウェステリアの社会から」


「分かっているわよ、そんな事! 分かっているけど」


 それでもやはり、受け入れられない。彼女が「けど」の部分で止めた言葉には、それが表す言葉に以上に悔しさと切なさが滲み出ていた。


「親不孝は、辛いわね。アタシは、やらなくて良かった。やっている子どもは、そうでなくても。やられた方は、堪ったもんじゃない。心にポッカリ穴が明いちゃった」


「ラフィナ……」


 ダリッシュは、彼女の頭を撫でた。「妻」としてのそれではなく、「女」としてのそれを。妻子のいる男は、基本的には父親だが、その呪縛が弱まれば、また一人の男に戻るのだ。女性の神秘に心を震わせ、その美に酔うだけの獣に。男は、自分が思う以上に単純な生き物なのだ。


 ダリッシュは優しげな顔で、妻の頭を撫でつづけた。


「親の気持ちも分からないような奴は、屑だ。屑は、居場所を奪われて当然。君が罪悪感を抱く必要はないよ。アイツは、ずっと前に死んだんだ。あのを起した時にね。だから」


 気にする事はない。

 そう言わなかったのは、彼がやはり優しい天使だったからだ。


「大天使よ! 我が息子にどうか、地獄の苦しみをお与え下さい。縦の社会に従えぬ者がどうなるか? 僕には、その指導が足りませんでした。自分の息子も、満足に育てる事ができず。今回の事は、そんな僕達に対する罰なのでしょう。『お前は一体、何をやっていたんだ?』と、社会が僕に裁きを加えたのです。本来なら、そうなる前に止めるべきだった事を。僕は己の甘さから、息子の愚行を放任していた。言葉では止めても、その行為自体を禁じようとはしなかった。『いつか必ず分かってくれる』と、淡い期待を抱いていた僕が愚かだったんです。僕は、その甘さを恥じている。自分の妻をこうして泣かせてしまった事も」


「アナタ……」


「大天使様。僕は一生を掛けて、この罪を償います。たとえ、貴方に許されなくても。それが僕達にできる唯一の償いですから」


 彼は食堂の天井を仰ぎ、その頬に涙が伝うのを感じた。

 

 

 どのくらい逃げたのかは、分からない。ただ捕まりたくない一心で走りつづけ、視界に入る景色をすべて無視して来た。市場で果物を売る女性も、路地裏を住処にしていた乞食も、レウードにとっては流れる景色の一部に過ぎず、また後ろから聞こえて来る怒声(諦めが悪いのか、屋敷の奴隷達がまだ追い掛けて来る)も、胸の動悸を掻き消す雑音でしかなかった。

 

 レウードは胸の動悸を抑え、どうにか隠れられそうな場所を見つけて、そこに上手く隠れつつ、物陰から追手達の動きをそっと窺った。追手達はまだ、自分の事を捜している。ある者は、目を血走らせて。またある者は、聞くに堪えない罵声を飛ばして。彼の近くをたまたま歩いていた追手も、何処からか拾ってきた棍棒こんぼうを振り回して、自分の周りを何度も見渡していた。


 彼らは近くの仲間を見合い、お互いに捜索の進行状況を伝え合っては、またそれぞれに彼の事を捜しはじめた。

 

 レウードは、自分の顔を静かに引っ込めた。


「不味いな」


 ここに居ればとりあえず安心だが、それも長くは続かないだろう。追手は、捜索の仲間を次々と増やしている。町の天使達にはもちろん、常備軍の治安部隊(常備軍の派生組織。順番で町の治安を守っている)にも呼び掛けて、彼らに捜索の協力を頼んでいた。彼らが加わったら、お仕舞いだ。

 町の天使達はまだしも、治安部隊は捜索の専門家である。素人がどうこうできる相手ではない。彼らは如何いかなる時も鍛錬を怠らず、己が腕を絶えず磨いている。彼らがよそおう真紅のマントや、腰に帯びた鉄製の剣は、その強さを表す象徴になっていた。

 

 レウードは眉間に皺を寄せて、この状況を何とか打破しようと考えた。


 だが、「あっ!」


 物事は、そう上手くは行かない。状況の打破に意識が向いていた所為か、「敵」の接近にまったく気づけなかった。震える顔で、眼前の敵に目をやるレウード。敵は自分と同じくらいの少女で、最初はレウードの顔をじっと見ていただけだったが、その子どもっぽい身体が動いた瞬間、これまた子どもっぽい声で、部隊の隊長に「ファラスちゃん、こっちだよ!」と叫んだ。


 少女は腰の鞘から剣を抜き、隊長が来るまでの時間稼ぎと、眼前の堕天使に襲い掛かった。


 レウードは間一髪で、その攻撃をかわした。攻撃自体はとても素早かったが、全力の殺気が込められていなかったお陰で、攻撃の当たる寸前に上手く躱す事ができたのだ。


 彼は素人にしか使えない無茶苦茶な戦法を使いつつ、少女の前から何とか逃げだしたが、敵もやはり甘くなく、安堵したのも束の間、また新たな敵と出会でくわしてしまった。自分の正面に八人(少年四人、少女四人)、その左右にも八人(少年四人、少女四人)ずつと。自分の後ろを振りかえった時は、先程の少女も混ぜて、後方にも八人(少年四人、少女四人)の敵が現れた。


 万事休す。

 四方すべてが敵に囲まれている。


 彼らは年齢こそ彼と変わりなかったが、その鋭い眼光からは(一部、気の弱そうな者はいたものの)、彼を圧する空気、肉食獣の牙が感じられた。あの牙に噛まれたら一溜まりもない。腰の鞘から剣が抜かれる金属音は、その未来を予見させる脅しのように思えた。


 レウードはその脅しに怯んだが、すぐに「落ち着け」と思い直した。ここで怯んでいても仕方ない。今は、自分のできる事をするのだ。


 彼は、自分の正面に向かって走った。視線の先には、治安部隊の隊長が立っている。他の部下達とは違う青色のマントを装った少女が、肩の辺りまで伸びている髪をなびかせて、眼前の堕天使のじっと睨みつけていた。

 

 レウードは、その眼光に怯まなかった。彼女が発する「止まりなさい」の声にも。彼はそんなモノはお構いなしに、ほとんど自棄やけに等しい表情で、正面の少女に突っ込んで行った。


 ここで止まるわけには行かない。

 自分にはまだ、やる事があるのだ。

 この世界を変える、と言う。

「だから!」

 こんな所で捕まるわけには行かない。


 レウードは少女の身体に体当たりしたが……周りの部下達も脅威に思わなかったのだろう。彼女が命じた「手出し無用」に従い、堕天使が彼女に倒させる場面をじっと眺めつづけた。


 ファラスは地面に倒れる堕天使を見下ろし、その喉元に切っ先を近づけた。


「鬼ごっこは、終わりよ?」


「くっ」


 レウードは、彼女の目を睨んだ。生真面目が瞳に宿ったような目。事実、彼女の態度には、それを感じさせる雰囲気があった。性格的には純粋だが、それ故に盲信しやすい。彼女は多くの天使がそうであるように、ウェステリアの社会に染まり切った天使だった。


「同じ、か」の声は小さく、彼女の耳には届かなかった。


 ファラスは彼の鞄に目をやり、それを強引に奪い取った。


「粗末な鞄ね。中身は……」


「止めろ!」の声を聞くファラスではない。彼女は堕天使の言葉を無視し、内心で「どうせ、ろくな物が入っていないんでしょう?」と呆れつつ、鞄の中身を取り出した。


「筆記用具と雑記帳?」


 それには、周りの部下達も驚いた。

 堕天使の少年がどうして、そんな物を持っているのだろう? 


 彼らは不思議そうな顔で、互いの顔を見合った。

 

 ファラスは、雑記帳の頁を開いた。雑記帳の頁には、断罪所の裁判記録がびっしりと書かれている。また記録の横にも、「その裁判を見てどう思ったのか? 何を改めなければならないのか?」と言う感想や考察などが書き添えられていた。


「これは」


 一体? と思った瞬間、堕天使が勢いよく立ち上がった。


「返せ!」


 レウードは彼女の手から雑記帳を取り戻そうとしたが、今回は流石の部下達も黙っておらず、数人の少年達が動いて、彼の身体を取り押さえた。


「大人しくしろ」と、少年の一人。別の少年も「テメェはもう、逃げられねぇ」と言って、彼の腕を強く押さえた。


 彼らは堕天使の鳩尾みぞおちを殴り、その意識を気絶させた。


「まったく、手間を掛けさせやがって」


 彼らは気絶状態の堕天使に呆れたが、ファラスが堕天使の雑記帳を(かなり集中して)読んでいる光景に驚くと、彼女の周りに集まって、その肩を「おい?」と叩いた。


「どうしたんだ? 隊長」


 ファラスは、その声に「ハッ」とした。


「い、いえ、何も」


 ただ、の言葉は発しなかった。それを言ったら、周りのみんなに勘付かれてしまう。自分がこの雑記帳に……たぶん、「興味」と言って良いのだろう。それに近い感情を抱いてしまった事に。「善」と「忠」を重んじる彼女としては、このはどうしても隠したかった。

 

 ファラスは雑記帳の頁を閉じ、何食わぬ顔で部下達の顔を見渡した。


「男子達は、断罪所に堕天使を運んで。大天使様への報告は、その時にお願いします」


「それは?」と、隣の少年。彼は、彼女の持つ雑記帳を指差した。「どうするの?」


「これは……」


 少し考えたが、すぐに嘘を思い付いた。


「検閲に回さなきゃならないから。これも、私が預かります」


「分かった」


 彼らは彼女の嘘を信じ、少年達は町の断罪所に堕天使を運んで、少女達は平常時の職務に戻った。

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